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讃岐

4月18日(第二十 三日)

夜中に何度か目を覚ます。国道もこの辺りは深夜になるとほとんど通行がなく、静寂の中に窓の下から聞こえて来るせせらぎの音は心を和ごませる。3時に起きてサンドイッチ、稲荷寿司、太巻き寿司の朝食を始めるが、とても食べきれるものではない。前二品に集中し、太巻きは持って行くことにした。道中食べるには手に油が付かない方が良い。

隣りの若い衆は4時頃起きて部屋に明りを点けた。起き出すのかと思ったが、トイレから戻ると明りも消えてしまった。出発するために彼の部屋の前を通ると曇りガラス越しにテレビが点いているのが判る。音はしないからイヤホンを持ち歩いて旅しているのだろうか。

雲辺寺への尾根道を行くと、向こうの尾根から朝日が登って来た。シャッター速度三分の一秒で手ブレしている。

雲辺寺大師堂。変な立て看板や小坊主がいなければ余程清々しい風景になるのだが。

雲辺寺本堂

大興寺

一階に泊まった老夫婦は既に起きており、夫人と挨拶する。母屋の厨房にも明りが灯っていた。この日も5時にヘッドランプを装備して出掛ける。佐野の集落を外れる辺りで夜が明け、山道も始まる。まずは目論見通りのスタートだ。

松山自動車道の建設により本来の遍路道は姿を消し、コンクリートで固められた歩道が上り下り紆余曲折して自動車道と交差する。しかしそれもすぐに終わり、尾根筋 の樹林帯を行く気持ちの良い山道を一気に登った。

東の尾根から太陽が昇り、杉の樹林を通して日光が射して来る。この辺りならば空気は一日中爽やかであろうが、取り分けこの時間帯は清々しく感じる。400メートルの標高差は「遍路転がし」を登る意気込みからすると呆気なく終わり、曼陀峠から雲辺寺へ通じる舗装道路へ出てしまった。

車のまったく通らない車道を行くことおよそ半時間、杉木立の向こうに雲辺寺の石柵が見えて来た。それほど登ったとも意識せず標高が210メートル上がり海抜高度900メートルに達している。山門をくぐったのは6時35分だった。

境内には六十代の男女三人いるだけで杉木立のあいだに建つ伽藍は荘厳な静謐を保っている。彼(女)等は拝むでもなく手持ちぶさたそうにうろうろしていた。納経所が開くのを待っているのか。ロープウェイが運行されるのは7時過ぎと思われるから車で来たのだろう。

団体はもちろんのこと個人の参拝者もしばらくは訪れることがなさそうで、早朝の境内に漂うしっとりと落ち着いた雰囲気に、つい長居をした。この日の宿を決めておらず、山を下ってから適当に善通寺界隈を探そうと思っていたため緊張感を欠いていたせいもある。

10分(遍路の方からは「この程度を長居とは!」のおしかりを受けそうだが、「通し歩き」の忙しない道中はせいぜい5分で次へ向かっていた)ほどを境内で過ごし大興寺へ向かった。テレビ中継アンテナを過ぎ、山道を下り始めてウエストポーチから太巻き寿司を取り出し食べる。立ち食い、歩き食いは嗜みに欠けるとも思うが、まず人に会うこともない山道だ。

足の快復はだいぶ進み、健常時の七、八割に戻っていると思うが、やはり降りを長いと感じる。心中「終わりのない降りはない」など愚にもつかぬ事を念じながら黙々と歩き続けた。徑は歩き易く、視界の良いところがあちらこちらにあり、ハイキングコースとしては最上級かと思う。二時間ほどで舗装道路へ出ると、―― 舗装道路は味気ない ――などと身勝手なことを考えるのであった。

贅沢をいわなければ天気は良いし風もなく、そして行き交う車もほとんどない車道歩きは長閑なものだ。田畑で働く姿が少ないのは日曜日のせいか。そう思って眺めると、路傍で立ち話する人達も、どこかのんびりした雰囲気で、それがこちらにも伝染して来る。 大阪の友人に電話して22日の夕刻に会う約束をし、別の友人達とは23日の一献を決めた。これまでの「自分一人の予定」が他人との関りを持ったものになったわけだ。

半年前世話になった民宿大平の横から坂を下って大興寺の山門へ向かう。実のところこれは遠回りで、民宿の手前にある駐車場を抜ければ本堂のすぐ裏に出ることが出来る。「お参りは近いからといって裏口から入ったりせず、キチンと山門から」なる趣旨の掲示があったりするが、「スポーツ八十八ヶ所 」にしてみれば意に介するものではない。それでもなお山門へ廻ったのは「手抜きはしない」にこだわったためだ。大して意味のあることではないが。大興寺着は9時15分であった。

境内にはテントが張られ饂飩のお接待をやっている。(毎週なのか不明だが)日曜日の恒例らしい。饂飩は好物だし増して此処は讃岐、そして途中太巻き寿司を食べたとはいえ朝から四時間以上歩き、空腹感は強い。しかしお接待の饅頭は甘いから食べずに、ここで饂飩に手を出しては筋が通るまい。足早に通り過ぎる。

神恵院

観音寺

大興寺から退出する時は裏の駐車場を抜けた。これも余り理路整然とした話しではないが、―― 遍路の正規ルートをなぞって行くならば、この程度は許されるか ――の甘えだ。

前回は夜明け前に暗闇の中を神恵院へ向い、辛うじて大筋を間違わずに進んだが、昼光に照らされて周囲に目を配りながら行くと、見落としていた保存協会の道標が続出した。歩行距離そのものはさしたる違いはないが、狭い路地を抜けたり、思わぬところで曲がったりと、遍路道廻りを楽しむことが出来た。しかしそれもしばらくの間で、高松自動車道と交差する辺りから味気ない郊外道路になってしまう。

退屈を我慢して歩き続け、予讃線を踏切で渡ると観音寺の市街も近い。合同庁舎の前を通り過ぎると、歩道はカラフルなものに替わり町興しの意気込みが感じられる。しかしそれとは裏腹に人通りが疎らなのは日曜故なのか。財田川を渡ると神恵院までは指呼の間だ。

前回、此処まで順調に来て琴弾八幡宮の方へ迷いこんでしまったのは記憶に新しい。財田川の支流に沿い丘の麓を行き無事11時4分に境内へ入った。

此処は同じ境内に二つの札所がある、―― 八十八ヶ所の中でも他には無い ――珍しいところで、納経所は一緒になっているらしい。「二札所の納経が一緒にできる、お遍路さんにとってはありがたい札所」との紹介を見掛けたことがあるけれど、なにが「ありがたい」のか良く理解出来ない。「便利」「手軽」と「有り難い」は違うものだと思う。

ともかくこの「ありがたさ」故か、はたまた日曜のせいか、境内はこれまで廻って来た札所より際だって人口密度が高い。また白装束を着けない一般参拝者が多いことも目立った。寺を出る時は人波に流されるようにして参道を行く。

財田川堤上での自写像

まだ二十数キロしか歩いていないが昼飯のことを考える。横峰越え、三角寺越えと二日連続、昼飯抜きで頑張ったから少しは息抜きも許されよう。そんな気持ちで本山寺へ向かった。

財田川に沿った県道はそこそこ交通量が多いものの、吹く風が排気ガスを運び去ってくれるのか。半時間ほど歩いて前方にうどん屋の看板を見付けた。その名も高き讃岐うどんを一度くらいはそれなりの店で試したい。この店がどの程度に格付けされているかは判らぬものの、一応は専門店らしい。贅沢をいうつもりはないので暖簾をくぐった。

―― 12時前ならばそれほど混んではいるまい ――と考えたのは甘く、ざっと見たところでは空き席はない。行列をつくって食事するなどまず我慢がならないし、そしてそれ以上に嫌になったのは店内をうろうろする白衣姿だ。バス遍路の団体が入っているらしい。このところ歩き遍路以外の白衣姿にはアレルギーが形成されたようで、なるべく近付かないことにしている。この店を忌避する要因が二つも揃えば充分で、直ちに踵を返した。

うどん屋のところで県道はそれ、財田川沿いの道は堤防の上を行くのんびりしたものになる。右手に予讃線の貨物列車が見え、間もなく前方の鉄橋を渡って行く。ポツンと見えていた五重の塔が次第に大きくなり、老人ホームの前を過ぎると間もなく山門だ。12時7分に本山寺の境内に入った。

本山寺

此処にも大勢の参拝者がいるのは日曜のせいだろうか。つい数時間前、森閑とした雲辺寺にいたのが遠い過去であったように思われる。相性の悪いところに無理してい続ける必要もなく、早々に弥谷寺へ向かった。

遍路道が国道に合流して間もなく、「一平食堂」と白抜きされた暖簾が翻っているのを見付 けた。カウンターにテーブル席、奥の方に小上がり、カウンターのガラスケースには刺し身のサクが並ぶような「大衆」よりはランクが上の食堂らしい。

冷や酒とイカの一夜干を焼いたものを注文し、酢の物の品揃えを訊いて〆鯖を追加する。他に客もいなかったのでオヤジに携帯電話の使用を許して貰い宿探しに掛かる。

この時刻まで予約をせずにいたのは、―― 善通寺は宿が多いし、日曜日にビジネス客も行楽(遍路)客も少ないだろう ――と舐めていたせいだ。しかしいざ「同行二人(別冊)」のリストを見ながら順に当って行くと、善通寺(寺)付近は全滅で後退を余儀なくされた。

曼陀羅寺の隣りにある門先屋旅館(その名もモンサキヤ。しかしこの時点ではカドサキヤと読んでいた)に祈るような気持ちで掛ける。あっさり「ハイどうぞ」ということになり思わず訊き返したりしたが、記憶を辿ってみれば確かに大きな宿(帰宅後の調査では23室123名収容)であった。

松山から順調に来た三段跳作戦だが、いささか着地に失敗したようだ。明日以降また頑張ろうと決意して昼酒の残りを飲む。三杯にイカ焼き、〆鯖で2,290円。

北へ向かって進む。国道に沿って行くが、国道以前の旧街道を歩けるところが多い。ちなみに「同行二人(第六版)」にはなぜかこの6キロほどを国道を行くように表示されている。実際に歩けば保存協会の道標が旧道に導いてくれるであろうが。

城原ではっきり国道と離れ、正面の弥谷山が次第に大きくなる。中腹辺りに見える建物らしきものが弥谷寺であろうと目標にした。次第に道は上り坂になり、道の駅「ふれあいパークみの」がある。

此処のトイレを使用。「拝まない」「賽銭をあげない」は通し歩きの方針だが、札所のトイレには度々お世話になり、いささか申し訳ない気持ちがある。以前トイレの神様に対する賽銭箱があった時は、躊躇せずに100円投げ込んだものだが、その後目にしたことがない。そんな訳で公共の施設で用が足りるならばそちらを選んだ次第だ。

上り坂はその勾配を次第に急なものに変え、やがて八十八ヶ所としてはこじんまりした駐車場に出る。此処からは階段だ。俳句茶屋なる名前は洒落た「休み処」の前を通り過ぎると、階段は急なものになる。喘ぎながら行く年寄りを横目に一気に登った。正直なところそれほど楽ではなかったが、人目があるとついスタンドプレーに走る。本堂の前に着いたのは3時半を僅かに廻っていた。

見晴らしは良いものの景色そのものにアクセントがない。カメラを取り出すこともなく降り始めた。大師堂は建物の中にあるらしいのでパスしてそのまま次へ向かう。次が曼陀羅寺か出釈迦寺か迷いつつ。

二つの寺は600メートルしか離れておらず、どちらから廻っても距離に大差はないが、僅かながら七十三番の出釈迦寺から七十二番へ辿る方が短い。そんなことでこの順に廻る遍路は多いし、「同行二人」の巻末リストもそのようになっている。そもそも「お参りする」観点からすれば順番などどうでも良いことかもしれないが、「スポーツ八十八ヶ所」 の定義などを夢想すれば、おのずと順路にもこだわりが出てしまうのだ。結局73→72を選んだ。

出釈迦寺

出釈迦寺の前から。右端に見えるのが甲山(こうやま)。

曼陀羅寺

弥谷寺から山道を下り高松自動車道をくぐる。僅かに上ると上池と大池に挟まれた農道になる。これを通り抜けてぶつかった国道をしばらく歩かされるが、まもなく右にそれると曼陀羅寺は近い。茶店があり、そのそばに大型バスが停まっている。曼陀羅寺を左に見ながら5分ほど緩い坂を上ると出釈迦寺だ。4時36分に着く。

山門脇のビデオが視聴者の有無にかかわらず寺の縁起を延々と流し続けている。映像は視線を背ければ見ずとも済むが、音は耳を塞いでも響いて来る。流されているプログラムが悪いとは思わないが、相手かまわずの大音響無差別放映をする無神経さに驚く。スペインのカテドラルなどでもう少し簡易ではあるがこのような視聴覚設備を目にしたことがある。あくまでも聴きたい人が操作して、イヤホンを利用する。それが常(良)識であろう。ビデオの垂れ流しはこの寺に限らないが、もう少し気配りが欲しいなどと「スポーツ八十八ヶ所」が思うのは僭越であろうか。

出釈迦寺を後にして、先程の坂道のすぐそばに平行する道を下る。門先屋を過ぎれば隣りが曼陀羅寺の山門だ。4時45分着。

時刻もまだ早いので境内を一周する。しかし興味を惹かれるものも見付からぬまま山門を出て門先屋へ向かった。鉄筋コンクリート三階建の堂々たる建物だが、今日の宿泊者は団体一組と数名で、規模からすればガラガラの状態だ。

案内されたのは一階の奥まったところで、団体のスペースとは離れている。空いているからできるのであろうが、このような気遣いは有り難い。四畳と六畳が繋がっているけれど、「次の間」といったものではなく、四、五人のグループが来ればそのまま床を並べるのであろう。仲居さんに、―― 明朝、早立ちするので朝飯替わりのオニギリ ――を頼んだ。コンビニエンスストアの類いがなく、弁当の調達に失敗している。

団体は到着前らしいので、空いている間を逃さぬように、急いで風呂へ入る。風呂上がりにフロントで缶ビールを買って喉の渇きを癒した。夕食までの一時を、地図と札所距離表を眺め、電卓を叩きながら今日の「着地失敗」を如何に挽回出来るか思案する。 22日の昼までに坂東駅に着かなければならない。

此処から約50キロが根香寺でその付近に在る宿を「同行二人(別冊)」から探す。該当するのは民宿みゆき荘ただ一軒。しかし電話してみると久しい以前に廃業したらしく、今はまったく関係ない人が出た。同じリストを見て時々「間違い電話」が有るらしい。平謝りにあやまり方針を変更した。

一宮寺(66キロ先)を目標にし、行けるところまで行ってタクシーで高松市内に泊まる。市内に旅館、ビジネスホテルは幾らでもあるし、どうせタクシーを利用するから場所の制限もほとんどない。翌朝を含め二回のタクシー利用は予定外の出費だが致し方ない。

目標が定まり、改めて此処からの距離を計算して地図に書き込んでいった。すると面妖なことに一宮寺まで56.3キロとなった。電卓をたたき直し、札所距離表を再チェックし判明したのは善通寺から金倉寺への距離を転記ミスで8.5キロ長く扱っていたことだ。実際の距離が短くなるから22日ゴールインは楽になるが、確率としては同じだけあり得た、―― もし短く間違えていたら ――を考えると冷や汗ものであった。午前中にした約束を夕方、反故にしなければならない。

6時から大広間で夕食になる。団体は二十名規模のこじんまりしたものらしい。その隣に設けられた席だが、あいだに衝立が置いてある。仲居さんの話しでは、―― 焼き魚があちらとはちょっと違ったので ――との話しであった。どちらに配慮した結果か判らないが、ともかく団体席と少しでも隔離されている方が良い。

隣りの部屋を使用している夫婦が入って来た。定年を過ぎたような年頃で、車で廻っているらしい。余程この宿が気に入ったらしく「本当に良いところだ」を繰り返していた。

これはいささか意外で、最初は冗談か皮肉かと思ったがそうではないらしい。確かに悪い宿ではない。設備も豪華とはいい難いが、コストパフォーマンスを考えれば充分に高い。食事や仲居さんの応対も良かった。しかしまず鉄筋コンクリート、そして大規模宿泊施設が好きになれない。好みは奥浦のみなみ旅館や窪川の美馬旅館のような旧い木造、あるいは民宿岡田のようなこじんまりして主客の人間関係が濃厚なところだ。

それからするとこの夫婦はまったく違った感覚の持ち主らしく「今度は子供達皆を連れて来たいものだ」とその入れ込みぶりを言葉に表していた。

冷や酒を5杯注文すると、ワンカップタイプの酒が並んだ。評価の分かれるところであろうが、このような明瞭簡素は好むところだ。そしてメニューで特筆すべきは一通りの料理以外に、シーフードカレーが用意されていたことだ。旅の日数が重なると、どうしてもいわゆる「旅館メニュー」に飽きてしまう。セルフサービスで好きな量を食べられる此処のカレーは、晩酌後の食事としても有り難かった。

早立ちに備えて清算。一泊夕食が5,775円と酒五杯が1,750円であった。

―― 43.2キロ ――

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4月19日(第二十 四日)

夜中に何回か目覚めると常に硝子戸越しの雨音が聞こえる。土砂降りではないようだがかなり雨脚は強そうだ。いよいよ出発時刻が近付きレインスーツを取り出して、余りに変化のない雨音を訝しく思い硝子戸を開けてみる。雨は降っていない。塀を一つ隔てた曼陀羅寺の手水所から響いて来る水音らしい。拍子抜けした気分だが、取り敢えず雨中行進せずに済むことを喜ぶ。

5時に出掛けようと玄関で靴紐を結んでいると、トイレから戻る足音が背後で止まった。振り向くのも億劫で、そのまま結び終えて立ち上がった時、「お気を付けておいで下さい」の声が掛かった。慌てて振り向くと佇んでいるのは宿の主らしい。不意を突かれた狼狽から「ハイ」の返事に妙な力が入ってしまった。

判り易い県道経由を選び、県道からの分岐は記憶も助けてくれて無事に甲山寺に辿り着く。5時半近いが曇天のせいか辺りは薄暗い。本堂から大師堂の前へ廻った時にとうとう降り出した。ザックにベルトで着けてあった折り畳み傘を外す。しかし本降りになりそうな気配に、庫裏の濡縁を拝借して雨支度をした。

レジ袋を取り出し、ブレストポーチの中味をこれに移してからポーチにしまい直す。天気予報が高い確率で降雨を告げていたにもかかわらずこの程度の準備を宿で済ませないで、手抜きした己の甘さに思わず舌打ちした。暗い屋外で慌てて詰め替えなどするのは物をなくす危険性も高い。努めて冷静さを失わぬように支度を終え、ようやく明けた雨降り道を善通寺へ向かった。

市街地に入っても雨空のせいか人通りがない。それでもさすがに広大な善通寺境内にはチラホラと参拝に訪れる地元の人達がいた。巡礼者と異なり声高に読経することはないのが慎ましく感じられる。大師堂の前でも静かに祈りを捧げる小柄な中年婦人がいた。しばらくして去って行くのを見送ると、境内の売店に姿を消した。朝一番にお参りをして、開店準備にかかるらしい。

善通寺本堂

金倉寺

道隆寺

郷照寺

本堂のある東院を抜けて参道商店街に出る。昨日「満員」と断られた宿が次々目に入り、どこもひっそりしているが7時前だから当たり前か。突風にあおられて傘をさしていることに困難を覚える。強硬に歩き続けることも考えたが、―― 雨風を避けることが出来るうちに ――レインスーツに着替えることにした。風下の商店軒先を拝借する。甲山寺の雨支度に次、この着替えでつまらぬ時間をロスした。

商店街を抜けた辺りで土讃線をくぐってすぐに国道、しばらくして高松自動車道をくぐると間もなく金倉寺。7時をちょっと廻っていた。納経所は既に開いているが、境内には参拝者もなくひっそり静まり返っている。

道隆寺への道は金倉寺を裏に出たところで道標を見失い迷ったことがある。自転車で通り掛かった老人に尋ねると、―― 昔の道はちょっと判り難い ――と呟き、自転車を降りると先に立って案内してくれた。恐縮して、―― 後はなんとか行けると思います ――と繰り返したが、結局4キロを徒歩で行き、道隆寺の山門前まで導いてくれた。破れた麦藁帽子を無造作に被る朴訥な風貌と、自転車を押しながら行くのに、ともすればこちらが置き去りにされかねない速歩が印象深かった。

葛原正八幡神社を過ぎた辺りで、ズッシリと重そうなザックを背負った中年男性遍路に追付く。善通寺市内に泊まったのであれば、何ゆえ混んでいたのか話が聞けるかと挨拶の後に尋ねてみた。「マンダラ」の返事を聞いて反応出来ずにいると、すぐに「善根宿です」と教えてくれた。

荷物に比例して足取りも遅い彼に別れを告げて先を急ぐ。雨はぱらつく程度までになるが、傘を閉じると間もなく強まり、そんなことを繰り返すうちに道隆寺に着いた。7時58分。ようやく雨が上がりそうな気配で、 レインジャケットをしまい、傘をベルトでザックに留める。

道隆寺のすぐ裏手が県道で、この味気ない道を延々歩かされる。前方遥か彼方に遍路らしい後ろ姿を見て、せめてもの励みに頑張る。しかしその人影が次第に大きくなり、―― そろそろ追付くか ――と思った頃、道路脇に在ったコンビニエンスストアへその姿を消した。会ったところで仕方もないが、何となく肩透かしされた気分になる。

丸亀市街を通過したのはちょうど通勤時間帯だった。勤め先へ足を急がせる人々とすれ違いながら、何か場違いな所へ置かれたような落ち着かない心持ちになる が、それも僅かなあいだで通過。

郷照寺には9時半に到着し、休まず高照院へ向かう。再び雨が降り始めた。坂出駅が近付くと、しばらくのあいだはアーケードで雨を凌ぐことができるが、それも長くは続かない。

アーケードを出た辺りで食料品店を見付けてサンドイッチでもないか訊いたが外れ、しかしすぐ先にコンビニエンスストアをが在り、こちらでエネルギー補給をする。

歩みを止めずに食べながら行くと、食べ終わった頃には坂出の町外れに到達していた。予讃線の踏切を渡り、山裾に沿って集落の中を抜ける。高照院が間近になってのY字路は半年前に暗闇の中でどちらへ行くべきか迷ったところだが、昼間通過してみれば、―― なんで迷ったか? ――と思う。左を選んで1分で白峰宮に着く。その影に隠れるように高照院の本堂と大師堂があった。10時57分。

境内には参拝者もほとんどおらず、一人自転車遍路らしい中年男が雨宿りしながらラジオに聴きふけっていた。彼の横顔に何となくよそよそしいものがあり、挨拶もせずに寺を後にする。

国分寺

お遍路転がしから国分寺方面を振り返る

国分寺までの6.8キロはただでさえ魅力に乏しい道だが、傘をさしての歩行はそれに輪を掛ける。せめてもの救いは国道と近接しながらも平行した道路が長く続いたことか。とうとう歩かされた国道も20分ほど歩いて左折すると旧街道を思わせる家並みが続く。10分少々で国分寺に到着したのは12時16分だった。

小休止する。白峰山への登りは一応「お遍路ころがし」の一つに数えられ、加えて天気予報が強風の可能性を示唆したことから、レインジャケットの着用を逡巡したためだ。しかしそれも僅かなあいだで、すぐにそのまま歩き出した。その時点で風はほとんど吹いていないし、ジャケットを着用してオーバーヒートになる方が嫌だったためだ。

国分寺を出て郊外住宅地のあいだを20分ほど行くとお遍路ころがしの登り口に至る。無料休憩所として提供されている小屋が在り、薄暗がりに二人ばかりの人影が動いた。どうやら自転車遍路の人達が雨宿りしているらしい。良く見えないので曖昧に挨拶して通り過ぎた。

この標高差240メートルばかりの登りがどうして難所と伝わってるのか良く判らない。道は良いし登るに連れせり上がる背後の景色も眺め甲斐が有る。前二回同様に気持ち良く歩くことが出来た。しかし四年前に此処を通過した時、登りの終点を目前に道端に横たわり「モウ歩くのはイヤだ」と連れに向かって駄々をこねているオバサンを見掛けた。歩き慣れない人には辛いのかもしれない。

白峰寺

車道に出ても相変わらずの降ったり止んだり、しかし心配していた風は出ない。ほとんど車の通らない道を足早に行くと、路肩に駐車した車から大音量の歌謡曲が聞こえて来た。何事かと思って注視すると、中年夫婦がカラオケの特訓中(?)であった。確かにこの辺りならば誰はばからず唸れるというものだ。

古田の自衛隊屯所脇から山道を経て白峰寺へ向かう。道はかなり泥濘、次第に靴の中も濡れてきた。途中すれ違ったのは、独りで歩くオジサン遍路だけだった。天候も良くないが宿との関係を考えると、この時刻には歩く人が稀なのかもしれない。白峰寺へ着いたのは2時だった。

本堂へは数十段の階段を登って行く。途中に干支毎の守り本尊をまつった堂がある。「守り本尊」といった考え方が好きではないから、それが十二もあると煩わしく感じられた。足早に通り過ぎて一番上の本堂、そして大師堂 へ行く。

参拝者は二人だけで雨の大師堂はしっとりとした雰囲気が好ましかった。しかし下のほうから団体が接近するざわめきが響いて来る。彼等を迂回するように白峰寺を後にした。

古田までは先程の道をそのまま逆に辿り、さらに山腹を上下曲折しながら行く道が半時間続いた。以前歩いた時より長く感じるのは雨のせいもあるが疲労しているのであろう。「ようやく」といった感じで県道に達し、そこからほどなく食堂「みち草」が在った。

四年前に利用したから此処の存在は意識していたけれど、四年間に廃業した店も多く、この人通りの少なさに休業している可能性も高いと思っていた。そんなことで昼飯抜きを覚悟していたが、いざ翻る「食堂」の幟を見ると即座に、―― 濡れた靴下を替えてその間に一杯 ――へ気持ちが変わっていた。

店に入ってオバサンに、―― 冷や酒とレジ袋一つ ――を分けてくれるよう頼み、一口酒を含んでからスパッツをたくし上げて靴を脱ぐ。表へ出て靴下を絞り席へ戻って靴下をレジ袋に放り込み、酒を飲む。片隅に相変わらず置いてあるオデン鍋から厚揚げと蒟蒻を取り . . . .。飲みつつ、食いつつ、靴下の交換と始末をするのは忙しないことおびただしい。

鬼無への下り。ようやく雨は上がったが靄が残っている。

なんとか20分で二杯の酒とそれをこなし、―― 三杯が定めだが、今日は昼飯抜きのはずが変わったのだから ――と切り上げることにした。雨は降り続いているが、しばしの休息と乾いた靴下の快適さで気持ち良く歩き出す。

五色台みかん園のところで根香寺から一宮寺へ行くには此処から鬼無(きなし)へ下れば良いことを確認する。半年前は根香寺から香西寺へ下ろうとして道が判らず、大幅に迂回して時間を浪費した苦い記憶がまだ鮮明にあった。

根香寺へ着いたのは3時半を廻っていた。大型バスが二台ほど駐車場にいて、おまけに地元中学の団体が五色台方面から歩いて来たのとぶつかり、境内はかなりの雑踏だ。本堂と大師堂をチェックして早々と山門の方へ退避する。

門を出るところでオジサン遍路と言葉を交わした。先程白峰寺の手前で会った人かもしれない。―― そろそろ上がるのでしょうか? ――と天候が第一の話題になるのは、それだけ切実に感じているからだろう。

「希望的予測」であったが幸いに的中し、山を降り始めてしばらくで雨は止み、靄にその姿を朧にした高松が望見される。車道を外れた部分もコンクリートで舗装された農道で、趣を別にすれば歩き易い。取り分け泥濘んだ道で苦労しているから有り難かった。

一気に下って予讃線を渡り、田圃の中を右左折を繰り返して香東川に達する。沈下橋でこれを渡って一宮寺まで行けることを確信した。それから市街地の中を行くこと約一時間、辿り着いたのは6時半を廻っていた。

既に無人となっている境内を、ほとんど立ち止まることもなく通過する。山門から出てすぐの田村神社一の鳥居から宿泊予定のイーストパーク栗林へ電話して、予定より多少遅くなることを告げてからタクシー会社の電話番号を訊いた。しかし、―― そちら方面の会社は判らない ――から地元で訊いてくれの返事に、改めて周囲を見廻す。

通行人はいないが筋向かいにローソンが在る。此処で訊き直すとレジにいた青年は、カウンターの下からノートを取り出しすぐそばにある一宮タクシーの番号を教えてくれた。システム的にこのような対応は整備されているようだ。

数分で到着したタクシーで宿へ向い、チェックインを済ませると直ちに部屋で濡れたものを辺り一面に拡げて乾かす。7時半を廻っていたのでそのまま食事へ出掛けた。フロントで訊くと近所に数軒の居酒屋が在る。お薦めは、―― 「大」という店に行かれる方が多いようです ――とのことだ。

百メートルも離れていない「大」は肝っ玉母さん風の女将が一人と常連らしいオジサンが一人カウンター席にいるだけだった。冷や酒にお薦めメニューから一品(なんであったか失念)、さらにオジサンが揚げ出し豆腐を注文したのでこれに便乗した。一時間足らずで五杯飲み、軽く食事をして3,400円だった。

 

―― 57.7キロ ――

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4月20日(第二十 五日)

前日、雨にもめげず頑張って58キロ歩いたボーナスとして(それに計算違いの余禄もあり)今日は30キロ少々歩けば良い。実に3月27日のスタート以来、初めてのんびり歩ける。そんなことで早起きも必要なかったが、習慣になっているから3時になると目覚めていた。

喉の渇きを覚えてフロントのある二階へ自動販売機を探しに降りた。無人のロビーは照明を落としている。それが軽食・喫茶コーナーの片隅に置かれたノート型コンピュータのモニターが放つ光を目立たせた。インターネットに接続出来、自由に使って良いらしい。

4月5日以来メールチェックも出来ずに旅してきた。実のところメールをくれそうな相手は、おおむね旅に出ていることを知っているから、スパムメールかカード会社からのお知らせぐらいしかないだろうと思っていたが、いざメールボックスを開いてみると、前日の夕刻にそれも「今どのあたりですか?」と旅の進捗状況を尋ねるものがあった。

タイミングの良さに嬉しくなり、―― 善通寺を通過し屋島に向かうところです。22日には一周完了予定 ――などと返信する。肝腎の飲み物はフロントフロアではなく、各宿泊階に用意されていたが、「怪我の功名」とでもいったら良いのか。

6時半にチェックアウトする。料金は4,950円。7時まで待てばホテルの朝飯が食べられるが、今日は大いに乱れて朝飯・朝酒、昼飯・昼酒で行くつもりだ。タクシーを呼んで貰い昨日のローソン駐車場まで行く。

ローソンでお茶とキ シリトールガムを買う。レシートに「6:49」と印字されているので、これを出発時刻とみなして良いだろう。味気ない道をテクテク歩いて、一時間ほどでイーストパーク栗林の裏手を通過した時は、さすがに馬鹿々々しく思えたが仕方がない。

この辺りからが高松の市街で、朝食を提供する店がチラホラ出現する。しかし大衆食堂的な店ではなく、喫茶店のモーニングサービス的なところばかりだ。「旅の恥は掻捨て」の図々しさはかなりあるものの、さすがに出勤途上忙しくモーニングセットを摂る人々のあいだで「冷や酒を一杯」は試す気になれなかった。

栗林公園のそばで国道を横断する時、交差点に貼り着いたような掘立小屋にラーメンの提灯がぶら下がり、これに明りが灯っているのを見付けた時は、―― 辛抱した甲斐があった ――と勇躍これに向かう。しかし店に一歩踏み込んでみると随分場違いなところだった。

カウンター席六つほどの狭い店内には、カウンターの向こうに主らしいオバサン、手前には常連らしい男女四人が酎ハイやホッピーのグラスを前に、もうもうとタバコをふかしている。看板になったあと常連が徹宵飲んで朝を迎えた様子だ。頼めば酒は飲めそうだが、雰囲気が馴染まないし、何よりも煙の酷さには1分といえども我慢出来ない。闖入した詫びを述べて早々に退散した。

この店が最初で最後の営業中大衆食堂で、後はモーニングサービスばかりだ。いつの間にか高松の市街を出てしまった。

出れば国道を行くのだからドライブイン的なところがあるだろうと期待の方向を替える。しかしこれもまったくの誤算で、広い駐車場を備えた店は次々出現するがどれも閉まっている。和、洋、中華、焼肉とジャンルは様々だがどこもコンセプトがファミリーレストラン的らしく、従って「ファミリー」の出没しない朝方は営業しないのだ。いつの間にか9時を廻り、朝飯時刻は去ろうとしている。詰田川、春日川、新川と渡り、屋島もそう遠くはない。

橋の袂付近に養老の滝と吉野家の看板を見付けた。この際、好き嫌いをいう余裕はない。せめて酒場らしいところと養老の滝まで行くが開店前、50メートル後戻りして吉野家に入った。

吉野家はあまり利用したことがないし、酒を飲んだこと、イヤ飲もうと思ったことさえない。そんなことで朝っぱらから酒を提供しているのかも不明で、かなり腰の引けた状態でザックも下ろさず、―― 酒は飲めるであろうか ――訊いてみた。冷や酒ならあるらしい。カウンターの一角に席を占め、改めて冷や酒と豚皿大盛、お新香を注文した。

屋島寺への参道から高松を俯瞰する

屋島寺境内

徳利型のガラス一合壜がすぐに運ばれて来る。飲みながら落ち着いて店内の様子を観察した。三十席はありそうだが今は四、五人が黙々と食べている。良く見ると中に一人、本を読みながらビールを飲んでいるのがいた。―― 色々な人がいるものだ ――と自らのことは棚に上げてまじまじとみる。

ごぼうサラダを追加し、さらに一本飲む。あまり過ごすと昼酒に差し支えるから、二本で終わりにしてカレー丼を食べる。BSE騒動以降の新メニューらしい。勘定は締めて1,550円だった。

昨日と打って変わった好天気は有り難いが、屋島寺への登りのように南斜面を行き、それも樹林が少ないと汗ばんでシャツがジットリ濡れる。あまり贅沢をいうと罰が当たりそうだから、時々振り返って眼下に拡がる景色を清涼剤替わりにして頑張る。歩行予定距離が短いことは既に述べた通りだが、だからといってあまりだらだら歩くと反って疲れてしまうのだ。屋島寺に着いたのは10時48分だった。

山を降るのに、―― 東斜面を行く道があるらしい ――とは民宿岡田屋のオヤジさん情報だが、下り口が判らずおとなしく来た道を引き返す。一気に下って琴電屋島駅前の広瀬食堂へ寄った。特筆すべきことはない平凡な店だが、縁があるのか二回此処を利用している。最初は四年前に昼食を摂り、次回は半年前に宿泊した。六十を過ぎた夫婦で両方を切り盛りしている。

時分どきにはまだ早いせいか、食堂に客はいなかった。実のところ朝飯・朝酒から大して時間も経っていないから飢えも渇きもなかったが、冷や酒を頼みオデンを二品選んで始める。

飲みながら昨年世話になったことなど話すと、向こうも暇なせいもあり世間話が続いた。オカミサンが、―― 子育てに追われて好きなこともしないで年を取っちゃった。アンタは四国を廻ったりやりたいことが出来てうらやましい ――という。色々あるが基本的に「やりたい放題」身勝手を通しているから、多少なりとも忸怩たる思いで相槌もあやふやなものになる。

八栗寺。背後に五剣山。

志度寺

長尾寺

二杯目を頼んで話題を気楽なものに切替える。昼酒はこれで切り上げメニューをみてうどん(小)を頼んだ。勘定は1,320円。「気を付けて . . . .」の声に送られて店を出る。

二杯で控えたのが良かったのか、ペースを落とさずに進むことができる。半年前は夜明け前の闇、それも小雨降る中を道を間違えないよう慎重に歩んだが、今回は余程気楽に行ける。ケーブルカーの駅を過ぎて、急な登りも一気にこなし八栗寺に着いたのは1時15分だった。

本堂から大師堂へ廻る。それぞれの前で暫時佇んだ以外は歩みを止めず、すぐ下りにかかった。足の傷みは八割方快復しているので、下り道も痛みをこらえるようなことは全くないが、それでも上りよりも長く感じてしまう。舗装道路を午後の強い陽射しを受けながら行くのも楽しいことではないが、―― とにかく歩いていれば終わりは来る ――とひたすら前進を続けた。

下り切ってから道筋が次第に判り難くなる。あらかじめ二万五千分の一地形図にプロットしたものと、道標が示すものが共に「保存協会」準拠でありながら異なるようだ。

道標に従い紆余曲折を続けたが、最後に琴電を渡る辺りで判らなくなり、半ば強引に国道へ出た。迷ったのはそこだけで国道をしばらく歩いた後、志度の旧い町並みを通過し、順調に志度寺まで辿り着くことが出来た。2時46分 。

長尾寺までの7キロは前半が退屈な道だ。半年前に歩いた記憶が鮮明であることは、道に迷ったりしない効用と、逆に退屈であることが判って気分的に落ち込む欠点があるようだ。ともかく辛抱、交通量が少ないことが救いだ。

JRが開発したオレンジタウンを過ぎると、右に分岐して農道を行く道標がある。しかしさほど面白い道ではなし、車に辟易もしていなかったのでそのまま県道を行く。しばらくで左へ旧道が分岐した。ひっそりした集落を抜け畑の中に続く一本道は格別なものはないけれど鄙びた味わいが良い。

広瀬橋のところで県道と交錯するが、川沿いを辿り最初の橋を渡った。次第に人家が密集して長尾町に入る。今日宿泊予定のやなぎや旅館がある変則四つ辻を右折すればすぐの所に長尾寺があった。4時20分に山門をくぐる。

境内は(昔の)小学校の校庭を思わせる殺風景で広々したさら地を囲んで伽藍が建ち並んでいる。寺によりその雰囲気は随分異なるものだが、此処の経営者は飾り立てたりすることに至って無頓着な人らしい。宿は目と鼻の先だし、時刻は早い、のんびりと辺りを一周するが、それ以上時間を過ごしたいようなものも見付からなかった。

やなぎや旅館へ行く。声を掛けるとすぐに現れた女将にスーパーマーケットの所在を訊く。「早立ちの朝食ならばオニギリをお接待しますよ。好きなものを食べたいですか?」と訊かれ、好みよりスタミナ不足を懸念していることをいう。―― 小さいのが右へ行ってすぐの所に、大きいのはその先の県道を左へ行けばある ――とのことに、荷物を玄関先に置いてそちらへ向かった。

2分とかからぬところに「小さい」方はあったがサンドイッチも牛乳の500ccパックもないので見切りを付けて、「大きい」方へ行く。3分先のこちらは確かに大きく売場面積おおよそ3500平方メートルもある。首都圏では中々見掛けない規模だ。ここでサンドイッチ、チラシ寿司パック、小松菜煮びたし、酢豚、イチゴ、牛乳などを買う1,593円。

6時ちょっと前に声がかかり二階の部屋から下へ夕食を摂りに降りる。同宿は合わせて三人らしい。いずれも歩き遍路で、名古屋から来たという六十半ばの男性と、札幌からの四十代女性、似たようなペースで歩いている のか初対面ではないらしい。三人の年齢、性別、居住地は異なっても「歩き」の共通点があるためか話題は途切れず、和やかな夕食となった。

通常通り五杯まとめて頼んだ冷や酒で終わりにし、勘定は宿代5,500円プラス酒代1,750円だった。

―― 32.5キロ ――

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4月21日(第二十 六日)

いつも通り3時に起床 する。旅館内はひっそり静まり返っていたが、5時に出掛けるころには向いの名古屋氏の部屋に明りが灯っていた。昨夕、―― 明日は大窪寺そばの民宿八十窪を予約してある ――といっていたから、昼頃出発しても充分間に合う。そういうこちらにしても、今日の旅程46キロを考えれば7時頃に出ても良さそうだが、早立ちが習い性となっている。それに目覚めてしまえば部屋で無聊をかこつより歩いている方が気持ち良い。

いつもと同じ5時に出発する。辺りは既に白み始めているが、一応ヘッドランプを装着した。地図や道標を確かめることがあるかもしれない。しかし実際には迷うようなところもなく、鴨部川を渡る塚原の交差点でヘッドランプはザックにしまい込んだ。

現在の県道はバイパスを通過しているが、これと併行した旧道で鄙びた集落を抜けて行く。扇状地が次第に狭まり、道路の勾配がきつくなると、前方に前山ダムが見えて来る。このダムは堤高40メートル弱の小規模なものだが、湖畔に前山おへんろ交流サロンがあったり、道の駅も設けられている。此処を過ぎると大窪寺まで、トイレも食堂もないから、最前線基地のようにも感じられる。

来栖から女体山へ行くにはダムの堤体を渡って右岸に沿った道の方が静かで良いが、この日は腹具合が思わしくなかったため、道の駅へ寄ってトイレを拝借した。売店や食堂はまだ閉まっている。

道の駅を後にしてしばらく行くと、前方に年配らしい男性遍路の姿が見えた。しかし追付くことができないあいだに来栖へ分岐せずに県道をそのまま直進していった。多和神社経由で行くのだろうか。

来栖の集落を過ぎると人家は途絶えるが、交互一車線の細い道はかなり奥まで延びている。譲波からようやく山道になるが、しばらく登るとまた田圃があったりして、厳しい環境に耐えて生活している住人に敬服する。250メートルほど標高を上げると一旦多和神社経由の舗装道路と合流し、その先から女体山への最後の登りになった。8時15分に山頂着。

楽な登りだったが先を急いでも仕方がないので景色を楽しみながらのんびりする。火照った体には吹いて来る爽やかな風が快い。しかし通常休憩する習慣がないものだから、しばらくすると手持ちぶさたになり、―― これ以上此処にいても ――と大窪寺へ向かった。

女体山頂上からのパノラマ

標高差にして40メートルほど下ると舗装道路へ出る。ここで道を間違えたことに気付いた。大窪寺へ真っ直ぐ繋がる山道がないのだ。舗装道路を強引に左へ行けば合流出来そうだが、基本通り「間違えたところまで戻る」を実行した。見落としようもないはっきりした分岐に、道標まである。終末が近付き気が緩んでいるようだ。改めて「百里の道も . . . .」と気を引き締める。

大窪寺。背後に女体山。

歩行中の装備その他。胸部にブレスト・ポーチ、腰に給水用ペットボトルホルダー。脚部のロングスパッツは着用していないことが多かった。カーブミラーを利用して撮影。

「登りよりも下りが長く感じられる」のは今回も同様で、中々辿り着けないことにうんざりした頃、境内からのざわめきが聞こえて来た。さらに5分、山頂からは合計40分で大窪寺境内へ降り立ったのは9時4分であった。

三回目の大窪寺だが、いつも大勢の人でごった返しているような印象を受ける。他所の札所を手抜きして八十八番を重要視するとも思えないから、理屈からすればどこも同じような参拝者数であろう。「結願(けちがん)」できた感激で滞留時間が長くなるのか。実際「結願記念写真」撮影屋などが商売しているから考えられることだ。しかし雑踏が性に合わないものとしては長居する場所ではなく、そして「スポーツ八十八ヶ所」としては此処をまだ通過点と考えている。そそくさと参道の階段を下って山門を出た。

門前にある数軒の茶店は何処も混み合っていた。此処を過ぎると当分食事できる場所はないから、―― 軽く一杯 ――の思いも湧き上がった。しかし楽な行程とはいえ、あと30キロ以上歩かなければならない。気を引き締めて誘惑を断ち切るように一気に茶店の前を通過した。本音をいえば混雑を嫌った方が大きいか。あの時、閑静な茶店を見掛けたらフラフラとさまよい込んでいたかもしれない。

しばらく行くと急に道幅が拡がり立派になる。この道路は国道377号線で、現在も改良(拡幅)工事中だ。改良済み区間はすぐに終わり、山間の平凡な道路に戻る。ほとんど車輌の通行もなく、このような路線に、改良の必要があるとも思えないのだが。

10分ほど下ったところで遍路道が右へ分岐する。判り易い道と記憶していたが、一ヶ所間違えて100メートルほど戻る羽目になった。朝っぱらから二度も間違えるのはやはり気持ちが弛緩しているのか。陽射しは強いが林間の小径は歩き易く、まったく人の気配がしないところを独り先を急いだ。

再び鄙びた国道に合流し、幾つかの小さな集落を過ぎ、次第に扇状地がその幅を拡げる。長野の集落でY字路にぶつかった。左へ行くと国道に新しく建設された五明トンネル経由で境目へ行くことができる。半年前には一番近いといわれてこれを辿った。4年前には山越えの遍路道を探して判らす、大影の方を迂回する結果となった。―― 今度こそ ――の気持ちで慎重に道を探す。

判ってみれば、―― 何故これを見落としたのか? ――と思うのだが、五明小学校長野分校の横が入り口で、「四国のみち」の道標もちゃんとある。ちなみに「分校」は「同行二人(第5版)」には記載されているが第6版からは消えている。しかし道標は新設されたようだ。

ともかくせせらぎを渡り、扇状地を横切るようにして反対側の山裾に達し、しばらくこれに沿ったあと山間に分け入る。標高差140メートルほどの峠越えだ。時間的にいうならば新トンネル経由がやはり一番かもしれない。一方、大窪寺から切幡寺へ行く人は大影へ直接行けば良いから関係のない話しだ。

境目との命名は讃岐と阿波の国境に位置するためらしい。阿波になってからはさらに鄙びた車道になる。道幅も狭いが通行する車も一時間に数台だから気にならない。東大楢から山間に入りごく僅か上って中尾峠を越える。10分ばかりは分岐した山道を行くが、後は延々続く林間の車道を下り続けた。

11時を少し廻って黒川温泉へ着く。この温泉には三つの宿があり、四年前には町営白鳥温泉(現在は合併により東かがわ市営)、半年前には(民営)黒川温泉に泊まった。白鳥温泉は日帰り利用が可能で、(風呂に入る気はないが)日帰り客用の食堂に期待していた。

淡い期待で訪ねたが幸い営業していた。「官営」食堂など選択が可能であれば行くことはないが、山奥の人家も稀なところで飲食が出来ることには感謝するしかない。鉄筋コンクリートの建物内にあり、内装も殺風景な食堂で、前払い、セルフサービスのシステムも気にはならない。

窓際の席からは初夏の眩しい陽光に照らされた新緑の山肌と、眼下には煌めくせせらぎが望まれる。結構贅沢な昼飯なのであった。スタミナ焼(風雅とはいい難いがエネルギー補給にこだわっている)、冷や奴、酢の物に酒三本で2,210円であった。

今回の道中では異例のゆったり昼食を終えたのは12時近かった。気持ちを入れ換えて残りの20キロ強へ取り掛かる。流に沿って下って行けば、やがて国道に合流し、そして白鳥(しろとり)の町に達する。しかし遍路道は途中、寛四で左折して小さな峠を越えて宗心、そして星越峠から大内ダムとほぼ一直線で北上して行く。

距離もいささか長くなる上、二つの峠を越えるのは與田寺を経由するためだ。ちなみにこの寺は番外霊場となっているが、「八十八ヶ所総奥の院」と呼称されているそうで、巡礼がこちらを廻るのはしごく妥当なことだ。一方スポーツ八十八ヶ所としてはほとんど意味がないけれどそれをいうと、そもそも八十八ヶ所全部に意味がなくなってしまう。おとなしく「同行二人(別冊)」に順路として赤線が示されていたことに従う。

與田寺を過ぎると与田川を渡って田圃の中を行く、同じ阿波でも旅の始め頃は田造りの最盛期であったが、今やほとんど田植えを終えて、幼い苗が柔らかく芽吹いている。明日でこの旅も終わりかと思うと、そこはかとないうら寂しさを感じる。もう歩き続けなくても良いことは間違いなく喜びだが、必ずしも思うように進行しなかった旅が「九回裏の逆転」も叶わずにゲームセットになる無念か。

もっと単純なことで、無心に歩いていることが何処か楽しかったのかもしれない。もう一つ確実にあるのは、―― これが四国とのお別れになるやも知れぬ ――との思いだ。この八年間に心に刻んだ様々な風物と、色々なところでの出会い。その縁が途切れてしまうような予感がする。「通し歩き」を完結したからといって四国再訪が叶わぬ訳もないが、なぜか八十八ヶ所とまったく関係なくは訪れたくない気持ち、しかし八十八ヶ所であれば今回以下の「歩き」では妥協したくない。支離滅裂な思いが心中を去来する。

歩くことに神経を集中せずに済む道を辿ると、つい余計なあれこれを考える。その間に白鳥町郊外を通過し、3月27日の朝、歩き出した引田駅前も通り過ぎた。黄昏の気配が僅かに漂い始めた頃。この日の宿ホテルひけたが見えて来た。

ホテルひけた 。写真左端が国道。車は緩い坂を右へ下り、右端のゲートから入場するらしい。徒歩は国道から直接建物左端の事務所へ。

高松で最終旅程を決定するにあたっては終点からの逆算を行った。22日に大阪梅田のホテルへ3時頃到着(早過ぎるとチェックイン出来ないし遅いと知人と会うのに支障がある)するためには、徳島を昼頃出る高速バスに乗りたい。余裕をみて22日の歩行距離は10〜15キロ程度に抑える。この条件に適合するところを探すと、長尾寺付近で一泊したあと、国道11号線沿いのホテルひけたが絶好の位置にあることが判った。 ちょっと気になったのは「同行二人第五版」の地図に「ビジネス泊歓迎ホテルひけた」と、他には見ない記載になっていることだ。

早速電話して泊まれることが判った。しかし通常通り、まず氏名、そして電話番号を告げても対応してくれた(多分)オバサンはそのようなことには頓着しない様子で、―― ウチはビジネスやお遍路さんも歓迎ですから、外見でビックリしないで下さい ――などと、面妖なことをいう。どうやら当初カップル専用のホテルとして建設され、その後(経営不振打破のためか)「ビジネス泊歓迎」に経営方針を変更したらしい。ともかく立地が良いことに惹かれて、―― なるべくおとなしいところであって欲しい ――と願いつつ予約した。

ちなみにこのオバサンには翌日もう一度電話した。飲食が出来るか心配になったためだ。徒歩2分ほどの範囲に、食堂、うどん屋、コンビニエンスストアがあるとの返事で安心する。

いよいよそのホテルが眼前に迫って来た。この手の宿泊施設には詳しくないがどうやら(本来のものではなく日本式の)モーテルらしい。近付きつつ観察すると右の方に車用ゲートがある。しかし間近まで行くと、国道に面して入り口があった。此処から敷地内に入るが、どこがフロント(?)なのか判らない。キョロキョロしていると、すぐ前のドアが開きオバサンが出て来た。

一般(遍路・ビジネス)は少ないらしく、―― 電話 . . . . ――皆までいわないうちに、先に立って案内してくれる。一階が駐車スペースで、各部屋ごとにドアがあり階段が二階へ通じている。割り当てられたのは事務所からすぐの2号室で、料金4,000円を支払うと、領収書は後で部屋へ届けるとのことだった。鍵をまだ受取っていなかったので、―― 食事に出掛けるので、鍵も一緒に ――と頼む。

彼女は、構わないがその必要があるのか確かめるように―― 使用中の部屋には誰も入りません。それにセンサーと監視カメラがありますから ――ときっぱりした口調でいう。そのようなものかと鍵にはこだわらないことにした。現金は全部持って出るし、それ以外に金目のものといえばディジタルカメラくらいなものだ。しかし今にして思えば、旅の全写真が記録されているカメラの価値は現金の比ではなかったが。

ほどなく領収書を受取り、彼女が去ってからゆっくり部屋を見廻す。広い!床面積は高松で泊まったビジネスホテルの三倍以上ありそうだし、天井も高いから、空間的には四倍以上ということか。国道に近接しているのに騒音が気にならないのは遮音性能が良いのだろう。まずは広々した浴室で汗を流した。

食事のため表へ出てみると、外側のドアノブに小さなプラスチック片に「使用中」と書かれた札がぶら下がっていた。―― これがあれば余人は近付かないのか ――と納得する。管理人室をノックして、先程のオバサンに、―― 近所の食堂でお薦めはどこか ――訊いてみた。

これは外れで、彼女がいう、―― ここら辺の住人ではない ――こともあるだろうし、交代要員などいないだろうから外食にも行かず、また業種柄近所付き合いといったものもないだろう。訊いた不明を恥じる。

三軒の食堂は、魚屋と一緒になったような海鮮料理も出す店と、チェーン店タイプのうどん屋、それにこじんまりした大衆食堂だ。「海鮮料理」は4年前に利用して冴えなかった記憶があり、チェーン店も面白味に掛ける。結局、一番近いところにある大衆食堂の引き戸を開けた。

客は誰もおらず、オヤジが独り居間の方でテレビを見ていた。鍵の手に設えたカウンターの中が厨房で四人がけテーブルが三つに六畳の座敷、とこじんまりした店だ。烏賊サシと冷や奴をツマミに冷や酒にする。

ホワイトボードに書き出された「本日のメニュー」にサゴシ刺なる一項を見付けてどんなものかオヤジに訊いた。―― サワラ(鰆)の幼魚でとても美味いもんです。ウチ辺りじゃサワラは高くて出せないから ――との説明に、これを追加注文する。なるほど説明に嘘はなく、酒の楽しみが増した。これを切っ掛けにポツリポツリと会話が始まる。

食堂経営はカミサンと二人でやっているらしいが、この日は孫の潮干狩りで、オヤジが留守番ということになったらしい。ホテルひけたに泊まるお遍路さんもいるけれど、やはりその数はごく少ないとか。結局六本飲んで何か一品追加し、勘定は3,550円だった。

帰りにほとんど隣りといって良いコンビニエンスストアに寄り、幕の内弁当、ゴボウサラダ、ポテトサラダ、ミックスサンドイッチ、お茶と牛乳の500ccで、1,369円。部屋に戻ったのは7時10分前だった。すぐに就寝する。

―― 4 5.6キロ ――

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4月22日(第二十 七日)

3時起床 。板東駅までの14キロを歩いて11時までに着けば良いから早出の必要は全くない。しかし必要がないだけで歩きのパターンを替えなければならない理由もなく、いつも通りの出発前をなぞる。ホテルの部屋には片隅に小さいながらもソファーと組みになったテーブルがあり、ここで朝食を摂る。いつも通り地図を下見したりする。

現在位置から霊山寺へ行くには400メートルほど引田へ向かって戻り、大阪峠越えする道筋と、国道をそのまま折野まで行き、川筋、卯辰越しの二通りが考えられる(さらに細かいバリエーションも可)。前者は先月末を含め二度歩いているし、山越えと海沿いの比較も一興かと折野ルートに決めていた。しかしこの新ルート検討も、何しろ距離が短いためすぐに終わって手持ちぶさたになる。

ともかく5時を待って出発。既に白み始め、そして国道を行くとなれば常用していたヘッドランプもしまい込んだままだ。まだ交通量の少ない道を、海から吹いて来る微風を心地好く感じながらピッチを上げる。急ぐ必要はないが、これが歩き納めと思えばおのずと気合いが入る。

穏やかな高曇りの瀬戸内海、打ち寄せる波も穏やかなものだ。道路と海面の標高差も少なく、島々もないこの辺りの景色は平凡なもので、期待していた海沿いの興趣はなかった。折野の町に入る手前で右折し、小さな峠を越えて折野川沿いに川筋を経由し、ベタノ谷出会いで大阪峠を越えて来た道と合流する。此処からは四週間前の記憶が鮮明だ。

霊山寺ふたたび

標高差200メートルの卯辰越しを終えて下りになると、いよいよ終章の感じが強くなる。特別の感慨はないものの、昨日も感じたような一抹の寂しさ、―― 宴の終わり ――か。

下り終わって板東谷川を渡り、大麻比古神社の参道を一気に南下する。高松自動車道をくぐれば2分で霊山寺横に出る。本堂前に着いたのは8時50分であった。

巡礼者と異なり「スポーツ八十八ヶ所」はゴールしてしまうと呆気ない。御結願とか満願の「儀式」もなく、ただ一つやり残していることとして「四国遍路ひとり歩き同行二人[地図編]」の入手に取り掛かった。4月1日発行の情報は早めにキャッチしていたが、札所付近の売店にせよそれを探す余裕のなかった毎日だ。ようやく山門脇の売店を落ち着いて訪ねる。

しかし店員は申し訳けなさそうに「売り切れで、多分本堂の方にあると思います」とのことだ。引き返して山門すぐ内側の御接待所にいた若い女性に尋ねると、駐車場脇にある売店を教えられ、そこもまた外れ。次第に腹が立って来るが、三度目の正直で本堂横の売店にて購入出来る。

応対してくれたオバサンの柔らかい物腰に気分を和らげ、言わずもがなの、―― 既に廻り終えたところなのですが、後から見直そうと ――などと口走る。しかし嬉しかったのは「スポーツ八十八ヶ所」の怪しげな実践者に対しても、完歩し終えた者に対する敬意を示してくれたことだ。―― おめでとうございます ――の言葉は面映かったけれど。

売店を出て土間で靴紐を結び直す。彼女はわざわざ売り場を離れて上がり框まで来ると、暖かい眼差しで見送ってくれた。会釈して立ち去る。

山門から板東駅までのあいだはウィニングランの心持ちで行く。実のところウィニングランなど経験はナイし、そもそも競う相手もナイ。加えてこの二十七日間は旅立つ前に思い描いていた歩きに遠く及ばナイ、文字通りのナイナイづくしだが、それでもなおどこかウィニングランに通底するものがあったと思う。

―― 14キロ ――

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