前へ TOPへ

土佐編2

4月4日(第九日)

3時20分に起床 し、前日付近のローソンで調達した弁当とサンドイッチで朝食。5時をちょっと廻って出発する。二泊の料金9,240円はチェックイン時に支払い済だ。ちなみにこのビジネスホテルはインターネットで予約すると、通常料金より1,680円(二泊では3,360円)安くなる。簡単な朝食がつき、高知駅から徒歩4分はコストパフォーマンスが高い。旅立ち前に(日程が確定していなかったため)三泊予約して、4月1日に一泊分キャンセルした。

閑話休題。ホテルから駅へ向かって歩いていると折良くタクシーが流して来た。これを捉まえて竹林寺へ。街路灯は灯っているが既に辺りは白々となっており、大凡の風景を見ながら播磨屋橋から東へ向かう。降り始めてはいないが天候は良くなさそうだ。五台山の上りで一昨日と道が違うのは、一方通行のためらしい。料金はピッタリ同じの1,620円だった。

5時35分に山門前から降りを開始する。玉石を並べた段々を行くのに、照明は必要ない程度に明るくなっている。まずは想定通りで幸先の良いスタートだ。降り切って下田川を渡った辺りで降り出した。風は全くないので傘をさす。

田園風景のなかに続く道はやがて山間に入り、石土トンネルを抜けると石土池がある。池畔の桜が雨に打たれて散って行く侘しい眺めだ。程なく禅師峰寺に着く。7時10分で加えて雨のせいか、境内にいたのは雨合羽を着けて掃除をする寺の女性が一人だけだった。挨拶をすると「ご苦労様です」のねぎらいが返って来た。

雪蹊寺

種間寺

静かに降り続く雨のなかを黙々と歩き、種崎渡船場に着いたのは8時半だった。時刻表を見ると出たばかりの様子に、待合室に入ってザックを降ろす。ほとんど同時に着船するような物音がした。日曜日は8時40分発であったのだ。

幸運に感謝して乗船する。10分足らずの短時間で雨中の航海であったが、それでも洋上を渡るのは良い気分転換になった。礼を述べて下船する。それから15分で雪蹊寺に着いた。時刻は9時2分。境内には車遍路の人々が数人いるだけで、大型バスと遭遇しなかったのが有り難い。

雪蹊寺を離れると、高知市の都市圏を離れた感じがする。人家は散在し、新川川に沿った遍路道は唐戸の切り通しを抜けると田圃のなかに続く。

一昨日に国分寺付近で見掛けたキャリー引っ張り遍路を追越した。挨拶の声を掛けるがほとんど反応がなく、不機嫌そうな顔をして歩いている。10時25分に種間寺に着。雨は降り続いていた。

種間寺から一時間弱で仁淀川があり、この頃になって漸く雨が上がった。雨中を歩くのもそれなりの趣はあるけれど、現実的には速く歩こうとすれば傘があるとバランスが良くないし、地図を見ようとしても拡げるのに苦労したり、濡らして傷めたりとハンディキャップは多い。

橋を渡りすぐ右折して堤防の上を上流へ向かう。―― そろそろ昼飯を ――と物色していると、堤防と平行する国道沿いに食堂が見えた。単眼鏡を取りだし様子を窺うと営業中らしいが、一旦堤防を降ってから行くのが億劫でそのまま前進を続けた。1キロほどで遍路道は堤防を離れ、町中の裏通りを行く。

しばらくして国道のバイパスと斜めに交差する。開通したのは最近らしい。渡ってから念のため庭先に出ていたオジサンに清滝寺へ行く道を尋ねると、バイパスを行くように教えられた。その方が判り易いらしい。改めて、―― 旧遍路道 ――と指定して、この道で間違いないと確認できた。

高岡の街並みを辿り、中央通りと交差するところで食堂が見付かった。左手に焼肉屋とその筋向かいに寿司屋がある。どちらにするか迷ったが、経済性とスタミナ補給に適するであろうとの期待から焼肉屋に決める。店内は六割方の混み具合で、窓際の四人掛けテーブルを選ぶと冷や酒を頼んだ。

靴紐を緩めて足を開放し、酒を飲みながらゆっくりメニューに目を通す。ハラミ肉、タン、五目ナムルにセンマイ刺しにして運ばれて来るのを待つ。日曜日のせいか人気のある店なのか、続々と来店者が続き、ついには空席待ちも出るほどであった。ほどなく注文した品が届き、焼き野菜はサービスとのことだ。野菜不足気味であったから結構なことと思う。酒三杯を追加し、さらに主食をとも思ったが満腹したのでこれで終了する。勘定は3,410円だった。

清滝寺。本堂前にお接待のテントが設置されていた。

店を出ると1時を廻っていた。焼肉など食べていると一時間近くを要したらしい。食事中に電話で予約した宿まではまだ20キロほどある。気合いを入れ直して歩き出した。

すぐに市街地を抜け田圃のなかを行く。前方の高速道路越しに清滝山が見え、中腹当たりに寺らしき建物がある。高速道路をくぐると道は緩やかな坂道となり、人家がつきた辺りから傾斜はきつくなった。しばらく登ると車道から分岐して狭い階段が始まる。しかしそれも標高差にして100メートルほどで、車道と合流した正面に山門が見えた。本堂前に着いたのは1時半を少し廻った頃だった。

この日は半日以上歩いて歩き遍路の姿を見ていなかったが、境内には一人いた。朝方に雨は止んでいるにもかかわらずレインスーツを着込んだままだ。―― 暑くて大変だろうに ――と思うのは当方が人一倍暑がりなせいだ。着ている本人は意外にそのくらいが適温なのかもしれない。

休まずに転進する。高速道路を逆にくぐるまでは同じ道を引き返し、そこから直進して国道(バイパス)を横断する。さらに5分ばかり直進を続けると、高岡市街の外れで国道(旧道)にぶつかり左折。バイパスに車が流れているのでこちらはずっと歩き易くなっている。焼肉屋のある中央通りを過ぎてほどなくを右折すると、道は旧来の曲がりくねった自然成立路になった。このような道に出逢うとなぜかホッとする。

波介川を渡ると扇状地の緩い上りになる。次第に平地が狭まり、やがて山間を行く一筋の道になり、すぐの所にトイレを備えた小公園風の休憩所がある。車道は此処からすぐ塚地坂トンネルとなり、上り下りも曲折もなく宇佐にいたるが、遍路道の標識は右へ続く山道を指していた。

峠を越えると宇佐大橋が見える。

峠越えは辛いと思うが、意地もあり時刻も早い。休憩所の東屋に憩う遍路姿を横目に見て、そのまま山道を登り始めた。沢筋を行き途中から尾根道となった。標高差150メートルは如何ほどのこともあるまいと思っていたが、意外に時間が掛かったのは疲労のためか。そして登りよりも降りの方がキツイのは毎度のことながら応える。

道そのものは明るくて状態も良い。天候も良かったから、体調さえ万全であれば「ハイキング」を楽しみながらの峠越えであったろう。

やがて砂利の林道からコンクリート舗装となり、間もなく萩谷の集落にでた。そこから20分ほどで宇佐大橋の袂に着く。そこから今日の宿までは400メートルほどだが、荷物は預けずにそのまま橋を渡った。

南無妙ヶ岩の辺りで後ろから来た小型トラックが停車すると、黒いジャケットを着た青年が「青龍寺までならば乗って行きませんか」と声を掛けてくれた。4時半を廻り、―― 歩いて行ったら納経所が閉まってしまう ――と心配してくれたらしい。確かに通常の遍路であれば数分の差で納経しそこない、翌朝の7時を待つのは痛恨事であろう。納経はしていない旨、そして謝辞と共に自力で歩くと告げる。

青龍寺

(僧侶ではないが)寺の関係者らしい彼が走り去り、こちらも歩行を継続する。横浪スカイラインから青龍寺への分岐付近には大規模お遍路宿の三陽荘(全52室)があり、団体バス数台が停車してぞろぞろと白装束が宿へ向かって歩いて行く。中の一台は最近日本で見掛けることのあまりない年輪風雪を経たもので、かなり切り詰めたツアーがあることを窺わせた。

分岐からは山裾に沿った一車線の小径になり、10分ほどで青龍寺に着く。5時4分は納経所が閉まって中にはまだ人がいるような状態であった。数十段の階段を登って本堂の前に出ると、参拝客は既に皆去り静寂が辺りを支配している。これを期待して時間調整したわけではないが、結果は好ましいものとなった。

本堂と大師堂に一応の「挨拶」をして階段を降りる。当初の予定より多少遅れているので、今宵の宿、汐浜荘に電話して、―― もう半時間ほどで着くから . . . . ――と予告をした。対応したた女性は、―― つい先程電話して来た人か? ――と訊く。そんなはずはないだろうと思いつつも「違います」といって電話を切る。ほとんど同じようなペースで行動している人がいるらしい。

境内を出てしばらく戻ったところで、三陽荘辺りから散歩に来たという風情の中高年女性数人とすれ違った。挨拶をして、―― どちらから? ――と訊かれ、神奈川からと答えると「大変ですね」とねぎらわれた。神奈川から四国よりもそれから先の方が余程大変だったのだけれど、こんなところで力んでも仕方がないので「イヤイヤ」と受け流す。

三陽荘の前を過ぎて数百メートルで遍路の後ろ姿が見えた。こちら向きに停車した小型トラックの運転手と話しをしているので、―― 道でも尋ねているのか?迷うようなところではないが ――と思いつつ歩いて行くと、遍路はザックを下ろしてトラックの荷台に積むと前進を始めた。

トラックも発進しこちらのそばまで来て「金子さんですか?」と尋ねる。汐浜荘の亭主が電話を受けて迎えに走って来たらしい。金子であることを認め、「支援は必要ない」とそちらは断った。そこから間もなくで空身の中年遍路を追越す。

橋を渡って「打ち戻り」を終了し、岩本寺へ通じる道を歩き始める。―― すぐのところ ――と思っていたのが意外に長く、途中庭先にいた住人に汐浜荘を尋ねる。道に間違いはなく、単に疲労による気の弱りだと自覚する。そしてすぐに汐浜荘の看板が見えた。

この日の宿泊者は当方を含めて四名、全員中高年男性であり、歩きでかつ通し(遍路)と判り、ちょっとビックリする。中高年といっても定年を過ぎたようにも見えず、どのように長期の休みを確保したのだろうか。あまり人のことはいえないけれど。

隣りに坐ったこの中では比較的若い四十男は、「足を傷めて思うように歩けず、今日も25キロぐらいで、途中このまま飛行場へ向かって帰っちゃおうかと思いました」などとぼやいている。「帰るのは簡単ですよ。でももう一度此処までの道を歩き直す覚悟はありますか?」と冷やかしたところ、「嫌です、イヤです、あの辛い思いをもう一度繰り返すなんて」と悲鳴に近い言葉がでた。

半分は冷やかしだが、実のところ半分以上これまで内心自問自答してきたことが口を突いて出て来たのだ。そしてこの自問自答は、その後も何回となく繰り返された。

ザックをトラックに預けた彼はその隣に坐っていたが、食後に中間の男が席を立った後に何となく話し込んでしまった。彼も四十代後半と思うが、妻に先立たれその供養もあって廻っているらしい。焼山寺越えはこちらと同じく坂本屋を起点としたらしいが、出発が納経の関係などもあり9時と遅く、おまけに日頃それほど脚を鍛えていないのが応えて、長門庵への登りで脚に痙攣を起こしてついには歩けなくなったらしい。「時間も遅かったので、後から遍路道を辿って来る人もないだろう。此処でこのまま死ぬならば、それも女房が迎えに来てくれたということか」と覚悟を決めたそうだ。

結局しばらく休むうちに幾分快復し、何とか長門庵まで辿り着いて一夜を明かしたらしい。話しを聞かなければそのような修羅場を越えて来たとは想像もつかない。別に八十八ヶ所廻りに限ったことではあるまいが、さり気ない顔付きで行き交う人々がその内面にどれほどの 闇を抱えていることか。 先程席を立って部屋へ戻った二人にしても、千キロ以上を長期に亘り歩き続けようとしているのは、「スポーツ八十八ヶ所」の能天気などとは違う動機があるのだろう。

話し込んで夜が更けたが、それでも8時には就寝する。宿の勘定は一泊二食(一食は握り飯)に酒五本で7,000円だった。

―― 46.7キロ ――

TOPへ

4月5日(第十日)

3時起床。 起床時刻が次第に早くなるが、就寝も早いし自宅にいる時の起床時刻が4時だから大差はない。前日弁当の調達に失敗したので、ハードな一日には物足りない握り飯による朝食を摂る。4時50分出発。

今日の目的地である岩本寺までは55.2キロあり、「お遍路転がし」と名付けられたような難所こそないものの、仏坂(標高差150メートル。県道23号線を利用して鳥坂トンネルを利用すれば迂回出来るが)、焼坂峠(標高差228メートル。これも現国道を利用すれば迂回可)、添蚯蚓(そえみみず)遍路道(標高差409メートル)などを越えて行かなければならない。幸い仏坂へ分岐するまでは判り易い県道23号線を利用するから、もう少し早く出発しても良かった。

ヘッドランプを装着し(読図の時だけ点燈し)て行く。夜明け前の静寂のなかで、メトロノームの音がことさら大きく響く。満月が煌々と輝き、その光で周囲の様子をかなり窺い知りながら歩くことが出来た。車輌の通行がほとんどないことも歩行者に取っては有り難い。

浦ノ内湾、通称横浪三里はリアス式海岸といえそうだ。渚に山が迫り、海岸線に沿った道路は屈曲が激しく、海越しにさほど遠くは見えないところまで辿り着くにも、歩いて行くと時間ばかりが経過する。もっともそれを織り込んだ今日の予定距離だから別に焦る必要はない。

6時にはすっかり夜が明け、ザックを下ろしてヘッドランプとウィンドブレーカーをしまった。それからさらに一時間ほど歩いた頃yamazakiのロゴを着けた中型トラックが追越して行った。ほどなく浦ノ内東分の集落に入る。食料品・雑貨店の内部に明りが点り、人が動いている気配がする。

コンビニエンスストアではないが早朝から開店するらしい。中に入るとオバサンが一人、忙しげに動き回っていた。握り飯だけのパワー不足をいくらかでも解消しようと、―― サンドイッチはないか ――尋ねると、「今日の分はまだ棚に並べてなくて . . . .」といいながら、裏手から配送用トレイに入ったままのパン・サンドイッチ類を持って来た。

先程のトラックが配達して来たもので、良いタイミングであった。ミックスサンドを買って歩きながら食べる。次の交差点で地図を確かめると道を間違えている。食料品店の手前で右折するべきであったのを、食欲に負けて見逃していた。しかしロスはほとんどなく正しい道に復帰する。

幅の狭い扇状地を遡って行くと20分ほどで田圃と人家はつき、一車線のコンクリート舗装された林道(しかし県道314号)になる。快調に登り、最後に僅かばかり山道を歩いて峠を越すと仏坂不動尊がある。既にお堂の扉は開かれているから常住の寺なのだろうか。

須崎を過ぎて間もないところで鯉幟を見た。4月5日では早過ぎるような気もしたが、南国の風光にはこれでも良いかと考え直す。

昼飯を食べたドライブインからは気持ちの良い眺望が。

そこから一時間ほどで須崎の町に入った。此処は96年11月に昼飯を食べたり、02年11月に泊まったことが街並みと共に記憶にあり、懐かしく思いながら通過する。しばらくして国道に合流した。

新荘川を渡ると道は上りになり視界が一気に拡がる。この辺りで二年前に朝酒とカツ丼を食べたドライブインがあったはずだ。これから安和(あわ)で国道をそれると食事出来るところはなさそうなので注意しながら歩く。角谷トンネルを抜けたところでそれらしいドライブイン「絶景」が在ったけれど既に廃業したらしい。

若干気落ちするがこの程度でへこたれてはいられない。昼飯抜きになることを覚悟して先を急いだ。絶景は悪趣味な命名だが、海蝕崖の上に続く道路からの眺めは吹く風の爽やかさとあいまって歩行を楽しいものにしてくれる。

10分ほど行ったところにドライブインみち潮があり、これこそ二年前に立ち寄ったところだった。名称も悪趣味ではなく良い。中に入ると見覚えのあるオヤジが相変わらず暇そうにしていた。この前と同じ窓際の席に坐り、冷や酒と野菜炒めを注文する。

酒を追加し、三杯目を追加する時カツ丼も頼んだ。別に以前食べたそれが取り分け美味であったということではない。単にカツ丼が好きなだけだ。何とか半時間で昼食を終え、2,200円を支払ってドライブインを出た。残りはまだ27キロもある。

道は緩い下りになり、土讃線安和駅付近では標高0に近くなった。線路を渡ったところで遍路道は国道からに分離する。土讃線にまつわるような恰好で始まった焼坂峠越えは印象に残るようなこともなく終わり、左手からトンネルを抜けて来た線路と再び交差し、1キロほどで国道とも再合流する。

しかしそれも500メートルばかりで、再び分離した道は鉄道の西側を国道、反対側を遍路道が行くことになる。久礼川を渡りそのまま直進すれば間もなく久礼市街というところで右折すると、国道を渡って長沢谷流域へ入った。2キロばかりで音羽へ続く県道を分かれ添蚯蚓遍路道の登りが始まる。

急な尾根道は歩く人もそれほどないと思うが良く整備されて、気持ち良く標高を稼ぐことができる。305メートル地点から馬の背状になり、呼吸を整えながら歩く。前方に人影が見え、遍路かと思ったが犬を連れた老人だった。道端の岩に腰を下ろし、柴系の小犬がおとなしく傍らに控えている。

挨拶に続いてしばらく言葉を交わした。―― 足が悪いので訓練のため毎日犬を連れてこの辺りまで登って来る ――との話しだ。健常者でも顎を出してしまう人が多そうな急坂を、障害の克服を目指して毎日とは見上げた心意気だ。先を急いで別れを告げるとねぎらいの言葉で送ってくれた。

それからの1キロが長く感じられ、地図を読み間違えたかと不安になったりするが、それでも405メートル地点に達し下りに転ずる。左手下方からは自動車のエンジン音が絶え間なく聞こえて来る。直線距離にすれば300メートルもないのだから当たり前と考えるが、山道を二時間も辿って来た感覚は異をとなえる。

途中から沢筋を辿る下り道は半時間ほどで人家と田圃が見え、それからほどなく奈路へ続く県道にぶつかった。七子峠はすぐだ。

七子峠からの国道歩きはひたすら忍耐するしかない。頻繁に地図を取り出しては、―― 後5分で神社があるはず。後10分で左から鉄道が合流してくるはず ――と気晴らしの目標を探しては、少しずつ前進を続ける。快調に歩いている時ならば本当に確認したい時しか地図は取りださないのだが。

歩く速度はそれほど落ちていない(と思う)が、疲労と共に思考能力が鈍って来る。コンビニエンスストアを見付けて、―― そろそろ宿だし明日に備えて弁当を調達 ――と考えるが、地図を見直すと後7キロも残している。それほど手前から荷物を重くすることはない。

感受性もなくなって来たのか景色を見ても美醜、好悪なしに呆然とした映像があるだけだ。―― 無心の境地に近付いていた ――といっては嘘になるが、辛さもあまり感じなくなって機械的に歩き続けた。

黄昏の光に照らされた岩本寺。

しかし休まず前進を続ければ必ず報われるもので、平串の切り通しを過ぎてゴールまでが後3キロと確定すると闘志に再び火が点いた。―― 6時までに着くことができるか ――。今まで再三遅い方に修正を続けて来た到着時刻だが、最終目標を決めると相手のいない競争が始まる。黄昏始めた窪川の街並みを、内心「ラストスパート」と叫びつつ通り抜け、岩本寺に着いたのは5時52分だった。

境内にほとんど参拝者はおらず、ましてや団体客は気配さえない。僅かに大師堂の前で老女が孫らしい幼子と静かに祈りを捧げていた。団体で現れ声高に読経しながら花木魚など打ち鳴らすのには辟易としているから、この姿はいかにも慎ましく好ましいものであった。

参道を引き返し、寺から200メートルの美馬旅館へ行く。この旅館は角地に建っていて入り口は宿泊者用が南に、食堂を兼ねている方が西にある。南から引き戸を開けたが誰もおらず、大声でおとないを告げると食堂の方から小走りに中年の女性が現れた。

部屋への案内を取り敢えず後回しにして、―― コンビニエンスストアの類い ――がないか尋ねる。「前の通りを西へちょっと行けば」と、彼女は表まで出て指差してくれた。

「買い物が済んだらまた声を掛けて下さい」と彼女は食堂の方へ戻って行く。ザックを玄関口に降ろすとすぐ明くる日の朝飯調達に取り掛かる。「かつお飯御前」なる弁当、スパゲティサラダ、ツナタマゴサンドに飲み物として牛乳500ccと緑茶の500ccペットボトルを買って 1,177円だった。

改めて美馬旅館に落ち着く。この宿には97年3月に一度泊まったことがある。その時は二階でごく普通の六畳か八畳間だったと思う。しかし今回案内されたのは玄関からすぐで六畳の次の間が付いた八畳、おまけに広縁からは狭いけれども手入れされた庭が見える、一等格の部屋だった。

次の間の根太が緩んで多少ぎしぎしいうのも返って年輪を感じさせて良い。ちなみに後で入った風呂では浴槽が木桶であったし、全体的に時流を超えたような雰囲気は好みの宿だ。

翌日の宿を予約する。選択が難しかった。「四国遍路ひとり歩き同行二人・第五版」によれば、34キロさきに「うすき旅館」、64キロで「安宿(あんじゅく)旅館」となり、50キロ前後のところには見当たらない。ちなみに04年4月1日に発行された第六版ではもう少し選択肢が拡がるけれど、それでも適当なものはないし、旅している時点では第六版を入手出来ずにいた。

ともかく思案の末、―― 距離は長いが上り下りはほとんどなく、行き暮れても道は判り易いから迷う心配はいらない ――こと、さらに以前佐賀温泉(此処から10キロ)から久百々(安宿の3キロ先)まで歩いた実績があることから安宿まで強行することにした。

電話すると対応してくれたオヤジは、―― 岩本寺からでは無理だ ――と相手にしてくれない。そうなると意地も出て強弁し、しばらく遣り取りした末に向こうが折れた。実のところ「折れた」だけで着けるとは思っていなかったようだ。

安宿が決まったことでその次も計画する。足摺岬の金剛福寺は往復(お遍路流にいえば打ち戻し)するつもりで、距離的には安宿が適当だが(この時点ではまだ強気で、荷物を背負っての往復を考えていただけに)連泊も面白くないと「民宿くもも」に電話した。

予約が成立したかに思えたが、女将は「相部屋をお願いするかもしれない」と念を押した。思わず「それは弱い」と返事したところ、あっさり宿泊を断られる。人気の宿らしく、―― 一人でも多くの要望に応えたい ――ことは良く判る。しかし、―― 3時起床の5時出発 ――で、相部屋は無理だと思う。そして断られたことは結果的に有り難かった。安宿から延光寺、松尾峠を越えての47キロは辛く、あれに加えて3キロ歩くことはあまり想像したいことではない。

再度安宿に電話し連泊予約はすぐに取ることが出来た。

食事は西側の一般食堂で摂るが、飲食だけの客が利用するところからは少し離れて奥まった位置に用意されていた。この席からは女将が執務スペースに使っているデスクが後ろから見える。ノート型コンピュータが稼働状態で置かれているのを見て、―― 旅に出て十日になるが、メールを一度もチェックしていない ――ことなど思い出し、思い切って女将に「インターネットを使わせて貰えないだろうか?」と頼んだ。

快諾して貰いコンピュータに向かう。結果はウィルスメールの残骸ばかりでガッカリであったが、それでも十日間の滞貨を一掃した気分でさっぱりする。

この日は酒(冷や。単価400円)六本を飲み、宿代は10,020円であった。

―― 55.2キロ ――

TOPへ

4月6日(第十一日)

起床 3時、4時50分出発。町並みを10分ほどで抜けて国道を行く。「峰の上」に着いた頃にはすっかり明るくなり、此処からしばらく国道を離れて歩くのに、まずは計算通りだ。環境美化センター(ゴミ焼却場)から山道を辿り、国道がトンネルを抜けるところでこれを越えてさらに下る。大した距離ではないのに意外に時間が掛かり、―― 未舗装路では足の傷みにより大幅に時間が掛かる ――ことを強く感じた。幸い今日の行程でこの先に未舗装路はない。

伊与喜川に沿って下る。一時間ほどで稲荷を通過し、対岸に土佐くろしお鉄道中村線の線路が見えて来る。さらに一時間弱で伊与喜駅があり、その少し先で国道を離れた。

熊井の集落でこれから畑へ向かうらしい老人とすれ違い挨拶を交わす。「その先の辻は左だから」と注意され、礼をいいながらも、―― 判っています ――というのが態度に出る。良くない癖だ。実際その辻は錯覚し易い恰好をしているから、ついうっかり間違える人もいるだろう。それを「判っている」と反応されては、次から注意する気をなくすかもしれないと反省した。

小さな峠に小さなトンネルがあり、往時はこれが国道だったのかもしれない。5分ほどで鉄道と交差し、小さな集落を越えると再び国道だ。そして間もなく佐賀の市街へ入る。

佐賀の町を過ぎるとひたすら我慢の国道歩きが続く。天気が良く、そして海が見えることがせめてもの救いだ。繰り返し地図を見ては次の目標をさだめて自らを励ます。目標となるのは道路の屈曲や分岐、岬や島などの地形的なものと、社寺、学校、郵便局など地図に記号で記されているもの、その他鉄道の駅はたいてい道路にも標識がある。変ったところでは高圧線で、これは地図に記載されてかつ遠方からも良く見えるので使い易い。

辛抱の二時間で時分どきも近付き、行程的にも半分をこなしていることに満足して食事出来るところを漁る。 上川口漁港を過ぎると海岸線は緩やかな湾状になり、国道の様子がかなり遠望出来る。単眼鏡を取り出して偵察すると、数軒のドライブイン(の類い)があるようだ。この内の一軒に入った。

冷や酒と、―― すぐに出来る酒のツマミになるもの ――を注文する。若いウェイトレスは酒については即座に了解したもののツマミの方は反応が芳しくない。「卵焼きならすぐ出来ますが」といわれ、―― 蕎麦屋でやる出汁巻で一杯は小粋なものだが、どんな卵焼きか? ――考えてしまう。「自分で考えるから」と断って酒を待ちながらメニューを見た。

「鰹のタタキ」は好物である。ドライブインのそれに大して期待は出来ないが、他のものであれば期待出来るわけでもない。カウンターの中にいたママに、―― すぐ出来るか ――訊いたところ、諾の返事でそれを注文する。

冷や酒三杯に鰹のタタキ、最後に焼きソバで2,390円。鰹はなぜか真紅色ではなく退紅色をしていた。熟成(?)が随分進んでいたのかもしれないが、味はそれほど酷いものではなかった。慌ただしく身仕度をして先を急ぐ。

10分ほどで国道を逸れ自転車道路を行く。これが旧来の遍路道とも思えないが、国道がそれというわけでもあるまい。ともかく車輌の喧騒から逃れられるのは嬉しい。

数キロで自転車道路が尽き、しばらく行くと蛎瀬橋で県道に合流する。田浦の辻で地図を見ながら思案していると、小型バイクをスタートさせようとしていたオジサンか、尋ねもしないのに「渡し舟はこっち、四万十大橋はあっち」と親切に教えてくれた。この道は地図が古くて記載されていないため、前回は双海を経由したが、それよりも近道であった。

橋を渡るのは二回目だが、いつも遊覧船を目にする。漁師が一人乗った小舟の廻りを周回し、二回くらい網を打つのを見て引き返して行く。あれで「清流四万十川を堪能」したことになるのだろうか。

渡り終えると川沿いに下流へ向かい、間崎から扇状地に拡がる田圃の中を行く。津蔵淵を過ぎると上りになり疲労が蓄積していることを意識する。往時は標高差200メートルの峠越えであったが、今は新伊豆田トンネルで楽が出来る。排気ガスと騒音の充満するトンネル歩きは嫌なものだが、旧道を辿るほどの元気はなかった。

トンネルを抜けてすぐのドライブイン前で靴を履き直す遍路を追越した。挨拶する時に上げた顔の日焼けが猛烈で印象に残る。それから一時間ほどで安宿に到着した。6時前に着いたのは「早(速)かったね」とオヤジが誉めて(?)くれる。

部屋に入り靴下を脱ぐと足の状態はかなり酷い。靴下も前三分の一ぐらいは血液交じりのリンパ液でピンク色に染まっている。しかし不思議に痛みは僅かだ。

夕飯は一階の食堂でテーブル席なのが良い。四つあるテーブルはほぼ満席状態だ。全員(除く当方)が歩き遍路らしい。向いに坐ったのは八十を過ぎたと見えるお爺さん。交通機関を補助に使いながらも歩きを続けているとか。

酒五杯と明日の朝飯代わりの握り飯を注文する。オヤジが「お客さんのスピードだったら、朝飯を此処で食べても充分に間に合う」とおだててくれたが、昼飯(酒)をのんびりしようとの思惑もあり早立ちを貫く。荷物は大半を預けてゆくことにして勘定は明晩に。

―― 57.7キロ ――

TOPへ

4月7日(第十二日)

起床3時20分。 金剛福寺往復は全行程が51キロで、荷物はブレスト・ポーチをショルダーバッグにしたもの一つだし上り下りもない、おまけに昨晩オヤジからおだてられたから、舐めてかかっていた。そんなことで5時出発のつもりが、朝食の準備に掛かっているオヤジと雑談したり、宿の前にある自動販売機で飲み物を買ったりしているうちに5時15分になっていた。真面目に歩き始める。辺りは既に仄白い。

久万地を過ぎると充分明るくなったのでヘッドランプをしまう。後方に白い人影が見えた。遍路姿ではなさそうで、かなりの速歩で近付いて来る。こだわるわけでもないが、追越されるのも業腹で1分140のピッチをキープした。これで抜かれるのであればそれは構わない。

ほとんど等間隔で歩むこと10分、背後から声が掛かった。振り返ると初老の男性で朝の散歩中らしい。「随分速いですね」といわれて会話が始まる。並んで歩きながら話したところでは十数年前に遍路も経験しているとのことだ。久万地崎のところで、―― 此処までが決まりのコースです。今日は雲があるから日の出は駄目らしい。運が良いと素晴らしい日の出が見られるがそんなことは年に数回しかありません。それでは ――と引き返して行った。

大岐海岸

大岐海岸では砂浜を歩く。7時前なのに既に数人のサーファーが海上にいた。7時に以布利を通過する頃は登校中の小学生と頻繁にすれ違い「お早うございます」の交換(歓)。窪津で鰹節工場の裏手を行くと、茹で上げたばかりの鰹を干していた。

開の集落にある小学校は遍路道を僅かに見おろすところにある。通り掛かった時ちょうど数メートル先を二人の男性遍路が歩いていた。始業前の子供達が塀の中から彼等に向けて「頑張って!」など、口々に呼び掛ける。

二人を追越して間もなく、今度は日傘をさして行く女性遍路がいた。追越す時に挨拶すると、―― 男性の二人連れ遍路を見なかったか ――尋ねられ、後方を指して「あの方たちとは別の?」と訊き返すと、ばつの悪そうな顔をしていた。もっと遠くにいると思っていたらしい。

若い女性遍路を追越してしばらくで分岐がある。足摺岬一帯には特有の道標があり「県道○○メートル、遍路道××メートル」と表示されている。多少長い程度であれば遍路道を選んだ。この分岐でも「多少長い」ので遍路道を行くが、登り降りも細かいのがあり、思ったより時間が掛かる。県道に戻りだいぶ経って彼女の後ろ姿が見えた。

金剛福寺

追付くのにさらに数分を要し「速いですね」と声を掛けると、「県道ばかりですから」と答える。重ねて、―― それでも速い ――という。遍路道の感想を尋ねられ「悪くはないが行かなければ損というほどのものではない」といい加減な返事でお茶を濁した。

金剛福寺に着いたのはその半時間後で、11時20分だった。大師堂の前で読経している姿に見覚えがある。近付いてみると昨晩テーブルの向いに坐ったお爺さんだ。挨拶して、「今晩も安宿ですか」と訊くと、―― もう草臥れたから ――と本堂の向こうを指しながら此処の宿坊を利用するとのことだった。途中バスを利用したらしい。

後は昼酒を楽しんでのんびり帰ろうと、適当なところを探す。門前の土産物屋を兼ねた食堂・レストランはどこも団体客が押し寄せて来そうな雰囲気があり好みではない。もっと小体な大衆食堂があれば良いが、少なくとも此処へ至るまでにはなく、土佐清水方面へ足を延ばしても過去の記憶からすればなかったはずだ。妥協して窓際からの眺めが良さそうな店に入った。

ジャコ天と鰹のタタキを肴に冷や酒を飲む。御新香の類いがないか尋ねると沢庵くらいしかないというのでそれも頼んだ。昨日まで続いた忙しない「半時間で三杯とメシ」とは打って変わるのんびりした昼酒はそれだけで贅沢だ。量もちょっと過ごして四杯にする。追加の酒を注文するとバアサンが大吟醸の四合瓶を持って来る。大吟醸は嫌いだからそれをいうと、中味は最初と同じ純米酒で、―― 一升瓶は重いから ――小分けにするのに空き瓶を利用したとのことだった。

最後にカロリー補給のために焼き飯を食べる。今朝も握り飯でパワー不足を感じるし、一昨日美馬旅館で(なぜか風呂場に体重計のない宿が続いたため)久し振りに体重を計ったところ3キロ減っていたことも気になっていた。

勘定は3,520円。

ほろ酔い加減を楽しみながら来た道を引き返す。安宿のオヤジが推奨するのは変化を求めての土佐清水廻りだが、以前二回歩いた印象からすると好みではない。半時間ほど歩いて、いかにも眠くなり、適当な場所を見付けてしばしの午睡を楽しんだ。海外を旅する時などは昼飯(酒)後の一眠りは最も一般的なパターンであったのに、昨日まではそれを思い出すことさえなく先を急いで来たのだ。

午睡から覚めて真面目に歩き始める。昨晩食事を共にした面々と次々すれ違う。各々マイペースで歩いているようだ。

以布利を過ぎて道を長く感じると共に足先に鈍い痛みを感じる。今日の行程を舐め過ぎていたようだ。考えてみれば荷物が軽いといっても、足に掛かる負担は6キロほど減っているだけだった。しかしとにかく歩くしかない。

大岐海岸は砂浜ではなく国道を行く。民宿「大岐マリン」の前を通り、喫茶室を見掛けた時は、寄って行きたい誘惑に駆られた。時間的には余裕があったけれど、一旦腰掛けて休んだ後に歩き出す辛さを思ってそのまま行き過ぎる。結局4時半に安宿に戻り着き、ここでビールを飲んだ。

夕食は長野から来た中年女性三人連れと同じテーブルになる。区切り打ちで歩いているとのことだった。塩の道−千国街道の話しから田中欣一氏が共通の知人と判り話しに花が咲く。

翌朝の握り飯を頼んで勘定を清算する。宿泊2、酒14、ビール1で18,200円だった。毎晩ぐっすり眠れるのが有り難い。

―― 51.0キロ ――

TOPへ

4月8日(第十三日)

起床3時 、5時出発。昨日同様オヤジは既に厨房で朝飯の準備に掛かっていた。世話になった御礼と別れを告げる。国道を市野瀬方向へ行き二つ目の橋で対岸に渡った。蛙の鳴声が一層かしましくなる。

五味橋の袂でヘッドランプを点けて保存協会の道標を確認し、左へ行く下ノ加江川沿いの県道を行く。辺りは白々と明け始めた。屈曲は多いが僅かな上りが続き、行程は快調にはかどる。足は痛みを感じることもないものの、それでも不安な思いがあり、半時間ほど行ったところで小停止して足指のテーピングをやり直す。

道路は交互一車線程度の所が多いが、部分的に余裕を持った相互一車線に歩道まで着いた立派なものになる。予算が付いたたびに改修工事が行われているのだろうが、此処までやる必要があるのかと思ってしまう。やはり日本は「土建屋国家」なのか。

9時に来栖野を通過する。食料・雑貨店を見掛け、サンドイッチでもないかと寄ったが外れだった。薬局があるのでテーピング用テープを買う。一瞬、―― 市中のディスカウントショップの方が安いのでは ――などと躊躇したが、―― ケチな銭勘定をしてテープが尽きた時の痛手はどれほどか ――考え反省する。

来栖野から10分ほどで船峠で、この辺りが下ノ加江川流域と中筋川流域の分水嶺になるわけだが、平坦な田圃が続いているだけで気付かずに通り過ぎた。道は緩い下り坂に転じ、上流側から中筋川ダム(蛍湖)に達する。

下ノ加江から150メートルほど高度を上げていたのだが、20キロのあいだに意識せずのぼった感じで、ダムを過ぎてから急な下りが続くのに驚かされる。下り終えて上駄場から遍路道は県道と分かれ、20分ほどで川を渡ると国道にぶつかる。国道を15分ほど行き右折しさらに10分。延光寺に着いたのは11時18分だった。

延光寺

31キロを6時間18分で歩いたことになるから、まずは満足の行くスピードだ。宿毛へ向かうのは途中まで国道からの道を戻り、そこから山間を辿る。道標はなかったが前二回の記憶が役立った。

この道も結局はすぐ国道に合流してしまう。味気ない国道歩きが始まったが、5、6分で中断した。食堂があったのだ。「ラーメンの豚太郎」で、高知を中心に四国、中国地方にチェーンを展開している。評判はおおむね良いらしいが、個人オーナー制らしく店により味、メニュー共にブレがある。

しかし美食を追求しているわけではないから気楽なもので、中に入って酒と餃子を注文した。ついでに野菜炒めと思うが、―― やっていません ――の返事だ。店内を見廻すと片隅にオデン鍋がある。串刺しのオデンをセルフサービスで選び、串の数で清算する四国方式だ。厚揚げと蒟蒻をツマミに追加した。

酒三杯を追加し最後に醤油ラーメンで料金は2,100円。12時をちょっと廻った頃に再スタート出来た。

半時間は国道歩きを辛抱し、漸く旧道へそれる。5分ばかり行くと向こうから小柄な婆さんがとぼとぼ歩いて来る。こちらの姿に気付くと立ち止まって品定めするようにしばらく眺めていたが、すれ違いそうになった時に「お接待」と口にしながら持っていた信玄袋を拡げた。どうやら財布を探している様子に慌てて、―― 私はお遍路ではないので . . . . ――と断って、頭を低くしてその場を離れた。

(遍路ではないから)出来るだけ遠慮するが、飲み物ぐらいであれば相手の気持ちを推し量ってお接待を受けることもある。しかし現金となるとこれはどうしても困る。遍路であれば金を受取っても、己の懐に入れたくなければお賽銭に加えて喜捨してしまう手もある。しかし拝まないに加えてお賽銭も納めないを貫くつもりだけにいかんともしがたいのだ。

松田川を渡ると宿毛市内に入り、この日の歩行距離は40キロ近くなった。舗装道路ばかり歩いてきたため足の痛みはそれほどないが、疲労が溜まっているのが感じられる。

市内を抜けて国道と交差し、しばらく行くと宿毛貝塚のところから山道になる。所々に舗装道路(集落)を挟んで登り降りが続き、錦、小深浦、大深浦を経由し松尾峠に至る。峠は土佐と伊予の国境(現在は県境)でもあり、高度が次第に上がり、視界も良くなるが足の痛みも増した。

「峠を越す」は日本語表現としては最悪の時期を通過した意になるが、松尾峠を越えて下りになると辛さは倍加した。なるべく平坦な足場を選んで忍び足のように静かに行く。時間ばかりが経過して行程ははかどらず、痛みの激しさに、―― 後ろ向きに歩いた方が楽か ――などと愚にもつかぬことを考えたりする。

なんとか小出の集落で舗装道路に降り立った時は、肩で大きく息する思いであった。それからさらに半時間、見覚えのある一本松に着き、集落の中心部にある十字路を左折すると一年前にも泊まった大盛屋があった。

昼時には食堂も営業するこの宿は食堂が民宿の入り口を兼ねている。気さくな女将が陽気に迎えてくれた。かろうじて5時前に着くことができたので缶ビールを一つ飲ませて貰う。それにしても16キロほどを4時間半も掛かったのはひとえに峠越えのせいで、先々のことを考えると暗澹たる気分になる。

二階の部屋に入ってリンパ液でジットリなっている靴下を脱ぐと、左足人差指の爪が剥がれて端のところで僅かに足指に繋がっている。痛くはないが見ていると気色が悪くなる。アーミーナイフの鋏で接点を切り離した。

両足のテーピングをバリバリ剥がす。緊縛されていた足が開放される瞬間は何ともいえずに心地好い。今日この宿に泊まるのは当方一名だけとのことに、のんびりと風呂を使わせて貰った。筋肉痛その他は全くないし、足裏(先)の痛みも素足で歩いている分にはほとんどない。つまり宿で寛いでいる分には「快適・快調」といって良い状態なのだ。

夕食までに少々間があるので、宿のサンダルを履いて向いの食料品店に飲み物のペットボトルを買いに行く。ついでに弁当かサンドイッチでもと思うが、どちらもな い。結局お茶の500cc ペットボトルを一つ買っただけだった。

一階の食堂で供された夕食は確かに一人だけだった。真ん中のテーブルにテレビを背にして着くと、女将が気を利かせて、―― そっちではテレビが . . . . ――という。テレビ嫌いなことを告げると、リモコンを操作してすぐ消してくれたのは有り難かった。これも一人で宿を独占している余禄か。

冷や酒六杯で締めにし、翌朝分の握り飯は階段の上に置いて貰うよう話しがまとまる。勘定は着いてすぐ飲んだ缶ビールを含んで8,200円。

―― 47.7キロ ――

次へ TOPへ

inserted by FC2 system