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伊予2

4月13日(第十八日)

このところパターン化している3時 起床 。巻寿司などを食べながら、インスタント味噌汁のためにお湯を沸かす。お椀がなかったのでヤカンで作り茶わんに注ぐ。少々乱暴だが、使用後、丁寧に水洗いしたので問題ないだろう。苺パックは半分食べて、残りは歩行中にツマムことにする。

地図の下見と累計距離の書き込みなど、いつもと同じような準備をするが、一つ変えてみたのは肉刺防止のテーピングを止めたことだ。足裏へのテーピングは「四国遍路ひとり歩き同行二人」にも解説されている有効な手段だが、昨日足の痛みをこらえて歩きながら一つの疑問が湧いて来た。

足裏の前部三分の一が「小砂利の上を裸足で歩く」ように痛むが、宿に着いたあとテーピングを外してその部分を指で圧しても痛みはない。傷んでいるのは指の付根でこの部分が丁度テープで保護された部分との境界になっている。つまりテープで固定されたとされないの境界で、この線上が一番負荷が掛かっているようだ。その結果山脈状に出来た肉刺が痛み、拡がって傷んでいない足裏まで酷く痛んでいるのでは。

この仮説を試すためにテーピングは止め、足裏の保護はディクトンスポーツの塗布だけにした。しかし仮説に自信はなかったし、一度足裏に肉刺ができた時の辛さは、久しい以前にもかかわらずいまだに鮮烈だ。そこで「足裏への負荷を軽減するために、キックは出来るだけ控えて柔らかく歩く」、「肉刺の兆候を感じたら直ちにテーピングをしなおす」の対策を心に決めた。

5時出発で大寶寺へ向かう。 久万の商店街を道標に注意して行き、当該箇所を右折する。後は寺まで一本道だ。辺りが薄明るくなる頃に大寶寺着、5時28分。徳島をスタートした頃に較べると随分夜明けが早くなっている。

無人の境内を本堂、大師堂と廻り、もう一度地図を確認して久万からの参道をその延長方向へ進む。

今日越えなければならない三つの峠の最初、峠御堂は標高差170メートルで、勿論「難所」ではない。しかし越えて峠御堂トンネル出口付近で県道に出てみるとしっかり時間は掛かっていた。やむなし。

河合に向かって下りながら苺をツマンだ。このような時もブレストポーチは便利だ。上部ファスナーを20センチほど開けて苺パックを置くことができる。 苺のへたを取っているうちに指先が真っ赤になり血に染まったかのようにさえ見える。手を洗う場所もなく、思い出したのは二日前にサンドイッチを買った時、レジの女の子が付けてくれたお手拭きだ。ポーチの中をかき回すとちゃんと残っていた。

河合の集落を通過する際には、―― 開いている商店があったら、(有料で良いから)荷物を預かって貰おう ――との甘い、そして健常の時には思いもつかない弱気なことを考えていた。しかし時刻が早過ぎたのか虚しく通過する。

狩場を過ぎ遍路道は県道から右へそれる。しばらくは農道を兼ねたような幅の広く傾斜の緩い道が続く。なだらかな峠をこえ水系がかわった。沢沿いに歩くと水道施設があり、車が通行出来る砂利道が二方向へ延びている。

岩屋寺

この時点で八丁坂を登る気などなかったが、道標を見誤まったか右道が「古岩屋荘・八丁坂」へ通じる、すなわちこの先に古岩屋荘への分岐があるものと思い込み進んだ。間もなく急登が始まり誤りに気付いたが、標高差160メートルはさほどのものではないし、困難を前にして逃げ出すのも口惜しく、そのまま登り続けた。

予定外の回り道であったが、岩屋寺には8時20分に到着する。大寶寺とは打って変わった大勢の参拝者だ。

此処で内子の町外れで会った彼(名前を知らない。以後は内子さんと呼ぶことにする)に又もや再会。訊けばほとんど同時刻に笛ヶ滝を出たが、前日に大寶寺を済ませていた彼は峠御堂トンネルを抜け、そこから先は共に同じ道を辿ったようだ。

河合へ戻るのも県道経由と一致し、初めて道連れを伴っての歩行となる。職業も遍路に出た動機も判らないが、「気が合った」とでもいうのかこれまでの道中などを話題に楽しく会話することが出来た。

20分間ほど通常よりも幾分ペースを落として一緒に歩いたが、上り坂になり内子さんが遅れ気味になったのを汐に別行動することにした。かれは大半の荷物を笛ヶ滝に置いて来たためいずれにせよそちらに戻らなければならない。

「また何処かでお会いしましょう」を互いの別れの言葉とし、先を急ぐ。今日の目的地、道後温泉の宿まではまだ34キロと二つの峠を越えなければならない。

河合から峠御堂トンネルの方へ僅かに上ったところを右折すると千本峠越えが始まる。標高差170メートルは楽に登るが、下りで難渋するのは此処数日の定型だ。今回は槻 (けやき)之沢集落を過ぎ舗装道路の下り、それも目標とする国道が見えながらそこまでが遠かった。

漸く国道に辿り着き、昼飯が可能か胸算用すると、辛うじて可能と判定された。昨日は昼飯抜きだったし、味気ない国道歩きを奮い立たせる材料はそのぐらいしかない。三坂峠への上りは標高差が200メートルあるが水平距離が5.5キロのだらだら上りで如何ということはない(この時点で下りを甘く見過ぎていた)。国道だからドライブインの一つや二つあるものと、それを楽しみにピッチを140に上げて歩き出した。

道標に「レストパーク明神」とあるのを見て、道の駅風施設を想像したが、数台の駐車スペースと吹き抜けの東屋があるだけだ。しかしトイレはお世話になる。この辺りは現在「三坂第一ト ンネル」の工事中で、07年に竣工すれば車もたまにしか通らない鄙びた道になってしまうだろう。ちなみに新トンネルは延長3キロとのことで、歩きたいものではないし、良い棲み分けができるのかもしれない。

峠に向かって緩い坂を上り続ける。99年2月に此処を歩いた時は、5センチほどではあったが雪が積もっていたことを懐かしく思い出す。間もなく峠に辿り着き、待望のドライブインを見付けたが、近付いてみると廃業して久しいようだ。

浄瑠璃寺

西林寺

浄土寺

二日連続の昼飯抜きを覚悟して国道を離れる。旧久万街道(土佐街道)で国道が1892年に開通するまでは松山、久万、土佐を結ぶ幹線道路であった。急な坂を下って行くが、道に優しさが感じられるのはこのような歴史によるものか。

99年通過時には降り続いていた小雪が峠を越えたところで止み、薄日に照らされた松山と、その向こうに霞む瀬戸内海を目にして息を飲む思いがした。あの時は格別であったかもしれないが、何時歩いても気持ちの良いところだ。

山道を降るのに一時間近くを要した。昼飯抜きはむしろ幸いであったかと思う。細い扇状地を延々下り続け、榎あたりで漸く平地に辿り着いたと思った頃は既に2時半になっていた。天候が下り坂なのかどんよりとした曇り空で、実際よりも夕刻が近いように感じられ気がせく。

次第に人家が増え、それに伴い道は味気ないものになって行く。辛抱の半時間で浄瑠璃寺に到着した。2時56分。

団体バスのはざまなのか、境内に人は少なく静かだ。大師堂の前ですれ違った学生風で遍路姿の女の子は、不機嫌そうな顔をしていたが、それでも「今日は」と挨拶してくれた。

寺を出て門前の車道からすぐ左へそれると、田圃のなかに続く遍路道を辿り、10分ほどで集落の向こうに八坂寺が見えた。学校帰りか中学生くらいの女の子が「今日は」と行って通り過ぎる。四つ辻のところで右から坂を上って自転車に乗った白服姿が飛び出して来た。見ると先程浄瑠璃寺にいた女の子だ。向こうも目が合って苦笑している。

八坂寺に着いたのは3時12分。もう一度さっきの女の子に会い互いに苦笑する。しかし(自転車と装備から)自転車遍路ではないと思われるが、何ゆえ自転車で移動して来たのか?

いよいよ降り出しそうな空のもと、西林寺への道を急ぐ。途中スーパーマーケットを見付けサンドイッチで昼飯抜きに対するせめてもの補填にしようかと中に入る。初めての店だから商品の配置が判らず、漸く探し出してレジに辿り着いた時には、僅かな差で品物を満載した籠がどんと置かれた。嫌気が差してサンドイッチを元に戻して店を出る。

八坂寺から半時間弱で県道に合流し、間もなく久谷大橋で重信川を渡る。すぐの交差点でコンビニエンスストアを見掛けたが、既にサンドイッチへの思いは去っていた。

西林寺着4時14分。こちらも団体はおらず静かだ。とうとうポツリポツリと降り始めた。風がないので折り畳み傘で充分と判断する。寺を出てから5分程のところで雨支度をしている夫婦(?)遍路を追越した。道の反対側で後ろを向いていたので無言のまま通り過ぎる。道幅が狭くて交通量が多いのに歩道の整備されていない道を歩かされる。かてて加えてこの雨とは、最低に近い条件だ。

後ろに見えていた夫婦遍路の姿が消える。この時刻ならば浄土寺の納経に間に合うと思うが、あまり急っつかずに廻っているのかもしれない。途中にある宿、鷹の子温泉ホテルに一年前泊まったことなど思い出した。

国道を渡ってからは住宅地のなかに細い道が続き、伊予鉄道を渡ると正面に山門が見えて来る。浄土寺に着いたのは5時寸前で、改めて彼等の判断が正しかったかと思う。前回此処を訪れた時は夜明け前の闇の中で、ほとんど何も見えなかった。しかし改めて眺めても見るほどのものはないような気がする。

寺のすぐ前にコンビニエンスストアがあり飲料の500ccペットボトルを補給する。繁多寺を目指して行く途中、松山いよてつ健康ランドを過ぎた辺りで右へそれてゆくはずの遍路道がどれか、地図から読み取れなくなった。尋ねようにも通行人もなく、もう一度じっくり地図を見直して目星を付けたところで道標を発見できた。だいぶ疲労しているようだ。

繁多寺は門前の駐車場に一台のワゴン車がいて、カップルが荷物を片付けている以外は人影もなかった。5時26分着。山門前から今日の宿、浪六旅館に電話して、―― 繁多寺前にいるので、あと一時間ほどで着けると思う ――旨、伝える。

石手寺への道は最初住宅街の中を抜けて行く辺りが判り難く、道標も少ない。それでも一度付近の住人に訊いただけで見覚えのあるところへ辿り着くことが出来た。車遍路道と合流してからは迷うようなところもない。石手川を渡ると石手寺は目の前だ。6時を少し廻り雨空のせいもあり辺りは薄暗くなり始めている。

本降りの中をとぼとぼ歩く。疲労がズッシリと重くのしかかるが、それでも足先(指)に痛みがなく、「小砂利の上を裸足で歩く」ような思いをせず行けるのは随分楽だ。ラーメン屋の看板を見て寄りたい誘惑に駆られる。浪六旅館は初めて訪れる宿で、道後温泉本館のすぐ裏手と聞いていた。

本館は以前にその脇を通り抜けていたし、迷いようもなく辿り着いたが、―― すぐ裏手 ――が判らず、うろうろした揚げ句、携帯電話で解決する。6時半着。

木造の少なくとも築五十年の建物は落ち着きがあって良い。案内されて二階へ上がり、うなぎの寝床のように細長い建物を突き当たりまで行く。八畳間で中央に置き炬燵、縁側には籐椅子が置いてあった。この手の宿が好みであるだけに、夕方遅く着いて明日は早朝に発つ、ほとんど寝るだけのパターンはもったいないような気がする。

荷物を降ろすと落ち着く間もなくコンビニエンスストアに行く。徒歩5分のストアまで行って、つい先程そこから20メートルほどのところを通過したことに気付いた。―― あの時に寄っていれば無駄足せず . . . . ――と思うが、世の中それほど効率良くは行かないものだろう。弁当、サラダ、サンドイッチ、飲料などを買って1,057円。

他の泊まり客は表側の二階に四、五人の一組だけらしい。温泉はあまり興味がないけれどともかく一風呂浴びる。食事は泊まる部屋ではなく、隣りの四畳半に用意された。

自宅から送って貰った「補給物資」の追加分がまだ到着していない。ちょっとした手違いで明日の到着になることが判って考え込んでしまう。一昨日に大洲で「停滞」したばかりだし、ここでもう一日費やすのは、―― 一日平均50キロ ――の目標から大きく後退することをになる。追加の補給物資なしでも旅を続けることは可能だ。

しかし明日着く荷物はディクトンスポーツで、携帯して来たのが残り少なくなり、急遽補給することにした。肉刺対策として光明が見え掛かった「テーピングによる補強をやめる」ためには重要な代替品だ。

先を急いで足裏に大きな肉刺でも出来れば元も子もない。加えて「好みの宿」をもう少しまともに味わいたい気持ち、さらに天気予報が告げる「明日は一日雨」が停滞をうながす。半時間の逡巡を経てもう一泊することを女将に告げた。

一旦決めた以上はこの条件を最大限に楽しむことにする。早出はしないからゆっくり飲める。朝食は宿の朝飯にし(実に旅館十四泊目にして初めてのことだ)、買って来た弁当は冷蔵庫に明晩まで保管して貰う。こうなると窓外から聞こえて来る雨音も耳に優しい。晩酌を楽しんで、―― 雨あめ降れふれ . . . . ――を子守り歌に就寝する。

―― 54.3キロ ――

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4月14日(第十九日) 停滞

6時に縁側の籐椅子に坐り、表の状況を観察する。小雨が降ったり止んだりの様子にちょっとガッカリするが、今日も歩いている人は沢山いるのだから土砂降りを願ったりするべきではあるまい。

駐車場の向こうに見えるのは収容人数550人の大規模ホテルで、バス遍路の団体も泊まっているらしい。6時半頃からバスへ向かってぞろぞろ行く白衣姿が見えた。どうもバス遍路を侮る傾向があるが、彼等もそれなりに強行軍を耐えることもあるようだ。後に聞いた話しだが、―― 先を急ぐためバスの車中でコンビニ弁当などを食べる ――などして、おまけに旅慣れない年寄りが多いため、体調を崩す人も少なくないとか。

番号

名称

累計距離

単距離

メモ 

51

石手寺

801.0

2.5

 

52

太山寺

811.3

10.3

 

53

円明寺

813.6

2.3

 

54

延命寺

848.1

34.5

 

55

南光坊

851.6

3.5

 

56

泰山寺

854.6

3.0

 

57

栄福寺

857.6

3.0

 

58

仙遊寺

860.1

2.5

ホテルコスモ(864)

59

国分寺

866.8

6.7

 

60

横峰寺

900.2

33.4

 

61

香園寺

909.5

9.3

 

62

宝寿寺

911.0

1.5

 

63

吉祥寺

912.5

1.5

 

64

前神寺

915.8

3.3

湯之谷温泉

65

三角寺

960.8

45.0

岡田(974)

66

雲辺寺

981.1

20.3

 

67

大興寺

990.9

9.8

 

68

神恵院

999.6

8.7

 

69

観音寺

999.7

0.1

 

70

本山寺

1004.4

4.7

 

71

弥谷寺

1016.6

12.2

 

72

出釈迦寺

1020.9

4.3

 

73

曼荼羅寺

1021.3

0.4

 

74

甲山寺

1023.4

2.1

 

75

善通寺

1025.0

1.6

 

札所距離表(部分)

7時からの朝食を済ませ、あり余る時間を使って明日以降の行程を検討する。 特に今治から観音寺のあいだは、横峰越え、雲辺寺越えの難所があり、宿の距離も飛んでいたりして智慧の絞りどころだ。

持参の(手造り)札所距離表を利用し、50キロを目安に電卓を叩きながら目標札所を定める。地図を調べて道中の難易(ほとんどは標高差)を調べて距離を加減すると共に、到達可能地点付近の宿を「同行二人(別冊)」から探す。

これの繰り返しと修正の結果、自分なりに満足の行く「名案」が出来上がった。

15日:浪六→太山寺→円明寺→南光坊→泰山寺→栄福寺→仙遊寺→ホテルコスモ(61.1キロ)

16日:→国分寺→横峰寺→香園寺→宝寿寺→吉祥寺→前神寺→湯之谷温泉(52.8キロ)

17日:→三角寺→民宿岡田(58キロ)

18日:→雲辺寺→大興寺→神恵院→観音寺→本山寺→弥谷寺→出釈迦寺→曼荼羅寺→甲山寺→善通寺(51キロ)

四日間で約220キロ、助走(ホテルコスモまで)、ホップ(湯之谷温泉)、ステップ(岡田)、ジャンプ(善通寺)の三段跳作戦だ。問題は岡田の予約で、久万の笛ヶ滝で同宿だったジイサン遍路 道情報では一週間前でも取れなかったとか。難関雲辺寺を前に、此処に泊まりたいと思う人が多いらしい。

ともかく「駄目もと」のつもりで電話すると、意外にもあっさり泊まれることになった。しかし前泊地を訊いたオヤジはそれが前神寺と判ると、―― 絶対に無理だ! ――という。下ノ加江の安宿でも一度経験しているから、―― 絶対に行ける! ――と主張するのも幾分滑らかだ。ともかく予約を成立させた。

努力だけではいかんともし難い予約が取れてしまえば、後は己の頑張りだけだ。ポイントは初日で距離が60キロ以上だし、太山寺(H75)、鎌大師付近(H80)、栄福寺(H50)、仙遊寺(H255)などの 細かいが多数の登りがある。初日がこなせなければ二日目以降は調整分の余裕などないから計画はご破算だ。

岡田の予約を取ったことで道義的責任を感じる。ほとんどいつも満員になる宿だから、一つ予約を取れば一人が「泊まりたかったけれど泊まれなかった」ことになる。行程的に辿り着けずキャンセルすることになれば金銭的に補償しても済まず、泊まれなかった人に対する責任が残る。

行程が決まり、改めて地図上でルートを追う。一日毎の累計距離を電卓叩いて計算し書き込む。携帯電話にも電卓機能があるけれど、このような場合はカシオ伝統の定数加算機能が便利だ。そうやって詳細に地図を眺めると、プレッシャーと同時に気分の高揚もあり、文字通り胸が高鳴るのだった。

―― 0キロ ――

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4月15日(第二十日)

3時起床 。昨日の夕食時に冷蔵庫に保管されていた弁当などを受取り、勘定も済ませた。二泊三食で13,000円に酒十六本が8,000円だった。他に泊まり客もなく、家族領域も離れているので、それほど音を忍ばせることに気を使わずに済む。

5時に出発する。道後温泉本館の脇を通り、アーケードの温泉商店街を抜けると24時間営業の、その名もダイエーコーノ24Hがある。早朝で客もないのか四、五人の店員が手持ちぶさたそうに店の前にたむろして雑談に耽っていた。

そこを過ぎると営業している商店もなく県道は薄暗くなる。しばらくして遍路道は右へそれるが、夜明け前に歩いていることを考え、確実に国道とぶつかるまで直進した。

国道を行く間にすっかり夜が明け、鴨川付近の分岐も間違うことがなかった。大川の堤をしばらく歩き左へ曲がると田圃のなかに農道が続く。予讃線を渡って次第に丘が迫って来ると太山寺は間近だ。散歩中のオジサンとすれ違い挨拶を交わすと、―― そこを抜けるとすぐですよ ――と教えてくれた。

太山寺

円明寺

一ノ門からは門前町のような家並みが続き、山門を過ぎると坂道になる。一気に登って太山寺に着いたのは6時18分だった。納経所が開く前だと思うが、二人の参拝者がいた。とりわけ一段高くなった大師堂の前で低い声で熱心に読経を続ける中年女性遍路の姿が印象的だった。

大師堂の横手から犬を連れたオジサンが姿を現わす。境内は通常犬の散歩など嫌うはずなので興味を惹かれたが、スタスタ行き過ぎた彼は山門の横まで行くと犬をそこに繋いだ。この寺で飼われている犬で、オジサンはいわゆる寺男らしい。

読経を終えて東屋で荷物をまとめている女性遍路と挨拶を交わした。―― 通し打ちの途中だが所用のため一時離脱した。今日は港から出発したところだ ――とのことだ。三津浜港辺りから来たのか。「お先にぼちぼち行きます」と言い残して黒塗りの網代笠を片手に持つと山門を出て行った。

坂を下る途中で彼女を追越した。しかし一旦10メートルほど先になるとその後はほとんど間隔が変らない。一緒に歩こうという気はなかったが、遮二無二引き離す気もなく、ひたすら毎分140ピッチを守っていたが、結局7時2分、円明寺に着くまでこの間隔は変化しなかった。彼女がこちらをペースメーカーに使ったのかは判らないが、今回の一周で行き会った遍路の中では一番速く歩く人であった。

円明寺を出て予讃線を渡りしばらく行くと、区画整理の結果なのか昔の道路線形はまったく失われている。しかし見通しが良くて迷うようなところでもなく、適当に行けば国道にぶつかる。

この時間帯は登校中の小、中、高校生と頻繁にすれ違うが、挨拶をする者はほとんどいない。これは首都圏のことを考えると何となく判るのだが、人口密度が上がるほど見知らぬ人と挨拶をする雰囲気がなくなる。松山の外れとはいえここら辺はまだ人口密集地域だ。

国道が予讃線を陸橋でまたぐとすぐ、遍路道は右折して古い家並みの中へと続く。しかしそれも1キロほどで終わり、国道に再合流する。ほどなく海沿いに続く見晴らしの良い歩道をひたすら北へ向かって歩むことになる。晴れた日の瀬戸内海が目を楽しませてくれた。

松山市から北条市に入った辺りで海が見えなくなる。味気ない国道歩きもしばらくで車がバイパスに流れるため少しましになった。北条市街の北側でバイパスが合流すると、今度は遍路道が右にそれて鎌大師付近の峠越えになる。

登りの途中で腰を下ろして、靴、靴下を脱ぎ足の状態を確かめる。宿を出てから5時間ほど経つし、強行軍の障害になるものがあるとすれば足の傷みだと思っていたためだ。幸い肉刺などの兆候もなく、ディクトンスポーツを塗布して靴を履き直した。

通常は昼食を除き休憩しない。立ち止まるのは入念に地図を見る時、トイレ、飲料などの購入程度で、腰を下ろすことはない。しかし足のケアは別で、先を急ぐ余りこれを雑にしないよう自らを戒めている。

峠を越えて再び国道を浅海原(あさなみはら)から菊間へ。途中脇道から現れたオバアサンに接待の飴と饅頭を押しつけられる。―― お遍路ではないから ――と辞退しようと試みるが、取り合って貰えなかった。甘いものは口にしないし、捨てるわけにも行かないし。取り敢えずブレストポーチにしまい込んだ。

菊間の市街へ入る辺りで一人の中年男性遍路を追越した。歩道から車道へ段差をおりる後ろ姿を見て、そのぎごちなさから相当ひどく足を傷めていることが判る。

市街は「そろそろ昼飯」と「先は長い。昼飯抜きで急ごう」の葛藤を抱えて通過した。菊間駅入り口(分岐)のお好み焼き屋は余裕があっても入りたくない店で「昼飯抜き」が簡単に勝利。「同行二人(別冊)」情報によれば、町外れにラーメン屋があり、その後は当分食堂の類いはないらしい。

件のラーメン屋が視界に入り、暖簾がしまわれているのを見て飯抜きを覚悟した瞬間、がらりと引き戸が開き、オヤジが暖簾を片手に出て来た。運命的(?)なものと店に入る。

冷や酒に野菜炒めと餃子を注文する。たまたま坐った窓際の席は、歩いて来た国道を振り返るような位置にある。先程の男性遍路が通り過ぎないか注意しながら酒を飲む。接待された飴と饅頭を彼に接待すれば良いと思い付いたのだ。

酒を二杯追加して半時間ほどの昼飯中、ついに彼は姿を現わさなかった。―― 見落としたのか? ――と思いつつ勘定を頼んだ時、重い足取りでとぼとぼ近付いて来る。1,950円支払い、身仕度をして店を出ると、正に彼が通過したところだった。

延命寺

栄福寺。名前とは裏腹に質素な寺だった。

暮れなずむ仙遊寺

2キロほどの距離に50分掛かったのは、何処か途中で歩けずに休んでいたのだろう。言葉を交わすと「足が痛とうて歩けんのです」の弱音がでた。通り一遍の慰め言葉しかでない。こちらとていわば「病み上がり」の身だ。饅頭と飴を「お接待されたものだが」と言い訳しながら差し出すと、「歩きながらしゃぶるので、飴だけもらいます」の返答だった。

菊間市街を離れて、国道歩きと旧道歩きが繰り返される。右側に大池ともう一つ名の知れぬ溜め池を眺めてすぐ、遍路道は旧国道を直進する。延命寺への分岐が判り難いが、前回歩いた時、地図に記したGS(ガソリンスタンド)のメモが役立つ。もっとも大きな道標のある車遍路道を辿っても距離はほとんど変らな かったが。2時18分着。

延命寺から南光坊へ向かう遍路道は出だしが判り難く、前回は地元の人に尋ねたものだが、その記憶を頼りに寺の北東側にある墓地を抜けて畑のなかを行く。持参の地図が古く(96年発行。現在のものは01年版)現在の地形と異なるところがある。記憶と、そして何よりも保存協会の道標に助けられて進んだ。

市営大谷霊園を抜けると今治市街に入る。県道に合流し予讃線の高架をくぐると南光坊はすぐだった。北東側に廻り込んで山門から境内に入る。着いたのは3時を僅かに廻っていた。

此処で内子さんに再会する。道後温泉で一日停滞していたので、先行されているのは当然として、追付くのは明日になると予想していた。松山、今治は札所の数が多いから、読経、納経をきちんとするお遍路さんはこちらの想像以上に時間が掛かるようだ。

再会を喜び、お互い一別後のことなど手短に話す。お接待の饅頭は彼に引き受けて貰った。今度はないだろうとは思いつつ、―― また会いましょう ――と別れを告げる。

既に50キロ歩いているから一日分としては結構な量だが、この日はさらに12キロ残し、それも最後の方に仙遊寺の登降がある。気を引き締めて先を急いだ。

今治は城跡付近に街の中心があるのか、南光坊そして今治駅付近は既に場末の雰囲気だ。家の間隔もすぐ疎らになり、やがて国道を横断して5分ほどで泰山寺に着いた。3時42分。境内は閑散としている。この日は合計七つの寺を廻るのだが、ついにバス遍路に遭遇することがなかった。団体を嫌うものに取っては有り難いことだ。

泰山寺からは田圃の中や家々の軒先をかすめるような細い道が続き、ここも専ら協会の道標頼りで行く。蒼社川の土手に登ったところで逆打ちの遍路に道を確認される。道標を見て上がって来たところをそれと告げるだけだから間違える不安もなかった。

川を渡って1キロほど先に見える丘の麓を廻り込む。最後のところで僅かに登って4時22分、栄福寺に着く。境内には六十過ぎの夫婦と、五十代の男が一人、いずれも車で廻っているらしい。間もなく去って行くが、中年男はすぐに戻って来た。集印軸を忘れたらしい。こちらと目が合うと、照れ隠しかニーッと笑って小走りに去って行った。

栄福寺を出て丘の麓に沿った道をしばらく行くと溜め池の盛り土にぶつかり、斜めに登ってこの大塚池横から山道を登った。下って来る男性遍路と挨拶を交わす。山道は5分も続かずすぐに舗装道路に出て、果樹園のあいだを屈曲して登って行く。100メートルほど高度が上がったところで振り返ると田園風景のかなたに今治の市街が見えた。

ちょっとした平地があり駐車場になっている。舗装道路はさらに続いているが、徒歩ならば此処から山門をくぐって行くらしい。職人風の男性二人と挨拶を交わす。山門からは急な階段を一気に登って仙遊寺に着いたのは5時6分だった。

先程の二人が既にいるのは、車で上がって来たのだろう。こちらが立ち去るのを待つようにして大師堂の蔀や扉を閉め始めた。この寺の関係者であったようだ。

駐車場までは同じ階段を下り、道標に導かれるようにして山道を降る。かなり疲労していることは意識するが、足の痛みなどの局所的ダメージはない。調子に乗って足に過度の負担をかけないよう、一歩々々に注意して行く。筋肉痛も疲労もなく、体重を滑らかに移動させて行けるのが嬉しい。

見覚えのある溜め池を過ぎると「谷」の集落に出た。後は平坦な舗装道路を3キロ行くだけだ。6時にホテル到着を目標として気持はラストスパートをかける。さすがに歩行距離が60キロに近付くとスピードが落ち、おまけに直前でコンビニエンスストアを見付けて、翌朝の朝食を購入するために寄り道をしたために遅れたが、それでも6時10分にはホテルコスモオサムのフロントでチェックインしていた。一泊素泊まりで5,250円。

部屋に入るや荷物を下ろし靴を脱ぐ。足を傷めてからは久万の宿笛ヶ滝まで、一日歩いて靴を脱ぐと、リンパ液でじっとり濡れた靴下が出現するのが常であった。しかしテーピングを止めてから波六、そして此処と、汗による湿り気はあるものの靴下はドライな状態を保っている。テーピング中止策は今のところ成功だ。このことにより八十八ヶ所を歩き通せる自信も湧いて来た。

ホテルコスモオサムは温泉を中核とし、レストラン、カラオケ、会議室、カプセルルームなどを併設する複合施設だ。自慢の温泉は宿泊客ならば無料で利用出来るらしいが、生来温泉に興味がなく、四階の部屋からわざわざ二階まで出向く気もしない。部屋のユニットバスで簡単に汗を流す。

食事も同じような理由で三階フロント横にある、レストラン銀河を利用した。そのような次第だから何の期待もしていなかったが、テーブルの高さから天井まで全面ガラス張りになった窓からの眺めは爽快で、気持ち良く晩酌を楽しむことが出来た。既に黄昏て遠くの景色は判然としないものの、一定間隔で閃光を放っているのは「しまなみ海道」の吊り橋らしい。気分的に雄大な風景だ。

エビ焼売、冷や奴で飲み始め、酒と鰹のタタキを追加して計四杯飲む。通常の五杯に至らなかったのは大きめのコップになみなみと注がれていたせいだ。最後にカレーを食べて3,491円。冷や奴の単価172円などこの手の店としては抜群に廉価だと思う。

―― 61.1キロ ――

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4月16日(第二十一日)

早朝の国分寺。本堂も大師堂も扉を閉ざしている。

3時起床 、5時出発の通常パターン。薄暗いバイパスの歩道を5分ほど歩き、ヘッドランプを点けて道標を確認し左折する。次の曲がり角はT字路だから行き過ぎる心配はない。白々と明けた頃、国分寺付近到達しに上々のタイミングだと思う。5時半の境内には誰もいなかった。

本堂も大師堂も扉を閉ざしているが、参拝が目的ではないから別段支障はない。扉越しに挨拶(?)して国分寺を後にした。寺の2キロ手前からは昨年11月に歩いた道だけにすっかり明けた今目にする風景は記憶に新しい。20分ほどで旧国道(現在は県道)それから10分ほどでホテルコスモオサムの前を通るバイパス経由の国道に合流する。

国道歩きは味気ないものの行程ははかどる。それに早朝であることが幸いしているのか、交通量がさほどではないことも苦痛を軽減してくれた。20分ほどで昨年、昼飯・昼酒をやった食堂を横目で見る。勿論この時間だから閉まっていた。それから間もなく溜め池の畔に小公園風施設があり、道路反対側で遍路道が予讃線の下をくぐって分岐して行く。

道幅は広いものの急に鄙びた雰囲気になる。今は県道となっているがこれも往時は国道であったのかもしれない。山間の小さな峠を越え、しばらく下ると再び予讃線と交差する。六軒屋の集落を過ぎると田圃のなかに道が続く。田植えを終えたところが多いことに、四国に来てからの日数を感じた。

大明神川を渡ると遍路道は県道と別れ右へ行く。商店が飛びとびにあるような町並みを過ぎると再び田圃のなかを行き、内川を越えて丹原市街に入った。 500メートルほどの商店街を抜けると既に町外れだ。

ここに好みのタイプの大衆食堂がある。雨風に長年曝された店の佇まいは枯淡の趣さえあり、やっているジイサン、バアサンもまたそれに釣り合った骨董品のような風情であった。しかし9時では食堂が店開きするにはいかんせん早過ぎて、しまわれた暖簾を硝子戸越しに横目で見ながら虚しく通過する。

再び田圃のなかを行き、悠々と流れる中山川を石鎚橋で渡る頃には「今日も昼飯抜き」を覚悟した。しばらく行って国道と交差したところで最後のあがきにスーパーマーケットに寄った。サンドイッチを探し、なさそうなので店員に(カレーパンの類いを想いながら)、―― 甘くない菓子パン はないか ――訊くと、「メロンパンは?」という。食べたことはないもののあれが甘くないとは思えない。

きっぱり諦めがついて後はひたすら横峰を目指す。扇状地が次第に狭まり、「馬返」と納得のできる地名を過ぎると山間に屈曲した道が続く。そこから20分の集落、湯浪(ゆうなみ)を過ぎても、舗装道路はさらに20分ほど続いた。車の往来はほとんどなく、照りつける陽射しは強いが渓谷を吹き抜ける風は爽やかだ。重畳とした斜面を見上げると新緑が眩しい。自転車に乗った男が一人、追越して行った。

横峰寺

舗装道路の終点にはトイレと東屋があり、かたわらに先程の自転車がポツンと乗り捨てられていた。道を挟んで反対側は湧水を汲めるように塩ビ管がセットされている。相次いでやって来た乗用車から降りた人達がポリタンクを持ち出して詰め始めた。地元では評判の名水なのか。

靴紐を締め直し、スパッツを着けて上り始める。小さな沢沿いの徑を行くと、籠を背負った山菜採りの老夫婦に出会った。挨拶をして訊いてみるとワラビ取りに来たとのことだ。後は人影を見ることもなくひたすらに登ること40分、空身で下って来る中年男とすれ違う。挨拶して言葉を交わすと、やはり自転車の主であった。それから5分ほどで横峰寺に到着する。ほぼ12時になっていた。

横峰寺からの降り。遠く東予港そして火力発電所の煙突が見える。

新緑の山肌を所々紅く染めるのはツツジ。

平地の桜は散ってしまったが。

久し振りの長い降り(標高差690メートル)に不安を抱えつつ踏み出した。しかし足裏に痛みを感じることもなく快調に行程がはかどる。やがて砂利の林道に出て降りはほぼ終わった。舗装道路に替わり六十一番奥の院、それを過ぎてちょっとしたダムといえそうな大谷池は改修工事のため干上がっている。横を通り抜け、道が右へカーブすれば香園寺は近い。

香園寺

前二回に同じく再び道を間違え香園寺には山門側から入った。2時40分。此処の大伽藍は到底好きになることが出来ない。(人により意見は異なるであろうが)醜悪だと感じ、近付きたくない。「スポーツ八十八ヶ所」の有り難いところで、境内の中程で踵を返した。

しばらくで国道に合流し、小松の市街中心部で宝寿寺に3時に到着した。宝寿寺出て再び国道を行くと間もなくコンビニエンスストアを発見、今日の宿も近いことだし明朝の食料を調達した。トンカツ・ハンバーグ弁当、サンドイッチ、サラダ、牛乳、お茶などで1,330円。

市街を出て吉祥寺には3時20分、ここで漸く国道を離れ平行して続く往時の街道を辿る。前神寺の門前では若い男性歩き遍路と出会った。荷物の量からすると野宿もする人らしい。前神寺に到着したのは4時10分になっていた。

宿は寺から10分の湯之谷温泉だ。横峰越えを「遍路ころがし」の一つとして敬意(?)をあらわし行程を控え目にした。しかし横峰寺に到着した時点で概算してみると西条辺りまでは無理なく到達する。―― キャンセルして先へ行くか? ――と思案したが、明日の58キロを一つのチャレンジにする楽しみと、岡田屋のオヤジにいわれた「絶対に無理だ」に対する(いささか大人げない)反発もあった。出来れば(出来るか?)余裕を持って58キロを歩き「着きましたよ」といってみたい。

湯之谷温泉はフロントを兼ねた玄関から右が旅館部、左が食堂と大浴場になっている。早く着いたこともあり、部屋へ案内してくれるオバサンに「食堂でビールは飲めますか」と尋ねた。彼女は肯定しながらも「こちらに自動販売機もありますよ」と教えてくれる。その方が手軽で良い。部屋に落ち着くと缶ビールで喉の渇きを癒した。

大浴場はビジターらしい客が六、七人いた。サウナなども併設されているが、温泉にもサウナにも趣味はなく手早く入浴を終えた。脱衣所に立派なディジタル体重計がある。なぜか体重計のない宿が続き、四国に来てから計ったのは岩本寺前の美馬旅館で唯一回だ。久し振りに乗ってみると4キロ減の53.8キロになっていた。しっかり歩いてかつ昼飯抜きなどが重なればさもあろう。

夕食は通常の6時を、頼んで5時半からに早めて貰った。正直なところ明日の行程に余裕を感じるほどの自信はない。少しでも早寝、早起き、早立ちをしたい。他の宿泊客よりも独り先に食事(晩酌)を始める。

此処の食堂はビジターの入浴客も利用出来るようになっていて、豊富ではないにしても単品メニューがある。追加料金でこれも利用出来るとのことに冷や奴と小イワシの煮物を選んだ。皿に乗って棚に置かれているのをセルフサービスで取る、大衆食堂方式だ。勘定は宿代6,300円、酒五本1,900円、焼き魚320円、冷や奴300円だった。

―― 52.8キロ ――

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4月17日(第二十 二日)

意気込んだ割には通常の3時起床5時出発になってしまった。暗いあいだは判り易い国道を行くか迷ったが、遍路道もさほどのことはないし半年前の記憶も助けてくれようと昨日の続きを辿る。加茂川を伊曽の橋で渡る頃にはすっかり明けていた。

渡ったところが武丈公園で堤を上流方向へ行く。桜は既に散っているのに景気づけのボンボリはいまだに林立しており、宴の後の哀歓が漂う。公園を出ると道は山裾に沿って屈曲しながら続くが、次第に国道に接近し、一時間ほどでついに合流した。

車道を隔てて向こうの歩道を自転車遍路が行く。マウンテンバイクやツーリング仕様車ではなく、家庭用いわゆるママチャリに乗った変な男だった。

国道歩きは幸い10分ほどで終わり、再び旧街道を行く。一時間半で合流し、池田池の先で分岐する時、頬髯を生やしたジイサン遍路を追越した。後ろ姿が視界に入ってから20分ぐらいで追付いたのだから、すぐに間隔が開くものと思っていたが、ジイサンは20メートルほど後ろの位置を確保するとぴったりと着いて来る。

一時間ほどこの状態が続き、飲料の自動販売機を利用するため立ち止まった時、近付いて来る彼に、―― 速いですね ――と声をかけてみた。カラカラと笑い声をあげ「丁度良い目標で助かった」と答える。結局ここでは抜かされず20メートルの間隔が再現した。

伊予土居の駅も近くなった辺りで、背後の足音が次第に大きくなり、―― これは追越されるか? ――と思って間もなく、なぜか足音は遠ざかり、しばらくして振り返ると既に彼の姿は見えなくなっていた。

二時間ちょっとではあったが、彼のお陰で集中して歩くことが出来、それに応じて行程もはかどる。これならば何とか昼飯も喰えそうだと彼に感謝した。寒川(さんがわ)辺りでの食事を目標にペースを落とさぬよう気を引き締める。

伊予寒川駅付近で旧街道は国道に接近し、国道沿いのドライブインや食堂がちらほら見える。すぐにもそちらへ行きたいと思いつつも、―― 12時を過ぎるまでは歩き続けよう ――と意地を張って頑張った。ところが12時を廻った頃には国道から離れ、寒川の町並みは商店こそチラホラあるものの食堂などはさっぱりないのだ。

淡い期待を持ち続けて先を急ぎ、三島市街の500メートルほど南を通過するにいたっては、―― あちらへ寄り道をすれば . . . . ――の考えも浮かぶが、距離を損した上に探すのに手間取れば、―― 痛手は二重になる ――と踏み切ることができなかった。

市街を過ぎたところで国道バイパスと交差する。此処を通過してしまえば今日も昼飯抜きだ。未練がましくバイパスを川之江方面へ数十メートル行くと、セルフサービスの大規模うどん屋があった。入り口で尋ねると酒も飲めるらしい。

幸運に感謝してアルミ製の盆を手に持ち列に並ぶ。メニューを見て、―― 定食をツマミに一杯やれる ――とほくそ笑んだ。しかしいざ順番が廻って来ると「定食は夕方5時からです」のつれない返事で、冷水を浴びせられた気分になる。勿論うどんあるいは丼物をツマミに飲むことは可能であった。しかしその意欲はすっかり醒めて、―― 昼飯抜きで頑張ろう ――に気持ちが切り替わってしまった。

バイパスを離れてすぐのところに食料品店がある。以前にも利用したことがあり、そして此処を過ぎると三角寺を越えて椿堂までの約10キロに商店はないはずだ。そして「食料品」ということになると、今日の宿、岡田までのあいだにもないかもしれない。そそくさと店に入り、稲荷寿司のパックとコロッケを一つずつ、それでも足りないような気がしてさらに太巻き寿司のパックを追加して買った。

店を出たところで太巻き寿司をザックにしまおうとして、そのズッシリ重い手応えに、―― 買い過ぎたか ――と僅かながら後悔した。これほど買い込んだのは久万の笛ヶ滝で耳にした、―― 岡田は握り飯を造ってくれない ――とのジイサン遍路情報があったためだ。稲荷寿司とコロッケはブレストポーチに入れて歩きながら食べる。手が油だらけになり、ポーチからティッシュペーパーを出して拭う。ゴミはまたポーチに逆戻りさせ、何かと便利に使う。

三角寺からの下り。棚田が印象的だった。

松山自動車道をボックスカルバートで潜り抜け、しばらく行くと銅山川発電所がある。4キロ離れた柳瀬ダムからパイプで結んで発電しているらしい。住宅地の中に上り坂が続き、家並みが途切れる辺りから山道が始まる。すぐに舗装道路と合流し、そしてまた山道。視界の良いところが多く、振り返ると平野の向こうに三島川之江港などが次第にせり上がる。

間もなく舗装道路に出るとほとんど水平に山の斜面を巻いて行く。昨年この辺りを歩いている時、自転車に乗ったオバサンが、―― 歩き方がしっかりしてる ――と誉めてくれた。自転車で上がってくる方が凄いと思ったが、補助モーターを装備した自転車であった。1時50分に三角寺に到着する。

三角寺からの下りは「同行二人(別冊)」によると二ルートあり、地図を見ただけでは迷うところだ。(廃業した)三星カントリークラブ経由の方が楽であるらしい(同行二人も第六版ではそのように改められている)。

舗装道路で適度な勾配なので歩き易く、道幅が狭いためか往来する車はほとんどない。平山まで一気に下り、ここで道が多少錯綜するが要所には道標があり記憶も合わせて無難に通過する。面白味のない舗装道路が続くけれど、交通量が少ないことを救いに前進を続けた。

松山自動車道の下を抜けるところでは、工事用大型ダンプの通行に備えて交通整理員が配置されていた。挨拶したついでに、―― 今日、此処を通過した遍路 ――がいるか訊いてみた。数人いたらしいがだいぶ前のことで、―― 今ごろは宿についているのでは ――とのことだった。この夕方岡田で会った人達だったのかもしれない。

間もなく尾根に隠れていた国道が下の方に姿を現わす。最後は下り坂となり椿堂、そして金生川を渡って国道に合流する。川に沿ったほぼ一定勾配の上りが一時間ほど続き、境目トンネルを抜けると水系が馬路川に替わる。

下り始めてすぐの所にドライブインがあり、コンビニエンスストアも併設されている。明日の朝食に用意しているものは、量的にいえば手持ちの稲荷寿司と太巻き寿司で充分と思うが、品揃えとしてはサンドイッチも食べたい。此処でサンドイッチと牛乳を買い込んだ。

馬路川沿いのほとんど直線に近い国道を一気に下る。10分ほどで佐野集落への分岐路があり、さらに5分で民宿岡田に着いたのは4時50分だった。宿になっているのは裏手の方の建物らしい。入り口のところでオヤジさんが迎えてくれる。

今日泊まる者としては最後の到着だったが、案内された部屋は馬路川を見おろす窓のある六畳間だった。他の部屋をちゃんと観察したわけではないから、推測が多いけれど一番良い部屋に落ち着いたような気がする。予約順に部屋を決めるのであろうか?

風呂は順番待ちなので飲み物を買いに出ようとして玄関口でオヤジさんと立ち話になった。実のところ会うまでは彼のことを多少なり、―― 狷介な人では? ――と畏れるところがあった。―― 「スポーツ八十八ヶ所」などなんたる不料簡 ――と叱責されないまでも、冷たい眼差しを覚悟していたのだ。しかし厳めしい顔にもかかわらず「拝まない遍路」も、―― 色々な考え方があっていい ――と容認してくれる。一事が万事で柔軟な考え方をする人らしい。

この日に泊まる人はほとんど(伊予)土居から歩いて来たらしい。去年の11月には土居から大興寺隣りの民宿大平まで行ったことを告げると、「三島から大興寺まで頑張る人はたまにいるが、土居からはあまり話しを聞かない」と誉めて(?)くれた。

「その調子ならばあと四日で終えるだろう」といわれて「いやあ無理ですよ」と答えたものの、部屋に戻って札所距離表を見直す。総計1,182キロで岡田が975キロ、すると残りは207キロ。最終日には大阪で友人に会うための移動時間を含めて計算すると、22日までに廻り終えることが可能だ。現実感に乏しかったゴールが急に生々しいものとして感じられ、気分が高揚して行くのが判る。

残りの日程を大まかに決めてから、改めて部屋の様子を観察する。 隣との仕切りは襖で、上は欄間で繋がっている。早朝からゴソゴソやるのには不味いなと思い、前もって謝っておくことにした。階下から上がって来て部屋に入た気配に隣りを訪う。学生風の若い男で、こちらの申し出にアハハと 陽気に声を立てて笑うと、―― 起き出しこそしませんがいつもその時間には目を覚ましています。気にしないで下さい ――と寛容な応対だった。

6時からの夕食に宿泊者一同の顔が揃う。定年を過ぎた夫婦、中年男の単独が二人、若い女性の二人連れ、先程の若者、それに当方を合わせて八名であった。オヤジさんが食卓の脇に坐って給仕してくれる。酒も、―― 五杯まとめてじゃコップもない。一杯ずつ注いでやるから ――ということになった。連れ合いを亡くされてからは、―― 今日は息子の嫁が手伝ってくれてるが、いつもは独りで全部やる ――とのことだ。

今回の四国で一番楽しい宿の夕食であった。全員が一つの食卓を囲んでいるのがまず良い御膳立てとなり、一部に発言が偏ることもなく皆が会話を楽しみ時が過ぎて行く。

昨日体重を計ったら、―― 4キロ減っていた ――話しをすると、若い女性の一人が「私は毎日もりもり食べているので増えました」と応え、オヤジさんが引き取って「しかし体脂肪は確実に減ってるよ」とコメントする。流に遅滞がなくリズムが快い。

主は 遍路道に関する情報も豊富だが、押しつけがましいところもなく皆の話しを楽しそうに聞いている。遍路を愛し、その手助けをすることが好きといった様子がありありと見える。そして「スポーツ八十八ヶ所」も排除しない。有り難いことだ。

「握り飯をお接待するから、要る人は手を挙げて」と彼が尋ねた。全員が手を挙げるのに一人だけ背くのは心苦しいが仕方ない。ジイサン遍路情報が間違っていた訳だが、従ったこちらの責任で、苦情のいいようもない。

晩酌・食事を終えて勘定を清算する。―― 領収書はいらないが飲んだ後なので覚えにメモを ――と頼むと箸袋裏に書いてくれた。今それを見ながら、宿泊5,500円(朝食抜きは500円引き)、酒6杯1,800円と確認する。

―― 58キロ ――

 

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