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阿波

3月27日(第一日)

夜行バスはほぼ定刻の5時20分に徳島駅に到着した。辺りはまだ夜の帳に覆われたままだ。トイレを使ったりしたあと引田までの切符を買った。二周目の最後に宿題として残してしまった部分をまずこなすために5時50分発の高徳線で引田へ向かうためだ。嫌いな夜行バスを利用したのもひとえにこの早朝列車を使うためであった。これを逃すと二日目に焼山寺を越すのが困難になる。

「朝飯は駅弁で」の思惑であったが、駅構内に入るとキオスクも開いていなければ駅弁売もいない。改札へ戻って付近で弁当の買えそうなところを尋ねると、―― 駅周辺のコンビニエンスストアでならば ――の返事だ。バスを降りた時、手回し良くそちらへ行けば問題なかったであろうが、今となっては時間的にかなり厳しい。無理をして列車に乗り遅れたら出だしから自らの足を引っ張るに等しい。潔く朝飯は諦めた。

辺りがすっかり明けた 頃に発車する。高曇りの穏やかな朝だ。列車は長閑な田園風景の中を行き、間もなく吉野川を渡った。6時11分、坂東に停車する。「宿題」さえなければ此処から一番札所の霊山寺へ向かうのが普通だが、致し方ない。それからしばらくして6時36分の定刻に引田到着。

簡単に身仕度を整えすぐ歩き出す。10分ほどでコンビニエンスストアがあった。これ幸いと立ち寄って235円のミックス・サンドイッチを買い、歩きながら朝飯にする。徳島で弁当が入手出来れば車中で食べるつもりであったが、歩き出した今は時間を少しでも節約したい。

霊山寺山門

順調に大阪峠を越え、未舗装の県道を行くと、背後から来た小型トラックを運転するオッサンが「歩くのは大変だろうから、乗せてやる」と車を停めた。親切は有り難いが、それをするくらいならば、そもそも引田まで 戻った意味がない。説明しても判らなそうだからひたすら丁重に断った。

9時48分、に霊山寺へ到着。いつもながら大勢の参拝客だ。それも当然の話で、番号が付いていれば一番から廻り始めるのが自然だろうし、 一日数ヶ所を廻るのに此処がスタートとなれば、効率良くするために午前中にお参りしたくなるだろう。他人の思惑はさて置き、本堂と大師堂の前で内心お辞儀をしてすぐに退出する。

以後は1.4キロ先の極楽寺に10時5分、さらに2.5キロで10時38分に金泉寺と足を急がせる。金泉寺には一風変った集団が参詣していた。

金泉寺で土下座する小中学生。

二十代の若いリーダーに率いられた小中学生からなる三十人ほどの連中だ。若年層が珍しいこともあるが、それだけではなく全員土下座して大師堂の前で読経をしている。しかし興味を惹かれたのも此処までで、彼等と言葉を交わすこともなく先へ向かった。

時刻は11時近くなる。 朝飯をサンドイッチで半端に済ませていることもあるし、ペース配分を計算すると、歩き続けなくても今日の目的地には問題なく到達出来そうだ。これならば昼飯・昼酒にありつけると、食堂を物色しながら歩く。

5分も歩いただろうか。木造平屋の年輪を感じさせる建物に、色あせた暖簾が翻っている。一瞬入ることを躊躇して十数歩行き過ぎるが、―― 此処を過ぎれば、次がすぐあるとは限らない。それにこの手の店は好みのはずだ ――と思い直して引き戸を開けた。中には六十くらいの小柄な女将がいるだけで客の姿はない。

冷や酒を一杯、そして「取りあえずツマミになりそうなもの」と注文する。ワンカップタイプの酒を持ってきた彼女は、それをテーブルに置きながら、―― ツマミは特にないが、昼定食のお菜をアテにすれば良かろう ――という。それで一向に構わないから飲みながら昼定食を待つうちに、一杯目が空になった。追加を注文すると、酒の在庫は今だしたそれが最後で、後は夕方にならないと業者が持ってこないとの返事だ。

調子がつき掛かったところで躓いたような気分になったが、観念して飯を待つことにする。ところが彼女は、―― 酒屋ならば百メートルも行かないところにあるのだが ――と付け加えた。そこまでいうのであれば、―― ちょっと一っ走り ――と一言ことわって靴を履き直す。引き戸を開けると、「前に停めてある自転車を . . . .」の声が掛かった。百メートルといったがもう少し遠いかも知れないらしい。

久し振りの自転車を危なっかしげに漕いで行くと、ナルホド三百メートルほどのところに酒屋があり、店内の幅一メートルほどのカウンターでは、近所のジイサンが冷や酒を飲んでいる。二合の酒を買って自転車の籠に入れ引き返す。 途中で先程見掛けた若年者集団とすれ違った。食堂へ帰り着くと定食もそろそろ出来上がるところであった。アジフライ、ポテトサラダに筍と蓮の煮物だ。

質素な昼食であったが面白い体験を出来 たこともあり、上機嫌で勘定にする。締めて850円の請求で、酒屋で調達した分は料金も持ち込み料もいらないといわれた。こんなこともあろうかと祝儀袋に500円 用意しておいたのを渡す。

昼酒の酔いは心地好いけれども足取りを鈍らせることもなく、毎分140歩のペースで快調に進む。このピッチは体に染み付いているものではない。今回の目論見に合わせて購入した「スポーツ用メトロノーム」が刻んでいる のだ。ちなみにこの小型軽量装置は2,500円で ピッチを毎分100から250のあいだの任意にセット出来る。

しばらくして大日寺へ向かう農道で、先程の若年者集団を追い抜く。 高速道路の下をくぐって多少坂道をのぼり大日寺に12時25分、引き返して途中から道が分かれて間もなく地蔵寺があり時刻は12時47分。 その後も順調に安楽寺、十楽寺、熊谷寺、法輪寺と廻り十番札所の切幡寺に着いたのは4時を少しばかり廻ったところだった。

寺から五百メートルほどのところにある民宿坂本屋に投宿。近所で明日の早立ちに備えて、弁当の類いを調達したかったが、スーパーマーケットもコンビニエンスストアもない。

初日、44.4キロ(六万二千歩、9時間。一番からの距離は27.9キロ)を歩き、まずまずの気持ちと、トレーニングを重ねて来た割には疲労が大きいとの落胆がない交ぜになる。部屋に入って靴下を脱いでみると、左足拇指爪が死んでいた。歩行中に痛みを感じることもなかったから油断がならない。靴(スニーカー)は毎日12キロ、合計100キロ以上の馴らし履きを済ませたものだが、注意していたものの若干爪が伸びすぎていたようだ。痛みもないので明日以降の歩行に差し支えなさそうなことが救いだが、ドロナワと思いつつ慎重に爪を切り直す。

同宿者は中高年男性の歩き遍路ばかり五名だった。夕食時には遍路道情報や靴などの装備に関する話題に花が咲いた。スタートから間もない分、気持ちは高揚しているであろうし、体の傷みは少なく、場の雰囲気はおのずと盛り上がろうというものだ。

酒を冷やで五本飲み、明日の朝飯代わりに今晩中にオニギリを造って貰うことにして勘定は締めて7,700円だった。早々と就寝する。時刻は定かではない。

―― 27.9キロ ――

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3月28日(第二日)

3時半に起床 した。音を立てぬように気遣いながら、握り飯をゆっくり食べる。併行して地図を下見して今日の累計歩行距離数を書き込んだり、ガイドブック(「四国遍路ひとり歩き同行二人(別冊)」)を参照して、昼飯を摂れそうなところの目星を付けたりしながら気分を歩きに向けて 高揚させて行く。今日は八十八ヶ所最初の難関(いわゆる「お遍路転がし」) として知られる焼山寺越えだ。

寝具を片付け、浴衣をキチンと畳み、座卓の上も出来るだけ整頓する。自宅にいる時はちらかし放題なのに、旅先でこのようにするのは、「外面」を気にするせいもあるが、それ以上に「片付けておくほど持ち物を 置き忘れて行くリスクが軽減出来る」と信じているからだ。

祝儀袋に入れた五百円をお茶道具の脇に置くと、身仕度を済ませて出発する。5時、表はまだ暗い。ヘッドランプを装着し、万歩計をリセット、スポーツ用メトロノームの音をオンにして歩き出した。

ヘッドランプは何やら大袈裟な感じがするため、以前は小型懐中電灯(ミニマグライト)を常用していた。しかし地図を正しく読むのに(老眼のため)拡大鏡が必要になり、片手に地図、片手に拡大鏡ということになると、懐中電灯のためにはもう一本手が必要となる。やむなくヘッドランプに切替えた。

しかしこれを点燈するのは読図か道標などを確かめる時だけだ。電池の消耗を防ぐためではない。なるべく人工的照明に頼らず夜道を歩く感覚を失いたくないことと、ランプの照らす狭い範囲に視界が限られてしまうと、 地形の巨視的な把握ができなくなり良くないと 思っているためだ。

夜明けにはまだ時間があるものの、次第に辺りが白み始め歩き易くなる。今朝の徳島地方は5時55分が日の出だ。半時間ほど歩いて朝焼けに紅く染まりながら静かに流れる吉野川にでた。

堤防を越えるとすぐ沈下橋がありその向こうに農道が続いている。広い中洲は最大幅1.5キロもあり、ほとんどが農地として利用されている。その中を斜めによぎるようにして20分ほど歩くと、樹林帯を通り抜けてもう一つの沈下橋に至る。 渡って堤防にのぼると眼前に川島の町が拡がった。早朝のためか、行き交う車や通行人は少ない。

静かな町を足早に通り抜け、町外れの畑から小さな丘を越えると藤井寺だ。6時40分に到着する。本堂や大師堂は既に扉を開いているが、納経所が7時にならないと開かないせいか、一般のお遍路さんはまだほとんど姿を見せず静かで良い。大師堂の前にいた三十位の女性二人は、ガイドブックを見ながら何事か相談していたが、やがて焼山寺へ向かう山道を登り始めた。

彼女等も「スポーツ八十八ヶ所」なのか、はたまた昨日納経は済ませてあるのか、ともかくその後を追うようにして先を急ぐ。「キツイ登りネ」「今からそんなこと言ってて、焼山寺まで行けるの」と掛合いをやりながら行く二人は、会話から察せられるようにペースは遅い。百メートルも行かぬうちに追い抜いて、―― ウィンドブレーカーを脱いでから ――追越せば良かったと思う。すぐに身仕度の小休止で抜き返されれば、なにやらまとわりついているごとき胡乱な動きとなるから。

 長戸庵へ登る尾根道からの徳島平野。

一気に10分ほど登って、多少汗をかいたところでウィンドブレーカーをザックにしまう。傾斜がきつかった分、標高も短時間に上がり、振り返ると眼下には徳島平野とその中央を流れる吉野川がたおやかな風景を展開していた。立ち止まるのは必要最短 に止め、そのまま最初に越さなければならない長戸庵のあるピークを目指した。

10分ほどで二十前後のカップルを追越す。装備は外見からすると野宿(テント)にも備えているらしく、かなり重そうだし歩みものろい。そのまま登り続けて一時間弱で長戸庵に着いた。溜めていたエネルギーを爆発させるような思いで速歩を続けるのは一種の快感だ。

尾根筋を辿る徑は明るく歩き易い。勿論天気が良いせいもあるが、この前歩いた時は小雨であったにもかかわらずそのように感じたものだ。しばらくして下りが始まり、柳水庵を過ぎれば、焼山寺は近い。

越川内、左右内(そうち)、釘貫の集落を通過し再び山道を登り始める。半時間ほどで呆気なく舗装道路にでて最初のお遍路転がしは終了し、焼山寺の本堂前に着いたのは10時5分だった。

以前二回の焼山寺越えに関する印象は「登りは呆気ないけれど下りが長い」であった。舗装道路がほとんどだから気を引き締めるほどのことはないが、気長に歩き続ける覚悟はした。 その一方で時間的に余裕があるから「昼酒、昼飯を楽しめるか」の思いも自然湧き上がる。まず は鍋岩、この辺りに食堂があるはずだ。

焼山寺からの下りには忘れられない思い出がある。96年3月に初めて遍路道を辿った時、山門から少し下った山道で五体投地さながらに身を投げ出しながら「有り難うございました」と感謝の言葉を繰り返している婦人がいた。還暦を過ぎているだろう、農漁業に従事しているのか 、顔は真っ黒に日焼けしていた。

暫くその動作を続けていたが、思いの丈を吐き出したのか、さっぱりした顔付きで立ち上がって歩き出したのは、たまたまこちらが行くのとほぼ同時であった。五体投地の激しさにも驚いたが、本当にビックリしたのはこの後だ。サンダル履きで買物袋片手ながら、歩き出すとその速いこと。トレッキングシューズにザックの こちらが、ともすれば置き去りにされそうになる。

遍路道歩きで競う気持ちはそれほどないが、還暦過ぎのサンダル婆さんに抜かれたくない意地はあり、山道を必死で歩いて下の舗装道路に出たところで立ち止まり地図を調べた。ほとんど同時に到着した彼女は、息も切らさずに「さすが旦那さんは男だから足が速い」と誉めてくれる。内心では「完璧に負けた」と思いつつ曖昧な返事を呟いて別れた。

―― あれはどの辺りだったか ――と、当時を回想しながら、此度は煽られることもなく下って鍋岩に着いた。左右内川に架かる橋の袂に食堂があり、この前は閉店していたのが今は内部に人の動きが見える。しかし引き戸を開けると、団体を迎える準備に四、五人が忙しげに働いる。望み薄と思いつつ、―― 11時だから団体が来る前に片隅で食事が出来るか ――の期待から声を掛けてみるがやはり駄目だ。次を探しに橋を渡ったところで背後から声を掛けられた。

店で働いていた一人であろうエプロン姿の若い女性が「お婆ちゃんからのお接待です」と、手に牛乳のパックとスダチジュースの缶を持っている。―― お遍路ではないのでお接待はご勘弁 ――と辞退したが、結局「お婆ちゃんの気持ちだから」と、受取らざるを得なくなった。出来るだけ丁重に礼を述べる。

少し下ったバス停(終点)付近で、柑橘類などを並べた屋台の後ろは、食堂とも思えないがそれでも「四国観光指定食堂」の幟をはためかせている。屋台で店番をしているオバサンに声を掛けてみた。「いま飯を炊いているところだから、ラーメンなら出来るけど . . . .」の返事に、此処も駄目と諦める。酒を呑みながら飯が炊き上がるのを待てば良かったとは後知恵だし、店の雰囲気に食指が動かなかったこともあった。このあと少なくとも一時間半は歩き続けることを覚悟する。

玉ヶ峠越えは標高差百五十メートルばかりだが、「焼山寺を過ぎれば下り一方」と思っていたこととのギャップ分だけ難儀に感じられる。峠を過ぎると標高差三百メートルの下方には鮎喰(あくい)川が蛇行している。陽射しは強いが清々しい風景のなかを行くのは楽しい。

本名(ほんみょう)まで下って、「あらい食堂」に暖簾が翻っている。中に入ると1時ちょっと前だが誰もおらず、居間の方からテレビの音声が聞こえて来た。あまり商売に熱心ではなさそうだ。声を掛けると奥から出て来た女将に「食事としては饂飩ぐらいしか出来ないが飲むことはできる」といわれ、冷や酒とお通しを頼んだ。大きめのコップ(グラス)になみなみと注いでくれる。お通しは小烏賊ゲソの酢の物。

今日の宿は大日寺前にある名西(みょうざい)旅館で、残すところ12キロ弱。時間的に考えればキャンセルして徳島市内まで足を延ばした方が、明日の行程が楽になる。しかし名西は大女将の物言いがサバサバして気持ち良く、96年以来二度泊まっている好みの宿だ。ならば、―― 後はほろ酔いでのんびり ――行こうと、コップ酒を三杯(四合近い?)飲んでから饂飩を食べる。勘定は1,850円。

あらい食堂を出て一時間ちょっと歩きプチペンションやすらぎでビーフカレーを食べる。実のところそれほど飢えていたわけではない。しかし目標の一日50キロ歩行は4,500キロカロリー程度必要と想定され、スタミナ切れを危惧している。出発前に多少なりとも体重を増やそうとして果たさず来ただけに、「食べられる時に少しでも」と考えた次第だ。

後は真面目に歩いて大日寺着は4時だった。県道を挟んで筋向かいにある名西旅館を訪ねると、出て来た女将は「お遍路さんの宿は新館の方になったので」と先に立って案内してくれた。再び県道を横断し、五十メートルと離れていないところにある3階建の新館 (名西旅館 花)へ行く。七十も半ばかと思われる大女将は相変わらず矍鑠としてこちらを差配していた。

一風呂浴びて汗を流してから彼女と言葉を交わす。あまりにこざっぱりしている新館よりも旧館の方が趣きがあって良かったことなどを話すと、―― あっちの方が夏は涼しくてええし . . . . ――といいながらも、新館を建てた理由を説明してくれた。長期滞在の職人が多く、彼等は午後11時頃までパチンコなどで遊んで帰って来る。いきおい早く就寝して早立ちしようとするお遍路さんからは苦情が絶えなかったらしい。

趣を別にすれば新館の方が良いことは多々ある。エレベータが設備されているのは足を傷めた歩き遍路には有り難いだろうし、襖仕切りではないちゃんとした個室、(好みによるが)ベッド、食堂の椅子席、温水洗浄トイレなど。

部屋へ戻って暇潰しに窓辺に佇み表を眺めていると、旧館の方から夕食を運んで来る。本格的厨房はあちらにあり、新館には簡単な湯茶、酒などの支度が出来る程度の台所らしい。6時になり館内放送が夕食の準備が出来たことをアナウンスする。

適当に席を選んで冷や酒五本を注文すると、大女将は、―― それじゃったらダルマみたいのがエエじゃろう ――といって、旧館の方へ出て行った。意味が判らないながらもその判断を信じて待つと、数分して徳利型ガラス一合壜が五本紙パックにセットされたものがコップ、栓抜きと共にテーブルに置かれた。酒に趣は求めないから、これは判り易くて良い。早速手酌で始める。

一緒のテーブルになったのは中年男性の歩き遍路だった。昨日は焼山寺を越え神山温泉(鮎喰川沿い。焼山寺から二、三時間のところ)に泊まり、今日はあまりに早く此処へ到着したため荷物を預けて市内のお参りを先行し、宿の亭主に車で迎えて貰ったとのことだった。

明日の朝食代わりの握り飯を受取り勘定8,500円を済ます。この日も早々就寝

―― 47.3キロ ――

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3月29日(第三日)

朝3時半に起床し、5時にヘッドランプを装着して出発する。新館は(舗装された)歩き遍路道沿いにあるが、鮎喰川に架かる一宮橋近辺は遍路道をそれて判り易い県道を行った。暗いあいだに無理をして道を間違えたくない。焼山寺越えは軽く考えていたが、今日の鶴林寺、大龍寺越えは厳しいものになると覚悟している。 道を間違えることによる時間の浪費だけは何としても避けたい。

慎重さが功を奏したのか、着いて当たり前なのか、ともかく5時半には無事常楽寺の境内にいた。午前7時前と午後5時過ぎは、納経などの参拝客(取り分け団体客)がいないためどこの札所を訪れても静かだ。そして早朝ともなればその静けさはいや増し、荘厳とさえいえる雰囲気が漂う。

しかしそれを堪能することも惜しんで先を急いだ。丘の麓に沿って曲がる道を行くことおよそ10分で国分寺に着く。こちらも本堂と大師堂の扉は開いていたが参拝する人の姿は見えない。駐車場に一台だけ車があり、六十くらいのオヤジが手持ちぶさたそうにしていたのは、納経所が開くのを待っているのか。

畑の中に続く遍路道は中程でバイパスにより無残に断ち切られているが、この時刻は往来する車も少ないため難無く横断出来る。―― もう少し行って右折 ――と意識していたのに行き過ぎて国道にぶつかってしまったのは、歩行が快調過ぎたためだろうか。避けたかった迷走だがロスタイムは10分以下だ。6時24分には観音寺に着く。此処もいたのは中年男性の歩き遍路が一人だけだった。

余談になるが、今日の予定は大龍寺を越えて54.6キロで、これを通常のお遍路さんが歩くのは非常に厳しいと思う。なぜならばこの間に読経、納経の対象は常楽寺から大龍寺までの八寺でその距離合計45.2キロ。納経開始時刻から終了時刻までが10時間だが、読経と納経に掛かる時間を(実際にはもっと長そうだが)平均20分としても歩くのに利用出来るのは7時間20分しかない。昼食その他を抜きでさえ時速6.1キロ で歩き続けることを必要とし、鶴林寺、大龍寺への標高差500メートルほどの登り降りをはじめそれ以外にも地蔵越えなどのあれこれを考えると、通常の「歩き」を超え、競歩や長距離走の世界に近い。

閑話休題、市街地を抜け高徳線を踏切で渡ってさらに一キロ強で井戸寺がある。もう少しで7時のせいか、境内には十数人の参拝客が既にいた。 それでなくても境内に留まる時間は短いが、さらに短縮されて恩山寺へと向かった。

田圃のなかに続く遍路道で、時々逢うのは朝の散歩をする人達だ。挨拶を交わしてすれ違う。高徳線を渡り、市街地の国道を僅か行くと鮎喰川だ。渡ってすぐ遍路道は二筋に分かれる。徳島市内中心部 を通過するのはその喧騒が嫌で避け、右の地蔵越しを選んだ。

標高差100メートルほどだが、眼中になかっただけに登りでがあるように感じられる。それから一時間半ほどで国道に合流し、先程分かれた遍路道も此処で一本になる。歩道は幅広く、歩くことに困難はないものの、すぐそばを多数の車輌 (それも少なからぬ大型車)が驀進して行くのは神経的に疲れる。前方に三人の遍路姿が見えた。

追付いてみると若い夫婦と八歳くらいの男の子だった。中高年の歩き遍路(それも男)は多いがこのような構成は珍しい。挨拶をして追い抜き、それからしばらくで遍路道は右へ分岐する。車の騒音が僅かばかり遠ざかっただけでホッとする。10時11分に恩山寺着。

恩山寺から立江寺への歩き遍路道は多少判り難く、国土地理院の二万五千図にも道路の記載がない。結局「へんろみち保存協力会」の道標を頼りに行く。ここに限ったことではないが協力会の道標にはどれだけお世話になったことか。

山道を抜けると麓に沿って湾曲した舗装道路になる。往古より歩かれて出来た道筋には車のために造られた道には無い味わいがあり、そのうえ車輌の往来も少ないため歩き易い。一時間足らずで立江寺に至った。

立江寺を過ぎても麓を行くパターンは続く。右側の山裾に人家が帯状に繋がり、左手には田圃が拡がっている。背後から近付いたエンジン音が低くなったと思うと、脇に停車した白い小型トラックを運転するオジサンが「鶴林寺までなら乗って行かないか」と声を掛けてくれた。

「歩いて行くと遠いヨ」と重ねて勧めてくれるのを、 丁重に断って先を急ぐ。毎分140ピッチを守ってひたすら急ぐ。途中で中高年男女三人の遍路を挨拶しながら追越すと、先頭を行くオジサンが「随分速いネ」といった。そうだろうと思う。

急ぐのには理由がある。今日の全体行程もさることながら、この先の(近辺で唯一食堂のある)沼江(ぬえ)辺りで食事を摂ることが出来るかは、ひとえにそれまでに貯金した余裕時間による。足りなければ飯抜きでひたすら歩くしかないのだ。そして鼻先にニンジンをぶら下げられた馬ではないが、報奨は身近で具体的なほど効果があるようだ。

頑張りは報われ12時をそれほど廻らないうちに予定の(メシが食える)行程をこなし、過度な期待を抱かぬよう自制しつつ見た食堂の軒先にはちゃんと暖簾が翻っている。入って荷物を降ろすのももどかしく冷や酒、そしてメニューを見てスタミナ定食のご飯抜きを注文した。

飲み始めれば落ち着きがでる。繋ぎのツマミにモズク酢の物を注文したり、トイレを利用したり、しかし食事時間は30分をメドとする。しばらくして車遍路の男女が入って来て相席になる。大分年に差があるようだが父娘かカップルか?

三杯目の冷や酒を注文すると、店のオヤジは「強いんですね」と、半ば揶揄するようにいいながら一升ビンを持って来る。これ以上は飲まない表明に「昼は三杯 . . . .」と口にすると、二人連れの女の方が「昼に三杯、夜には十杯」と呟いてクスリと笑う。「夜は五杯です」と返そうか考えたが、漫才のようなことはやめておく。

飲酒にラップして八宝菜定食を頼み、半時間では終わらなかったものの長引かせずに出発する。勘定は締めて2,640円。歩行が酔いのため遅れたりしないよう、通常以上にメトロノーム が刻むリズムに集中する。30分ほどで見覚えのある民宿「金子や」の看板が見え、それを過ぎると間もなく鶴林寺への登りが始まった。

10分ばかり坂道を行くと、前方に白装束のザック姿が見え隠れし始めた。競う気持ちはなくても、目標はあった方が励みになる。ことさらピッチを変えることはしないが一歩一歩に張りがでた。さらに10分ほど登ると話し声が聞こえて来た。先程の後ろ姿が先行 遍路と立ち話をしているらしい。

二人とも中高年男性遍路だった。先行していた方が宿泊予定の「金子や」が登り始めてしばらくたつのに見えないことに不安になり、追付いて来た彼に尋ねているところらしい。位置に関して誤解していたと判ると、例え20分といえども苦しい思いをして登って来たらしくがっかりしている。―― 折角此処まで来たのだから金子やをキャンセルして先へ行っては?2時前だからキャンセルしてもそれほど不都合ではない ――と後行遍路が奨め、こちらも同調して奨めたが、中々その気になれないらしい。

話しが長引くので失礼して先へ向かった。いま思えば前進を奨めたのは無責任だったかもしれない。あのペースでは大龍寺に5時前に到達するのは難しく、納経を済ませずに下山してしまえば戻るのがまた大変だ。しかしあの時点では納経所が役所みたいに5時に締るなど知らなかった 。もっと宗教的愛と寛容さに満ちたところと思っていたのだ。

標高330メートルのところで舗装道路に合流する。腕時計型(気圧式)高度計は登行状態が常に把握出来るので有り難い。例えばあと何メートル登らなければならないか、知って行くのと知らずに行くのでは気分的にまったく 異なる。

下って来た中年遍路が挨拶を交わしたあと「もう少しありますが頑張って下さい」と声を掛ける。―― 大きなお世話だ ――と思うが、立場が逆転すると同種の言葉が出そうになる。人間心理としてはそれが自然なのかもしれない。ともかく大して頑張る必要もなく鶴林寺に着いた。2時45分。

二十一番の大龍寺へ続く遍路道は駐車場そばからのコンクリート舗装された急な坂だ。車輌通行も可能であるが、一般車は締め出され(寺と専属契約した?)一台のワゴン車が足弱な人を運んで下の県道との間を往復している。県道を横断してさらに山道を下ると大井の集落で 、抜けると那賀川だ。ちょっと上流側で橋を渡ると再び上りが始まる。

若杉谷川に沿った遊歩道を2キロばかり行くとそこが「登山口」であるが、半時間ほどで呆気なくコンクリート舗装された道になり、すぐに山門がある。本堂に着いたのは4時半だった。

大龍寺へのアプローチは鶴林寺からの遍路道以外に、ロープウェイ利用と、1キロほど下の駐車場から歩く方法がある。山門から本堂へ向かう途中すれ違った六十過ぎの夫婦は、駐車場への道で追い抜いた時、「ロープウェイを使った方が良かったんじゃない」と、細君がこぼしていた。亭主の方は無言であったから、のぼるまえに論争があったのだろう。

ロープウェイのお陰(?)か、舗装道路を下っているにもかかわらず車の往来が少ないのが有り難い。5時半に龍山荘到着。この時刻だと既に到着している人がほとんどだが、その後も1グループぐらい来たようだ。全八室の宿は満員らしく、一週間前に予約しておいて良かった。通常はやらない予約だが、此処までは何としても予定通り歩くつもりで、その意志確認 のためと、逆に泊まれなかった場合に予定が大幅に狂うことを恐れていたからだ。

夕食は畳敷きの食堂で、各々の位置に名前が書かれた紙片が置いてある。顔ぶれを見ると、中年女性グループ、定年後(?)夫婦、男性歩き遍路など。若い人はいない。冷や酒をまとめて五杯頼み、明日の朝食は握り飯に替えて貰う。いま坐っている席のところに用意しておくとのことだった。勘定は締めて7,750円。

―― 51.3キロ ――

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3月30日(第四日)

夜中に目を覚ますと雨音が聞こえる。嬉しいことではないが、いずれにせよ三週間以上歩くのだから何処かで降られるのは仕方ない。鶴林寺、大龍寺越えが済んだ後であることを感謝するべきか。それに雨の中を歩くのはさほど嫌いではない。3時半に起床した。

食堂に降りてガラスの引き戸を開けようとすると内側から錠が掛けられている。中を覗くと、確かに昨晩食事をした位置に握り飯らしい紙包みが置いてある。領収書にも、―― 夕食の所におにぎりありますのでお出かけの時は忘れないようにして下さい ――と書き込んであり、念の入った馬鹿ばかしさに腹が立って来た。電話を掛けて宿の者を叩き起こそうかとも思ったが、取り敢えず部屋へ戻って今日歩くルートの下調べや雨支度、荷作りなどを先にすることにした。

次第に腹立ちもおさまる。食事抜きで歩くのはさほど苦にならないからほとんど見切りを付けていたが、トイレに行った時、別の階段が下へ通じているのを見付け、それを駄目もとで試すことにした。こちらは夜間照明がないからヘッドランプを持って静かに階下へ降りる。

階段の下は正面が業務用通用口で、洗濯物などが山になっている。右手にガラスの引き戸があり、厨房にでも通じているかと思いながら、軽くノックしてから恐るおそる開けてみるとあの座敷食堂だ。―― バカにするな! ――と罵るべきか、握り飯が入手出来たことを喜ぶべきか。とにかく部屋へ持ち帰り朝飯を開始した。

昨晩右足裏に僅かだが肉刺が出来掛かっていることを発見したためテーピングで補強し、5時に出発する。直前に部屋の窓を開けて空模様を確かめると、さほど強い降りではないし、風もないのでレインスーツはやめにし、折り畳み傘で行くことにした。すぐ下の民宿坂口屋のところで左へ分岐する道(というかこちらが県道の本線)がある以外は、一本道で迷いようがない。次第に明るくなり阿瀬比町の集落に出る。

国道を渡ってすぐ峠越えの遍路道が始まった。林間に続く道を行くのに丁度良いタイミングで出発したと思う。標高差200メートルの峠は思ったより遠く感じられたが、無事越えて西光寺集落に出る。桑野川に沿った道を1キロほど辿り、 6時48分に平等寺に着く。

着く直前に次へ向かう歩き遍路を見掛けたが、境内は無人だった。雨は降り続き、そのせいで多少なりとも余裕を失っていたのか、写真を撮ることも忘れたまま寺から南へ延びる道を歩き出していた。

半時間ほどで月夜集落に着き、Y字路にぶつかる。左が由岐へ通じることを示す車両用道標があり、そして保存協会道標は直進を示していた。直進路がよく見通せず車道を行くが、すぐに直進は月夜御水庵を通り抜ける近道であることが判る。保存協会を信ずべし。

反省はしたが時間差は1分程度だろう。あとは特筆することもなく鉦打(かねうち)で国道に合流する。そこからは味気ない国道歩きが続き、そして風雨ともに次第にその勢いを増して行った。二時間ほどで一ノ坂トンネルを過ぎる頃には烈風のため傘をさしていることが困難になる。

ブレスト・ポーチ。(装着状態へのリンク

このような事態にいたるまで傘に固執していたのはわけがある。近年、8キログラム程度のザックを背負って歩くだけで、年のせいか肩が酷く痛むようになり、それをいくらかでも軽減するために、今回の旅では手製のブレスト・ポーチで荷物を前後に振り分けている。今までのところこの作戦は成功といえそうだが、問題はこのポーチの防水だった。内側に完全防水タイプの布地を使用しているものの、縫い目やファスナー部分に何もしていないから、吹き降りの中を行けば中味がびしょ濡れになるのに大した時間は要さないだろう。それゆえに傘は半分このポーチの雨除けとしてさしていたのだ。

しかし歩きながらポーチの防水対策を考えるうちに大体の案はまとまったし、あとは出来るだけ早く風雨を避けられる場所を見付けてレインスーツに切替えるべきだ。日和佐の町に入ろうかという辺りで、折良く道路右側に食堂を見付けた。車二、三台が駐車出来る程度の道路拡幅部に貼り着いたような小さな店だ。

渡りに舟、地獄に仏、の思いで中に入る。客は誰もおらず、軽い知的障害をうかがわせる少年が「イラッシャイ」と水を運んで来た。奥の厨房ではオヤジが仕込みをやっている。昼飯も喰うつもりだが、取り敢えず冷や酒を注文する。少年は奥から一升ビンとコップを持って来るとなみなみと注いでくれた。

飲みながら着替えを始める。まず隅のテーブルで待機していた少年に大き目のレジ袋を分けて欲しいと頼んだ。多少なりとも面倒な話しと察したのか、暖簾を分けてオヤジが顔を出し、隅の小引き出しから二つ引っ張り出してくれた。靴を脱ぎ、濡れそぼった靴下を店の表で絞る。次いでこれもびしょ濡れのチノパンツを脱いだ。スポーツ用スパッツを着用していたし、他に客もいなかったので失礼する。レインスーツを出してパンツを履き、濡れモノをレジ袋に入れてザックにしまった。

一段落したところで酒をもう一杯注文し「ツマミになりそうなものを」というと、白身魚と小松菜の煮物が出された。飲みながら今日の宿探しに掛かる。この先は国道歩きが続き、上り 下りや判り難いところはないから、精一杯距離を延ばし、約30キロ先の奥浦を目標とした。幸い最初に掛けた「みなみ旅館」で決まりホッとする。

ブレスト・ポーチの中味を全部レジ袋に移し、丸ごとポーチに納めると、予想以上にピッタリだ。歩きながらの考案がこのように上手く行くと思わず心中で快哉を叫んだ。三杯目とカツ丼を注文し、そそくさと昼飯を掻き込む。料金は二千円とメモに残っているが、些か安過ぎるような気もする。ともかくこの食堂には世話になった。

食事を終える頃に若い歩き遍路が姿を現わした。今朝は平等寺からスタートしたとのことだ。どこまで行くか尋ねると、彼はニッコリ笑いながら、―― 行けるところまで . . . . ――と答る。若さ故に体力に自信があるのかもしれない。

雨上着(レインジャケット)を着用して食堂を出ると、10分ほどで薬王寺へ着いた。11時50分。 そこからは国道を行く「ひたすら辛抱」の歩行が延々続く。約三時間で牟岐。JRの駅へ寄ってトイレを拝借した。駅前のコンビニエンスストアで、―― サンドイッチでも買ってエネルギー補給 ――とも考えたが、何となく行き過ぎる。雨は小降りになって来た。

数分歩いたところで、道路反対側に「お遍路さん無料休憩所」の表示があり、二人の遍路がベンチに腰をおろしている。お接待の人がこちらに気付き立ちかけたが、頭を下げて身振りで通過することを伝えた。当方はお遍路ではないということも理由の一つだが、それ以上に暫時腰掛けたりすれば、休憩になるよりも立ち上がる時の辛さが遥かに大きい。目的地までは立ち止まることなく歩き通すつもりだ。

一時間半強で浅川。久々に国道を離れて歩くことができる。しばらく行くと道が二筋に分かれている。自転車で通り掛かった老女に、―― どちらが奥浦に通じるか ――尋ねた。どちらでもの答に、地図を見直しても確かにその通りだ。かなり疲れている。

さらに辛抱の一時間半。メトロノームは140のピッチを刻み続けるが、とてもそのペースでは歩けない。漸く海部橋が見えてホッとする。橋を渡ってすぐの電気屋さんでみなみ旅館の位置を訊いた。疲労のため例え僅かな距離でも行き過ぎたりしたくない。わざわざ表まで出て「あの白い車が停まっている辺り . . . .」と親切に教えてくれる。礼を述べると「ありがとう」と返された。こちらでは一般的なことかもしれないが心が和む。

辿り着いたみなみ旅館は年輪を感じさせる建物で、入り口は四坪ほどのコンクリート土間になっている。声を掛けると奥から主人夫婦が出迎えてくれた。

濡れ物の処理を始める。ザックカバーは外して表で水を切る。レインスーツを脱ぐと、亭主が「そこの自転車に掛けておけば良い」と教えてくれた。女将が「洗濯機と乾燥機を使えば。靴はボイラー室で乾かせる . . . .」など。傘は部屋で干してもよいとのことだった(嫌がるところが多い)。

案内された部屋は二階の八畳間で、元々は大広間であったものを三つに仕切ったらしい。床の間には50センチ・ウーハー・スピーカーをセットした8トラック・カセットテープのカラオケ装置が鎮座している。現役ではあるまいが。石油ストーブが赤々と燃え、今はそれが有り難い。漸く緊張がほぐれて来た。

間口は二間ほどだが奥行きのある建物で、途中から三階へ上がる階段があったりする。風呂場は奥の方に三つあり、食事はさらにその奥だ。濡れてしまったチノパンツと靴下を洗濯、乾燥する。「洗剤はこれを使えば . . . .」と女将が教えてくれた。好意に甘んずるつもりでいたが、彼女が立ち去ったあとで考え直した。すすぎに掛かる時間を節約したくて水洗いだけにする。

3分間脱水して乾燥機に放り込み30分をセットする。再び姿を現わした女将は「脱水しましたか?」と尋ねる。どうやら、―― このオヤジ日頃洗濯などしたことはあるまい ――と看做されたようだ。確かに世間の中高年男性はその方が一般的かもしれない。

乾燥をそのままに、風呂、そして食事を始める。先程食堂を覗いた時は外人さんが一人でテレビを見ながら食事をしていたが、今は誰もいない。隣りの席に置かれた名札を見ると「ワークス様」となっていた。―― 外人さんの多い宿だ。彼等のネットワークに流れているのか . . . . ――と思ったのは早とちりで、しばらくして現れたのは職人さん二人、ワークスという会社の人間だった。

冷や酒五杯に朝飯替わりのオニギリを頼んで、勘定は8,000円。部屋に戻る時、乾燥の終わった衣類を回収する。玄関を見ると、既に濡れた靴はなくなっていた。ボイラー室に移動したらしい。

―― 54.6キロ ――

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