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伊予1

4月9日(第十四日)

3時に起床し、握り飯を食べながらあれこれ今日の準備に掛かる。昨晩から考えていたことだが、ひとまずスニーカーをトレッキングシューズに切替えることにした。スニーカーが腫れ上がった足に小さ過ぎることは明白だし、 だからといってすぐに靴の買い替えをする余裕も今はない。

荷作りを終えるとトレッキングシューズを持って階下へ降りる。スニーカーはレジ袋に包んでザックにしまった。切替えが上手く行くという自信もなかったためだ。靴を履くと音を忍ばせて(昨晩そうするようにいわれた)横手の非常口から表へ出た。去年の3月20日は辺りに霜の降りる寒さだったが、今朝はウィンドブレーカーも必要ないほどの暖かさだ。

5時に歩き出す。辺りが白み始めた頃Y字路にぶつかり、ヘッドランプを点けて道標を探し地図を見る。しかし地図にはどちらかの道が記載されていない。どちらを選ぶか迷っていると、折良くすぐそばの農家から畑へ向かうのであろう小型トラックが出て来た。

手を挙げて停車して貰い道を尋ねる。どちらも行き着く先は同じで、左は県道、右は旧道、近いのは旧道の方と教えてくれた。礼をいってトラックが走り去ってから気付いたのは、ヘッドランプを直接彼の顔に向けて話しをしていたことだ。大変失礼なことをした けれど後の祭、次からは注意しよう。

観自在寺

快晴でも湿度が高いせいか視界は霞んでいる。しかしそれは風景に優しげな趣を加え、海を見ると心が和む。

この近辺は地図を見ても判断の付かない箇所が多かったが、このY字路以後は道標が助けてくれた。保存協会のもの以外に、 この辺りだけで見掛けたA4サイズのものが要所々々に設置されていたのだ。夜が明けて行ったことも道探しを楽にしてくれた。

1時間半で僧都川にぶつかり左折する。川沿いの遊歩道を散歩する人がちらほら見えた。間もなく城辺(じょうへん)の市街に入り、僧都川を渡る御荘(みしょう)町になる。市街地を1キロほどで観自在寺だった。7時10分着。

寺を出て10分ほどで国道に合流する。歩道があるので歩くことに不都合はないが味気ない。登校時刻にあたるので小学生の集団登校や、中高校生の自転車登校と頻繁にすれ違った。

小学生からは「お早うございます」の声が掛かることが多い。こちらも丁寧に「お早うございます」と応えるようにする。中高校生になると挨拶は激減する。自分がその年頃だった頃を思い返せば無理ないと思うが、中には明るく、時には含羞んだ声が掛かることもある。

平山から一時間ほど内陸部を行き室手で再び海が見える。御荘から室手にかけては真珠養殖の盛んなところで、海面には貝の入った籠を吊り下げている白いブイが至る所に点々と連なっている。

内海が近くなって前方に男女の遍路姿が見えた。次第にその姿が大きくなり20メートルほどに接近した時、交通整理のガードマンに何事か尋ねていた二人は、そのまま国道を北上して行った。茶堂を越える遍路道であればその地点で右折しなければならない。

すぐ先に郵便局がありそちらへ寄ったか、山道を避けて国道を迂回して行ったのか。出会いを楽しみにしていたわけではないが、追付く寸前ではぐらかされたようで中途半端な気分になる。

柏坂越えは遍路道の難所ということにはなっていない(と思う)。しかし足の状態が良くない現在、標高差450メートル、全長7.5キロの山越えは手強いものと覚悟していた。救いと思えるのは、これさえ通過出来れば、後は平坦な舗装道路が続くことだ。松尾トンネルは旧道を行くとかなりの登り(と距離)になるが、いざとなれば現国道を行くことで回避出来る。

高度計をセットし直して登り始める。目安は10分間で高度100メートル、距離1キロだ。この公式に従うと最初の坂を登り切るのに標高差450メートル、水平距離2キロだから65分を目標として頑張る。

足の故障に関しては再三述べてきたことだが、実際に傷んでいるのは足(足首から下)のそれも前三分の一ぐらいだけだ。それを除けば脛も腿も関節も快調だし、さらにいえば心肺機能も好調だ。従って足先をいたわりながら未舗装道路を歩く時、下降が一番辛く、登りは足の置き場所を選びながら行く上では平坦地より楽とさえいえる。450メートル登るのにほぼ目標に近い時間で済んだのもこのようなことによるのだろう。

尾根筋の明るい樹林帯のなかに続く、幅が広くて石塊の少ない道はあるき易い。この状態に感謝しながら先を急いでいると、三人連れとすれ違った。遍路でないことは明らかで、ハイキングにも見えず、役所か大学の人間が調査に訪れているような印象であった。山道で見掛けたのは結局この三人だけだ。

しばらくして降りが始まる。辛い分だけ長く感じ、のぼった高度の倍も下ったような気分になるが、高度計は正直なもので遅々として数字が変らない。それでも漸く茶堂を過ぎ、そして砂利道の林道に出た。乗用車が一台駐車していたのは、先程の三人連れのものだろう。 遍路道は林道を横切り、さらに半時間を要して小祝の集落に達した。やっと平坦な舗装道路を歩くことができる。

20分ほど歩くと内海で分かれた国道と交錯する。宿毛へはこの国道を行くことになるが、暫くのあいだは芳原川の対岸に延びる鄙びた道を辿ることが出来、内田でそれも途切れるが川の土手上に自転車道路が設けられていた。

この近辺で行程を計算し予定から遅れていないことを確認し、昨年利用した食堂に入る。「手づけ一本」という変った名前の店で、蒲鉾屋が経営し、食堂とカラオケと蒲鉾売り場の複合施設だ。この前に来た時は女子高校生の集団がカラオケ前の腹ごしらえをしていたため、騒がしくて仕方なかったが今回はそのようなこともなかった。

冷や酒と店の自慢らしいジャコ天を注文する。カウンター脇を見るとセルフサービスで好みの惣菜を選ぶ方式もやっているので、ホウレン草、玉葱、卵を炒り煮にした一皿を取る。これをツマミに飲むうちに熱々揚げたてのジャコ天が運ばれて来た。自慢するだけあって美味。

三杯目の酒を追加する時に焼き饂飩も注文し、これもツマミにする。何しろ半時間は忙しないがなんとか終わらせて勘定にする。2,153円だった。

カラオケ食堂を出て30分で津島町の扇状地状を登り詰め上谷。此処で新旧国道が分かれる。距離が短く平坦だが、排気ガスと騒音の充満する松尾トンネルを避け旧道を辿った。トンネルが嫌なこともあったが、 「旧道を歩く」という意地が通せる程度の余力がまだあったのだ。

「旧」とはいえ元は国道でメンテナンスもしっかりされている(旧国道の管理者は国か県か?)から歩き易い。しかしそれでも上りより下りが長く感じられた。足の状態によるものなのか、それとも―― 上り始める時には気力が充実している ――といった心理的要因なのか。

下りの長さに辟易し、歩き飽きた(「疲」よりも「飽」「倦」などの感覚)ころ漸く現国道が見える。しかし合流しないまま2キロほど平行に行けたのは有り難かった。その後は忍の一字の国道歩き。疲労に伴う気力の低下、そしてそれに反比例して地図を見る回数が増える。

宇和島の市街に入って間もなく、「インターネット・マンガ喫茶」を見掛け、一瞬メールチェックの考えが脳裏をよぎった。しかし体の方はまったく反応せず歩み続ける。

左足の太腿に僅かな変調を感じる。軽い肉離れだろうか。それにしても平地を歩いて筋肉にあまり負荷の掛からない状態で発生したことを訝しく思う。これ以上進行しなければ良いのだが。

昨日大盛屋から予約した今日の宿、金龍荘は北宇和島駅のそばにある。4キロ手前と目算した橋を渡ったところで、―― あと1時間、6時ごろには着けると思います ――の予告電話を掛けた。

宇和島城を半周するように行き、繁華街を通り抜けてしばらくで宇和島駅。県合同庁舎のところで左折してJR予讃線を渡り、その先で国道と合流する。此処でコンビニエンスストアを見付けて明日の朝食を調達した。これに手間取り(言い訳)金龍荘に到着したのは6時を少し廻っていた。

この宿も一年前泊まったところで、女将は朧げながらもこちらのことを覚えていた。「お遍路さんだったら職人さんの泊まっていない旧館の方が良いと思って。もう散り掛けていますが桜の見えるお部屋を用意しておきました」と案内してくれたのは、裏手の四畳半だった。

窓から見おろすとせせらぎがあり、その向こうに桜の樹が一本、満開は過ぎているが散りぎわの風情が良い。この前に泊まった時は休日前夜であったため、夜も更けてから酒を飲んだ職人(ペンキ屋)達が帰って来てうるさかった。そこら辺を配慮してくれたのも嬉しい。

一風呂浴びて食堂へ降りる。職人達は既に夕食を終えたようで一人だけだ。女将が野菜の煮物と小鉢などを運んで来ると、―― いま肉を炒めますから ――と厨房部分へ行ってフライパンをコンロに乗せる。離れてはいるがお互いの顔が見え話ができる。

冷や酒を頼んだその時、表から中年の女性が入って来た。女将と良く似た顔立ちなのは姉か妹らしく、替わって酒を給仕してくれる。彼女もこちらのことが記憶にあり(こちらは覚えていなかった)三人で、―― 昨年は彼女達の母親が入院してごたごたしていた ――ことなどを話題に和やかな雰囲気になった。

しばらくして炒めたての肉を盛った一皿が運ばれて来る。此処の夕食は世間一般の旅館(民宿)とはまったく異なり、どちらかといえば家庭料理に近い。ラッキョウや梅干しは自家製のものが大瓶に詰められて各テーブルに置いてある。―― 好きに取って下さい ――とのことなので、ラッキョウをツマミに加えた。

酒もこの前は一升瓶が目の前に置かれて手酌でやったものだ。旅館流の料理やもてなしにも飽きて来た頃だけに一層、此処の方式は微笑ましく感じられた。

―― 52.7キロ ――

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4月10日(第十五日)

起床3時。 朝飯を食べながら昨晩の勘定(領収書)を見ると5,800円だ。酒五杯は「お接待」ということか。確かに部屋は狭いし質素な夕食で設備も古びているが、それにしても廉価だ。酒だけの話しではなく、―― 桜の見える部屋 ――の心遣いも印象に残っている。

いつも置く(除くうらしま)祝儀袋の中味を千円にした。袋に「酒代」と記そうかと思ったが、もし「お接待」といわれていたならば失礼になるし、酒五杯に千円では代金として不足かと思われる。替わりに「お世話になりました」と書いた。

龍光寺

仏木寺。読経しているのは龍光寺でも会った中年車遍路。

県道はこの辺り数キロに亘りチューリップロードになっている。

5時に出発する。暗闇のなかを行くが光満川沿いの県道は迷いようがなく、そのうちに白々と明け始めた。窓峠を越えて変則五叉路のある務田(むでん)に着いた時はすっかり明けていた。予讃線を陸橋で渡り、田圃のなかに続く一本道を行く。

役場からのお知らせがラウドスピーカーから辺り一帯に響き渡っている。龍光寺に着いたのは6時36分で、境内には地元らしい六十過ぎの男性がお参りしているだけだった。こちらが拝まないのとは対照的に、本堂、大師堂は当然として、境内にある仏像や小さなお堂一つ一つの前に佇み何事か唱えていた。

それでも「拝まない者」に対する眼差しは冷たいものではなく、挨拶の後に歩いて廻っていることを伝えるとねぎらいの言葉が返って来た。

次へ向かおうと保存協会の道標を探す。四年前に此処を通った時は意識せずに正しい道を辿ったが、一年前は門前にある「四国のみち道標」を見て誤った方向に導かれ遠回りをさせられた苦い記憶がある。保存協会の道標はすぐ見付かり、駐車場から墓場を抜けて行け ば良いことが判った。

駐車場にあるトイレを借用して出て来ると、相次いで二台の車が乗り入れて来る。7時が近いせいか。後から来たワンボックスカーを運転する中年男は、人懐っこい笑みを浮かべて挨拶すると本堂の方へ早足で去って行った。

墓地を抜けると樹林のなかを標高差にして20メートルほど登ってすぐ降りに転じる。下はビニールハウスのあいだを抜ける細い農道で、50メートルたらずで県道にぶつかった。順路を取る限り間違いようもないが、逆打ちであれば迷いそうなところだ。

一年前に遠回りをしてこの先の県道に出た時、逆打ちをしている老遍路から道を訊かれ、自分が間違えたこと以外には地形図から読み取れることしか答えることが出来なかった。今朝また逆打ちの遍路に会うとも思えないが、それでも「万が一」に備えて、正しくかつ判り易いように説明するべく目印等をしっかり記憶した。

早朝の県道は行き交う車輌も少なく、清々しい大気の中を気持ち良く歩く。龍光寺から半時間ほどで仏木寺に着いた。7時34分。こちらも参拝者はまだ少なくしじまが保たれている。

本堂、大師堂を廻り、山門を出ようとして声を掛けられた。振り返ると龍光寺で見掛けた中年の車遍路だ。しばらく話すうちに彼の口からバスで廻る団体の遍路を苦々しく思う言葉が出た。続けて、―― 龍光寺で住職の説教を聴いたが、やはり団体のマナーが悪いことを嘆いて、「参拝して納経所にも寄らないとは他人の家にずかずか踏み込みそのまま挨拶もなしに出て行くに等しい。あれではご利益などあるものか」といってました ――など。

彼と別れて独り歩きながら考える。団体で来る人々のご利益など当方には関りのないことだが、周囲への心配りなどまるで感じられない振る舞い、集団で声高に読経し花木魚を打ち鳴らすなどは不愉快で、なるべく近付かないようにしている。しかしご利益を商売にしている人の言葉にも耳を傾ける気持ちにはなれない。

八十八ヶ所を歩いていると次第に寺を訪れるのが嫌いになって来た。寺そのものではなくそこで交錯する人々が嫌なのだ。―― 八十八ヶ所を寺のところだけ迂回して歩く ――などの過激な思い付きさえ浮かぶ。これは極論で寺での出会いも今朝の龍光寺や先程山門のところで立ち話した彼など、良き思い出も多いのだが。

後ろから来たワンボックスカーが追越し際に軽くクラクションを鳴らし、振り向くと片手を軽く挙げる姿が見える。バックミラーから見えるようにこちらも大きく右手を挙げて別れの挨拶を送った。―― 初めて顔を合わせお互いの名も知らず話し、この先また会うことも多分ない ――このような出会いも良いものだ。

仏木寺から10分で遍路道は左へそれる。歯長峠への登り口で標高は190メートル。350メートルまで登ると県道と再交差し、此処から先は峠まで急な坂道が半時間ほど連続する。峠は明るく見晴らしも良いが、残念なことに見える景色が平板で面白味に欠ける。

休むことなく降りを開始した。今日になってまだいくらも歩いていないのに、足が痛むのは昨日のツケが残っているためか。有効な対策とてなく、ただ足をいたわりながら静かに歩く。降りの最終部分は伐採作業のためか道が荒れ てことさら辛く、歯を食い縛るようにして歩みを進め、漸く舗装道路へ出た時はホッと息をついた。

県道歩きが味気ないことは相変わらずだが、そのことに不平を述べる余裕もなくなり、今は順調に行程が進むことを何よりと思う。そしてそれから一時間ほどは、黙々と歩き続けた。明るく晴れ渡った爽やかな日であったが、それを楽しむこともできない。時折地図を確認するかペットボトルから給水する以外は変化もな い。

明石寺

岩瀬川を渡って間もなく遍路道は右へそれる。墓場の横を抜けて行くちょっとした未舗装道路にも苦しみながら、それでも何とか10時55分には明石寺に辿り着くことが出来た。

寺から卯之町方面へ直接降りる道は本堂の横を少し登った所から始まる。標高差が僅か100メートルしかないにもかかわらず、うめくようにして下った。

卯之町の家並みは古格な趣が好ましく、余裕を持って散歩でもすれば充分楽しめるところと思う。しかし今日の目的地、内子(うちこ)までは30キロを残し散歩どころではない。

しかし先を急ぐ気持ちとは裏腹な思いもあった。一年前昼飯を摂った食堂の再訪だ。 「やすい」の名を冠した大衆食堂で、独特の趣きとその名に恥じぬ廉価さが印象に残っている。それに、―― 昼に三杯 ――は今回の通し歩きに関し、自らに課したハードルの一つで、昨日までは苦しい日にもなんとかそれを越えて来たものだ。

一方で内子までの歩行時間を概算すれば、到着は早くても6時半になる。歩行は遅れるであろうし、その上食事を摂れば7時半以降の到着になる。如何にするべきか?心は千々に乱れ、ともかく食堂に行き着くまではと足を急がせる。―― いっそ店が閉まっていれば良い ――などの思いも心をよぎった。

予想していた辺りに食堂はなく、卯之町の町並みも尽きようとしたところにコンビニエンスストアがあり、食堂を諦めて―― サンドイッチを買って歩きながら ――と思いながらもなんとなく行き過ぎる。そこから50メートルのところで「やすい食堂」の暖簾が翻っていた。

考えることを止めにして店に入る。冷や酒と「ツマミになりそうなものを適当に」と注文する。酒がすぐ運ばれ、大して待たされることもなく一皿に、出汁巻、マカロニサラダ、片口鰯の煮物、キャベツにドレッシングをかけたものが出される。中々の早業だ。

飲みながら(一年前にも見たメニューを)改めて見る。A5サイズの紙に手書きの細かい文字でびっしり書き込まれている。食堂としては圧倒的なレパートリーだ。所々に星印が付いているのは確かお薦めメニューであったはずだ。

しばらくして七十近いが矍鑠としたバアサンが入って来て昼飯を注文すると、女将を相手に、――この数日間、役場の手伝いで行った粗大ゴミの回収が如何に大変であったか  ――話し始めた。表現がしっかりして具体的なこともあり、聴いていると面白い。高齢にもかかわらす廃品回収関係の家業を差配しているらしく、その奮闘ぶりが窺われる。結局こちらが飲み食いしているあいだ、バアサンの話しは途切れることがなかった。

三杯目の冷や酒に、星印の付いているチャンポンを注文した。食事を終えて料金は1,800円程度かと思うがはっきりしない。身仕度をしていると、廃品回収のバアサンは漸くこちらの存在に気付いたように声をかけて来た。歩いているのかと訊いてねぎらい、―― 今日はぬくいから気を付けて行くように ――といたわりの言葉で送り出してくれた。

酔いが発するのを抑え、ひたすらメトロノームに集中する。この辺りの国道はバイパス化されたところが多く、旧道を行くと車輌通行が少ないだけでなく家並みにやすらぎがある有り難い。歩き出して一時間を過ぎると足の故障は悪化し、一歩踏み出す度に痛みが足指のつけ根辺りから拡がり、小砂利の上を裸足で歩いているような思いをする。歩みを止めると再開時の痛みがさらに酷いから、歩行を続けながら今後どのようにするか考えを整理する。

内子まで行けば8時半を過ぎるし、手前で宿泊するならば10キロ手前の大洲になる。内子の次に宿泊するのは久万にしたいが、大洲から久万は約50キロで到達範囲だ。携帯電話で内子の新町荘旅館にキャンセルをお願いする。申し訳ないキャンセルだが、ねぎらいの言葉を頂き恐縮する。

次いで大洲のビジネスホテル・オータに電話した。選択基準は、少しでも久万に近く、疲労と故障を抱えている時は旅館よりホテルが良いの二つだ。簡単に予約が取れ安堵する。

2時に鳥坂峠への分岐に出る。以前二回は峠の山道を辿ったが、足の状態は峠越えができるものではない。排気ガスと騒音を堪えてトンネルを通り抜ける。

大洲までは単調な下りで約7キロ、まず中間点の札掛を目標に頑張る。札掛近くなって自転車を押して上って来る二人の少年が見えた。見栄を張ってスタスタ歩く。すれ違う時にトンネルまでの道のりを訊かれ、地図で確認して「後2キロ」と答えると、落胆の思いが悲鳴になって漏れたが、それで礼を述べるとまたテクテク上って行った。どこまで行くつもりなのか。

札掛を過ぎ、疲労と痛みを我慢しながら歩くうちに、―― いっそのこと明日を休養日に ――する考えが浮かび上がった。徳島から七日間歩いて高知で一日休養し(その時は休養とは考えていなかったが)、それからまた七日間歩いたから、そろそろ休みを挟んでも良いだろう。ホテル・オータ に再電話して連泊に変更した。

大洲は旧市街の脇を抜け、新冨士(しんとみす)橋で肱川を渡る。深い考えはなく、旧市街は以前二回通過したし、新冨士橋経由でも距離的に大差ないと思ったためだ。

渡ってから川沿いを行きながら、対岸に見える旧市街の眺めは趣きがあり選択は当りと思ったところが、肱川橋のすぐ手前で道路工事箇所にぶつかった。僅か100メートルほどの砂利道を歩かされる、これが辛い。歯を食い縛ってゆっくり歩き、中程でコンクリートのL型側溝上を歩けるようになりホッとした。

仏足跡(左右反転)

 

(見苦しい写真ですが)腫れ上がった足先。

八ヶ月後にほぼ元通りに戻った

肱川橋を過ぎてからは呆気なく(10分程度を覚悟していたが)5分でホテルの前に出た。チェックインに際しては裏手の(国道に面していない)部屋を希望する。連泊しての休養日を車輌の騒音などに邪魔されたくない。

希望したのが良かったのか、元々の割り当てだったのか、ともかく裏手の317号室に落ち着いた。荷物を降ろすと即ベッドに腰掛け、靴と靴下を脱いでテーピングを引き剥がす。今日一日、痛められ続けて来た足が蘇る思いがする。

明日は休養日だから何事も急ぐ必要はない。改めて体調をチェックする。足先(指)の状態は無残なもので、取り分け左足が酷い。指は腫れ上がり何やら仏足跡を連想させるものがあり独り苦笑する。足裏は指の付根に肉刺が連続して山脈状になっている。親指と人差指のあいだにできた肉刺は発達して足の表側にまで膨れ上がっていた。取り敢えずアーミーナイフでリンパ液を抜く。

左足の肉離れは昨夕から進行もしていないが快復もしていない。歩いている最中に右肩に痛みを感じたが、無視していた。今ザックを下ろした状態で右手を挙げようとすると水平以上は上がらない。打撲に似た痛みだが何が原因なのか。それ以外は問題なく、歩き続ける意欲も失われていない。

部屋で一息ついてから夕食へ出掛ける。フロントで居酒屋数軒、薬局、コンビニエンスストアの所在地を教えて貰った。いずれも徒歩3、4分の範囲にあり、ホテルの立地条件が良いことを喜んだ。

旅立つ前にいわゆる掛かり付け医に頼んで消炎鎮痛薬をクリームと錠剤の二種類処方して貰った。その時点で危惧していたのは股関節痛であったが、こちらの方はまったく問題ないのに足先の痛みだけが激しい。クリームは傷のある部分に使用出来ないが、錠剤の効果は期待出来るとの説明に、足を傷めてからは日に二錠服用していた。その手持ちが底を突いている。

まず薬局に行き持参した調剤薬局の説明書を見せ、同種の薬を入手出来るか訊いた。この手の薬品は処方がないと駄目との返答だ(帰宅後調べたところでは劇薬に分類されるらしい)。売薬として入手出来るのは一般的な鎮痛剤だけらしいが、これは使用したくない。痛みを感じない状態で、さらに足先の障害を拡大させることが恐ろしかったためだ。

薬は諦め居酒屋に移動する。フロントで奨めてくれた鶏料理の店だ。時刻が早いせいか、客の入りは三割程度、カウンターの端に席を占める。冷や酒、鳥刺盛り合わせとジャコパリパリサラダで呑み始める。カウンターの中では主らしい頭を剃り上げたオヤジ、二十代半ばの若い衆、見習い程度の少年の三人だ。

このオヤジが事あるごとに少年を苛める。二人のどちらに非があるか判断しようもないが、どちらが悪いにせよイジメの現場を目の前にするのは不愉快だ。余程店を替えようかと思ったが、それも億劫で飲み続けた。酒五杯にラーメンを最後に食べ、四千円で僅かに釣を受取ったようだ。

帰り道、教えて貰ったコンビニエンスストアより、さらにホテルから近い店で用が足りることを発見。その晩は飲料のペットボトルを買い、ホテルへ戻る。徒歩1分だった。

―― 41.0キロ ――

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4月11日(第十六日) 停滞

習慣なので早々目覚めるが、することもないので睡眠と覚醒を繰り返す。ホテルの朝食を摂った後はまた漫然と時を過ごし、11時半に昼食に出掛ける。日曜日のせいかはたまた時刻が早過ぎたのか、ほとんどの飲食店は閉まっている。仕方なく国道まで戻ると、目の前を中年男の遍路姿がスタスタ通り過ぎた。見上げる空は絶好の遍路(歩行)日和、羨望の思いで彼の後ろ姿を見送る。

国道沿い、ホテルそばの和食「うめたこ」に入った。酢の物と冷や酒で飲み始め、魚(何だったか忘れた)の煮物をツマミにのんびり飲み続ける。喉に放り込むような昼酒を続けていたから対照が際だち、休養日の豊かさを楽しむ。四杯飲んで3,980円。ホテルへ戻って昼寝。

昨日チェックインする時、―― 明日は一日休養 ――するつもりを告げると、「起こさないで下さい」の札を渡してくれた。部屋に入った時からドアノブにこれをかけっぱなしにしている。昼酒の後の午睡は本来身についた旅のパターンでありながら、連日、「早立ち・早飯・早歩き」を繰り返していた。久し振りの午睡も快く、一日の遅れを残念に思いつつも、―― 良い休養日だった ――と思うのだ。

夕方5時に出掛ける。薬局でビタミンCの錠剤を買った。余裕のない食事が多く、不足している栄養素は色々ありそうだが、(気休めのような気もするが)疲労快復効果も含めてCの補給を一番に考えた。その後はお好み焼きの「美ゆき」で五杯飲む、4,450円だった。帰り道に昨晩見付けたストアで明朝に備えて弁当、サンドイッチ、飲料を買う。明日からは強行軍の再開で、気分を切替えると共に早々就寝。

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4月12日(第十七日)

起床3時5時出発。 暗い国道を行く。車の往来が少なく道幅が広いので車道を歩く。早朝に限らず車道を歩くことは多いが、(歩くための)歩道より(車のための)車道の方が歩き易いのは皮肉なことだと思う。

二時間歩いて五十崎(いかざき)の辺りで遍路道は国道から左へそれる。すぐに未舗装道路となり、―― ウッ ――という気分になる。勾配も緩く車も走るような道路で、昨年歩いた時は一気に通り過ぎ、未舗装であったことなど記憶から消え去っていた。しかし一日の休養で疲労は解消しても傷みからは快復しておらず、今はそろりそろりと歩くしかない。

幸い未舗装区間はさほど長く続かず、舗装された農道から内子運動公園を抜け、町に入ることが出来た。7時半は通勤通学の人々や、開店準備に立ち働く人などで活況を呈する時刻だ。そんな町のリズムに合わせるように足早に通り過ぎる。

町外れで国道に合流し、急峻な山間を小田川に沿って蛇行しながら行く。間もなく遍路の後ろ姿が見えた。しっかり歩いているが僅かに乱れが見えるのは足を傷めているためか。

しばらくして追付き言葉を交わす。五十代で(多分遍路中に)伸びた髭は半白だ。大洲を3時半に出発したとのことに、その早さに驚いてさらに話してみると、同じホテルオータに宿泊していたことが判った。それだから如何ということもないが、そこはかとない親近感を覚える。今日の目的地も同じ久万ということだった。

味気ない国道歩きを路傍の花が慰めてくれる。

「巡航速度」に差があるため、―― また何処かでお会いしましょう ――と先を急いだ。数キロ歩いてから、―― あの人の大洲から会った地点までのペースでは、久万に着くのは深夜になってしまう。大丈夫なのか? ――と心配になった。しかし八十八ヶ所も二巡目とのことであったし、突合(つきあわせ)で遅い時刻であれば小田へ行けば良いことなどを思い出した。それに心配したところでそれ以上具体的に面倒を見ることなど出来ないし。

記憶によれば突合まで食堂はなく、それ以降はさらに期待出来ない。せめてサンドイッチか稲荷寿司の類いでも手に入らないかと思いつつ歩くが、商店そのものがほとんどない。落合いで国道を離れた時点で昼飯抜きを覚悟した。

昼酒は自らに課したハードルの一つであるとは既に記したことだが、酒を持参してまでそれを守ろうとする気はない。成り行きに従うまでのことだ。そして当然のことながら昼酒など飲まない方が歩みははかどるし時間も節約出来る。二回くらい続けて食事抜きのまま歩くのも気にならないので、足に故障のある今、―― キツイ行程 ――と思っている大洲から久万で酒を飲まずに行けることは幸運と感じたのも本音だ。

上畦々(かみうねうね)から下坂場峠越えの山道が始まる。標高差160メートルで登りはさしたることがなく、下りは舗装道路(県道42号線。遠回りを厭わなければ山道を歩かずこれ一本で峠を越えられる)であったのは幸い。下って田圃もある宮成集落の開けた風景を通過し、森田から再び山間へ分け入る。

由良野から果樹園の中を行く農道を登る。路傍で休む六十代の夫婦遍路を追越した。果樹園が尽きると傾斜はきつくなる。好天のせいもあり額に汗して行くと、伐採したばかりの丸太を片付けていた樵に会い、挨拶に続いて、―― 今日は温(ぬく)いのう ――といわれ改めて南国の初夏の訪れを意識する。

夫婦遍路は20メートルほど後にピタリと続き、鶸田峠を越えても間隔は変らない。やはり痛めた足は山道で牛歩を余儀なくされるようだ。久万の町に入って道を間違え、最終的に(偶然同じであった)宿に着いたのはあちらの方が早かった。

4時に宿の笛ヶ滝に着く。一階の食堂がフロント代わりの受け付けになっている。昼酒の代償というわけでもないが荷物を脇に置いてビールを一本貰う。

ホテルオータから此処を予約した時、―― 三階でも良いですか? ――と念を押されて少しばかり怪訝に思った。そのことを訊くと、やはり足を傷めている人は「三階」と聞いて止めたりするらしい。しかしもし再びこの宿を利用する機会に、二、三階の両方が利用可であれば、躊躇なく三階を選ぶであろう。構造が違うのだ。

此処を現在の鉄筋三階建に改築する際、一階は食堂と貸店舗、二階を民宿、そして三階はワンルームマンションとして造ったらしい。その後三階は(たぶん入居希望者も少なく)民宿の方が手狭になったため、改築することもなく民宿に転用したとのことだ。鍵を貰って入ってみると、ベランダを備えた部屋にトイレ付きユニットバスとキッチンがある。これに鍋、包丁、食器が備われば完璧だが、長逗留する人がいるわけでなし、ヤカン一つがあるだけだった。

宿から国道を挟んでほぼ真向かいに松山生協久万店があり、ここに明日の朝食を調達に行った。折り詰め巻寿司、サンドイッチ、飲み物と、さらに苺パックにインスタントみそ汁まで買い込んだのはキッチンを見て刺激を受けたせいだろう。

5時から一階の食堂で夕食になる。同席したのは由良野で会った夫婦と、六十過ぎの男性歩き遍路だった。彼は二十回以上の歩き遍路を経験しているらしく、さすがに情報は豊富であったが、どこか漂う高慢さが鼻持ちならず、こちらから話し掛ける気にはまったく成らなかった。ちなみ に昨日、昼飯に出掛けた時に見掛けた後ろ姿はこの人らしい。

いつの間にか内子の町外れで会った彼も食卓にいる。別れた後、歩くペースを思い切り上げたらしい。ともかく無事に着いてくれたことを喜んだ。

定量の5杯を飲んで一泊8,000円。

―― 47.0キロ ――

 

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