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土佐編

3月31日(第五日)

3時20分に起床する。パターン化しつつある「朝食を摂りながらのコース下調べ」をするつもりであったが、昨晩頼んだ握り飯が見付からない。何らかの手違いがあったと思うが、酒を五杯飲んだあとでの遣り取りに自信はなく、こちらのミスと諦めることにした。

雨が止んでいるのが嬉しい。レインスーツを畳んだり、折り畳み傘を巻いたりして片付ける。靴もスニーカーに戻すことにし、玄関にトレッキングシューズを回収に行く。しかし見当たらない。朝飯は食べなければすむことだが、こちらは放棄して行くわけにも行かず、「ボイラー室で . . . .」の言葉を手掛かりにヘッドランプ片手に探索に掛かった。本来ならば施設部分への無断立ち入りは許されないと思うが、「緊急事態」と勝手に決めてしまう。―― あるとすれば風呂場の近辺 ――の想定は当たりで、それらしいドアを開けると、トレッキングシューズがヘッドランプの明りに照らし出された。

半歩踏み込んでそれを取り、静かに部屋へ戻る。靴の中には水気取りの新聞紙が詰め込んであった。丁寧な処置に感謝する。荷作りを終わって5時に出発した。玄関へ降りると先程は消えていた明りが灯され、上がり框の中央にレジ袋に入れたものが置いてある。中味を確かめると暖かみの残る握り飯だ。予想外のことであったが早朝に起きて支度をしてくれたのだ。奥に声を掛けようかと思ったが、―― 休んでいる人を起こしても ――と思い直しそのまま表へ出た。

だいぶ後になるが帰宅後に礼状を書いた。

前略、3月30日にお世話になった金子です。当日は風雨ともに激しく、阿南市からの歩行はかなり困難なものでした。それにもかかわらず翌日から快適な旅を続けることが出来たのは、洗濯機、乾燥機を供与して頂き、濡れた靴もボイラー室で乾かせたお陰です。御礼申し上げます。

 31日の朝、無断でボイラー室に入り靴を持ち出したことをお詫びする一方、早朝に握り飯をご用意いただいたことは有り難かったです。明け行く海岸線の道路を歩きながら頬張りました。まだ温もりの残るそれは旨かったです。お蔭様で当日中に金剛頂寺近くまで歩みを進めることができました。

その後は色々とトラブルに遭遇しながらも歩行前進を続け、4月22日に一番札所霊山寺へ至ることができました。

また海部郡を旅することがあれば貴方へお世話になりたいと思っています。

雨上がりの爽やかな空気を心地好く感じながら140ピッチで足を急がせる。この時間は国道を歩いていても交通量が少なく、快適だ。山間の切り通しを抜けると那佐湾だ。海岸の堤防沿いに半時間足らず行くと那佐の集落当たりで夜が明けた。握り飯を食べながら歩く。

宍喰町は遍路道を辿らずそのまま国道を行く。多少距離的に近いし、交通量も少なかったためだ。道の駅が在ったのでトイレを使った。あとはひたすら先を急ぐ。野根で遍路道は国道を離れる。保存協会の道標は東洋大師(明徳寺)を指しているが、これはパスしてそのまま集落の中央を横切った。

野根川を渡ると国道に合流し、人家はなくなり海岸線に沿った単調な道が続く。 断続的に国道の改修工事が行われていた。豪雨により地盤が緩んだ箇所の復旧で、当然のことながら海側だけだ。カラーコーンがセンターラインに並べられ海側車線が通行禁止になっている。実際の工事に着手しているのはごく僅かなため、車が締め出された車道を歩くのは快適だ。くどいようだが海側であり、そして交通量が片側交互通行のため半減している。渋滞を嫌って 迂回路を選ぶ人もいるだろうから、半減以下かもしれない。

11時半を過ぎて佐喜浜の入り口で久々に国道をそれる。佐喜浜川を渡ってすこしの所に食堂があった。時刻は12時ちょっと前。この先の夫婦岩に在る以前利用したドライブインで昼食を予定していたが、既に30キロ歩いたことでもあるし、なによりもこの佇まいに惹かれた。暖簾をくぐる。

ガラ空きと思っていたが地元らしい四人の先客があり、それ以上に意外だったのは奥から姿を現わした女将だ。店の外見から主は古色蒼然として苔むしたような爺さんと予想していたのが、モダンな感じの美人 で一瞬眩しいような思いがした。先客はコップ酒を飲みながら隣りのオバサンと熱心に話し込んでいる初老の男性、ラーメンを啜る爺さん、もう一人は何を食べていたか忘れた。ともあれ冷や酒を頼む。

初老の男は漁師らしい。彼等の生活パターンからすれば、夜明け前から漁場で仕事をしているのであろうから、この時刻に飲酒するのも早いとはいえないだろう。女将がジャガイモ、ニンジン、バラ肉の煮付けを盛った皿をいくつか運んで来ると蝿帳にしまった。この手のものが数種類用意され、客は好みのものを自分で選ぶ方式だ。湯気を立てている煮付けはいかにも旨そうで横取りするようにして肴にする。

三杯目に炒飯を一緒に注文する。日頃はカロリー過剰を懸念して避けているメニューだが今は逆に積極的に摂ろうとしている。話しの相手が帰ってしまった漁師は、退屈しのぎかこちらに話し掛けて来た。「八十八ヶ所は何故88なのだ?」。質問の意図するところは些か曖昧だが、こちらも昼酒のせいか上機嫌だから相手をする。

しばらく意味不明瞭な遣り取りが続いたが、炒飯を運んで来た女将が「こちらは食事をしているのだからカランではいけません」とたしなめたので問答は終了となる。楽しみつつも急いで終えた昼食の勘定は1,700円。

半時間の昼食休憩後、酒プラス炒飯パワーで頑張る。単調な道が続き面白味はないものの、上り下りがほとんどないため行程ははかどった。 しかし2時を過ぎると猛然と眠気が襲って来る。歩いていながら次第に朦朧とし、時として正常に歩けなくなる危険さえ感じた。

窮余の策として携帯電話で飲み友達を呼び出す。自営業だからこの時刻でも取り敢えず付き合ってくれるが「営業妨害」であったことは確かだ。ともかく数分間、旅の与太噺などを続けるあいだに眠気は去り、目的地まで歩き通す意欲が戻って来た。この「救急電話」には翌日以降も世話になり、眠い時ばかりではなく、疲労や足の傷みにより歩く気力が低下している時にも立ち直る力を与えて貰った。

携帯電話の本来想定していた役割、宿の予約あるいは天気予報などの情報収集以外に、強力な機能として感じたのがこの救急電話だ。歩きながら利用出来るのも良い。受けてくれる人が必ずいるとは限らないであろうが。

2時半を廻って右に室戸市内へ続く県道が分かれ、人家も増えて岬が近いことを感じさせる。 しかし心理的には此処からが長かった。室戸青年大師像の巨大で趣味が良いとは思えない姿が見えた時はその裏手辺りから最御崎寺への上り口があるのではと期待したが、実際にはそれから1キロ以上も先であった。

3時ちょっと過ぎに漸く国道を離れ、標高差およそ150メートルを一気に登る。最御崎寺到着は3時半だった。境内には幸い団体客もおらず静寂が保たれている。しかし今日宿泊予定の民宿うらしままでは後9キロを残しそれほどのんびりはしていられない。コンクリート舗装された参道を行き、ぶつかった県道203号を一気に下った。

津照寺までは市街地の中を行くつまらない道だ。国道と平行している県道を行けるため車輌に悩まされることがないのが救いか。国道に合流したところでコンビニエンスストアを見付けて明日の朝食用弁当を調達しようとしたが、品揃えの余りに貧弱なことに呆れてすぐ店を出る。

津照寺のすぐ手前にスーパーマーケットが在り、ここで弁当を買う。ガラスケースの中にあるように見え、店員に取り出してくれるよう頼んだところ、「自分で取って下さい」といわれた。ガラスなどなかったのだ。だいぶ疲れているのだろうか。津照寺には4時40分に到着する。

到着時刻を地図に記し、写真も撮らずに慌ただしく津照寺を後にした。太陽の光が赤味を増し、夕暮れの近いことを感じさせる。20分弱歩いて国道と交差するところで進むべき道に迷い民宿に電話して尋ねる。バイパスが出来て地図記載とだいぶ異なった感じになっていたためだ。携帯電話の便利さに感謝しつつ、後は迷うこともなく5時半に「うらしま」に着いた。

部屋に入って靴下を脱ぐと右足小指が血肉刺で脹れ上がっている。歩いている時に痛みを感ずることはなかったし今もそれは同じだが、目にすると気分の良いものではない。取り敢えずアーミーナイフの鋏を使ってリンパ液を抜いた。浴衣に着替えてすぐ風呂を浴びる。他の宿泊客は早めに到着して風呂は済んでいるらしい。

しばらくして元気の良い挨拶を口にしながら中年男が入って来た。印象から歩き遍路かと思ったが、言葉を交わしてみると野生動物の被害防除を行う会社の人で、猪防除を依頼されて電気牧柵の設置に出張中とのことだった。話好きの様子なのでこの装置に若干の興味もあり訊いてみた。

本来家畜を牧場内に留めるために開発された装置だが、現在は外からの侵入を防ぐのに幅広く利用されている。電圧は9000ボルトあるが、電流が小さくパルスのため危険性は少ないとのことだ。さらに人間の場合はゴム長などの絶縁性が高い靴を履いているためショックもさほどではないらしい。―― 新人研修で触った連中はたいしたことはないとバカにするので、その時は裸足になって触らせる。皆ひっくり返ります ――との話しだ。電気牧柵を見掛けても試すのは止めておいた方が良さそうだ。

風呂を上がって食堂へ行く。泊まり客は風呂場であった彼以外に三人。二人は連れの定年退職後遍路、もう一人は白髪の爺さんでともに歩きで廻っている人達だった。爺さんは一席ブツのが好きなタイプらしい。「バロメーター」を再三くちにしながらマイペースで行くことの大事さを説いていた。

冷や酒五杯を注文すると、一杯運んで来たオヤジはそのまま表へ出て行った。しばらくして片手に一升ビンを下げて戻って来たから、近所の酒屋まで買いに行ったらしい。

定年退職遍路は奥浦(の生本旅館。みなみ旅館の真向かい)から来たというので、相当の健脚と思ったが、生本に泊まったのは一昨日とのことであった。早出をしたいらしい爺さんはオヤジに握り飯が可能か訊いていたが駄目らしい。それを見越したわけではないが弁当を買っておいたことを喜ぶ。酒五杯を含む料金は8,000円だった。

―― 54.6キロ ――

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4月1日(第六日)

3時20分起床し5時半に出発する。民宿うらしまは建て直したばかりらしく設備その他に不満はなかったが、握り飯を作らないなどそのサービスは何処かよそよそしいものがあり、祝儀袋は置かないことにした。一周を通じて泊まった旅館(民宿)計21軒で、置かなかったのは結局此処だけであった。

昨日右足に血肉刺が出来たので、若干靴紐を緩めにしてみる。どうやら靴がわずかながら小さめであったようだが、今のところそれを替える余裕はない。

表は既に薄明るくなっている。前回歩いた時、金剛頂寺からの下りで多少迷ったような記憶があるため明るくなるのを待ったのだが、もう少し早くても大丈夫だったようだ。しばらく前にマイペース爺さんが出発したらしいので、すぐ追付けると思いつつ140ピッチ歩行で進む。しかし寺までの1.2キロでそれを果たさず、その後も終日彼の姿を見ることはなかった。マイペースで何処へ行ってしまったのだろうか。

金剛頂寺に着いたのは6時だった。本堂、大師堂の扉は開かれているが参拝者は誰もいない。この静けさは何より好ましく思うところだ。しかしすぐに先を急いで出発したのは今日中に出来れば手結(てい)まで辿り着きたいと思っていたためだ。その距離およそ56キロ、そして途中に在る神峯寺へは標高差430メートルの往復で、遍路道としては難所ということになっている。

懸念していた下りの道筋も、意外に判り易くすんなりと辿ることが出来た。半時間で山道を下り、海沿いに細長く張り着いた集落を行く。集落が途切れると国道、そしてまた集落を繰り返し、羽根川橋を渡ってしばらく行ったところで遍路道は国道をそれる。分岐のちょっと手前にコンビニエンスストアが在った。歩き始めて三時間経過しているし、燃料補給の意味でミックスサンドイッチを買って歩きながら食べた。食べ終わって数分後、軽い眩暈を覚えたのは血液が胃袋の方へ集中したためか?補給も簡単ではないと思う。

分岐から1キロほどで山越えの細いけれど舗装された坂道になる。前回歩いた時は後ろから来た小型トラックを運転する農夫から、取れたてのトマトを一袋「接待」されたことなどを懐かしく思い出した。

急な登りで100メートルほど標高を上げると、台地上に拡がる農地になる。緩く下りながら途中、―― 靴紐がこれでは緩過ぎる ――と、農道で足を止め紐を絞め直した。前の舗装された小径を小型バイクに二人乗りした中年農夫(婦)が行き過ぎる。朝の挨拶を交わしその後ろ姿を見送った。これから畑に向かう「出勤途上」らしいが、若い男女の二人乗りと違い、どこか微笑ましく感じられる。

山越えしてからは単調な海沿い国道を4キロで奈半利。町を通り抜けて10分ほどのところで食堂を見付け早めの昼食にした。冷や酒に酢の物と野菜炒めを頼む。一杯目を飲み終わった頃、髪を金色にした暴走族風の若い男が入って来ると生ビールを二杯注文した。

連れがいるかと思ったが一向に現れず、こちらが二、三杯目を飲みさらに親子丼を食べながら観察したところでは、「ビールは二杯まとめて」が、彼の流儀らしい。色々あるものだ。ともかく半時間ちょっとで昼飯を終えた。

店を出て1キロほど先の安田川まで行ってペットボトルを忘れたことに気付く。たかがペットボトルだがこのタイプは何故か日本では見かけず、昨年ポーランドから持ち帰ったものだ。栓の開閉がワンタッチで出来、胴体部分も圧して中味を喉へ流し込むのに適すように補強リブを施していない。ベルトに装着したホルダーにこのペットボトルを入れておくと、こまめな給水が可能になる。

戻ることには一瞬躊躇があったが、―― あれは歩行の必需品 ――と、踵を返した。店では「捨てて行ったもの」とみなしていたらしい。外見はみすぼらしいものだし、ゴミ箱に放り込まれていなかったのが幸いというものだ。

時間のロスは残念であったが、気を取り直して神峯寺を目指す。しかし足の具合に異変を感じた。坂を上りはじめて変調ははっきりして来た。それでも舗装道路を歩いているあいだは良かったが、山道になるとどうにもならない。足裏前部が猛烈に痛み、なるべく凸凹のないところを選びつつも忍び歩くようにしないと進めない。

山は丁度桜が満開の時期で、中腹の公園では隣り近所が誘い合わせて来たような団体が長閑に花見の宴会を楽しんでいる。しかしこちらはそれどころではなく、脂汗を流すような思いで足を運び何とか神峯寺には辿り着くことが出来た。時刻は1時半。

思い返せば金剛頂寺からの降りで傷めていたらしい。しかしあの時は痛みの兆候も感じていなかったから恐ろしいものだ。朝の思い付き、――  若干靴紐を緩めに――が間違いであったと思うが、後の祭というものだ。

手結までの残り24キロは、この調子からすると少なくとも六時間かかるであろうし、痛みを堪えてそれほど歩き続けられる自信もない。宿の予約をしていなかったことを幸いに、安芸に泊まることにした。二年前に一度利用した山登家へ電話する。

すいているのか簡単に予約出来た。遍路かと訊かれたので歩いている旨伝える。後で気付いたことだが、どうやら一般と遍路では料金体系が若干異なるらしい。判っていれば、―― 八十八ヶ所を歩いているが遍路ではない ――と申告するべきであったか。

降りの山道は登りにも増して辛い。しかし旅立ちから足を傷めたこと、さらには歩行を放棄して交通機関に頼ってしまうことまで含めて、全て自己責任だ。誰を責めることもできないが、誰から責められることもない。昨日までの歩行が「スピードレース」であったとすれば、気持ちを「耐久レース」に切替えて辛抱する。

安芸市境を越えた辺りで国道を自転車で走って来た爺さんが、道端に停車すると何処から来たか尋ねる。神奈川からと答ると、遠路来たことをねぎらい、―― この先の地蔵堂は遊歩道が整備され眺めも良いから是非寄るよう ――奨めてくれた。行ってみると以前歩いたこともあり、遍路道の道標も指し示しているが、通りがかりの人から受ける好意は嬉しく、そして何よりも気分転換になったのが有り難かった。

遊歩道から程なく道の駅が在る。ここでトイレと牛乳に依る栄養補給。しかし腰を降ろさないのは勿論、立ち止まるのもなるべく短くする。一旦歩みを止めてしまうと歩き出しの数分間は痛みが倍加されるから。

道の駅を過ぎると海岸堤防上の遊歩道が3キロほど続く。湾を越して安芸の市街は見えているが、中々近付くことが出来ない。それでものろい歩みながら着実な前進を続け、何とか伊尾木川橋、安芸川橋を渡って市街に入った。二年前の記憶が残る街路を行き山登家へ辿り着いた。

声を掛けるとすぐに女将が姿を現わす。部屋へ案内しようとするのを止めて、弁当を買えそうな店を尋ねた。すぐに休みたい気持ちはあるが、手結を諦めて十数キロ距離を短縮したことに対するせめてもの意地だ。彼女は、―― そこの国道を左へ行くとすぐの所に ――と教えてくれた。荷物を玄関に置いてそちらへ向かう。

わずか400メートルのところであったが、途中で道を間違えたかと思ったほど遠く感じる。それでも何とか海苔巻の折り詰め、サンドイッチ、牛乳500ccなどを調達出来た。

宿へ戻ると荷物は既に部屋へ運んであった。窓からは川を見おろすことが出来、清流とはいい難いがそれでも水鳥や鯉の姿が眺められるのは心が和む。

靴下を脱いでみると足の状態はかなり酷いものであった。左足の方が傷んでいる。親指は初日に死んだ爪の裏側に血肉刺が出来、全体が数ミリ浮き上がってぐらぐらしている。小指にも血肉刺が出来、その他の指も膨れ上がっていた。取り敢えず血肉刺を潰し、絆創膏で固定して風呂に入った。

汗を流してから浴槽に身を浸すと、それ以上何もする気がなくなり呆然と時を過ごす。体が温まり緊張がほぐれると幾分楽になった。結局セッケンを使うこともせずに入浴を終える。部屋へ戻ってしばらくして夕食と告げられたのは6時であった。

食堂には既に中年の男性歩き遍路が一人食卓に向い、携帯メールを送ることに専念していた。他の客はついに姿を見せなかったが、一般料金だと部屋食が出来るのかもしれない。ともかくいつも通りの冷や酒五杯を注文する。

勘定は9,350円だったようだがはっきりしない。雨が降り始めていた。食事を終えるとすぐ就寝する。寝ている分には足に痛みはなく、すぐ寝付くことが出来たのは有り難かった。

―― 42キロ ――

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4月2日(第七日)

夜中に目を覚ますと風雨はかなり強いようだ。3時20分に起床し、下調べや荷作りをしながらの朝食は何時ものパターン。海苔巻の中に魚肉ソーセージ巻があるのに驚いた。しかし日頃この手のものには縁がないため情報不足で、意外に首都圏でも一般的であったりするか。

携帯電話で天気予報を聞く。旅の出だしでは天気情報の入手に戸惑ったが、市外局番プラス177で良いことに気付いてからは、場所や時間を気にせず便利に利用している。予報は午前中風雨の強いことを告げていた。

三日前に風雨で痛めつけられた印象は鮮明だから念入りに雨支度をする。ザック、ブレストポーチ共に中味は予めレジ袋に入れてからパッキングし、さらにザックカバーも被せる。衣類はレインスーツを着用し、足回りはロングスパッツで固めた。これだけ装備すれば例え暴風雨になろうとも如何ほどのことがあろうかと、意気込んで5時10分に出発する。

時折雨脚が強まるがその間隔も次第に間遠になり、安芸市街を出る頃にはほとんど止み、丁度その頃に夜も明けた。天気予報を聞き直すが、まだ降る可能性を告げる。用心してしばらくはそのまま歩き続け、防波堤上の自転車にコースが替わったところで着替えに適当な場所を探す。

日照こそまだ見られないないものの、空は充分に明るく、風に吹き飛ばされるようにして雲がどんどん減って行く。念入りに準備した時に限ってこのようなことになりがちだが、天候が快復したことを素直に感謝した。

自転車道路は堤防が途切れても延々続く。本来の遍路道ではあるまいが歩き易いことは抜群で、車に悩まされないことは当然としても、早朝のこの時間は自転車はおろか歩行者に会うことさえ稀だった。和食 (わじき)近辺では公園の中になる。海水健康プールなどの設備が在り、「うどん」の幟が十数本翻っている 。食欲をそそられたもののまだ開店はしていない。

手結山を迂回する辺りでは200メートルほどのトンネルがあり、旧国道を利用したものと推察される。緩いカーブで手結の町に下り夜須川を渡ってしばらくで道の駅にぶつかり、漸くここで自転車道路は終わりになった。自転車道路を利用することおよそ14キロ。

国道と交差するところで地図を読み間違えた。丁度二枚の地図の境目辺りで雑な読み方をして現在位置を1キロぐらい誤認識したのだ。次第に地図と現地形が合わなくなり、軽いパニックにおそわれた。通常であれば「間違えたらば引き返す」を実行するだけだが、今日中に高知市へ何としても到達したいと思っているだけに「引き返す」ことはしたくない。訊こうにも人通りもなく、―― どこかの門口でたずねようか ――と思った時に「辰ノ口」なる地名で現在位置が判明した。

軽率な読図を反省しつつ、時間的ロスがなかったことに安堵した。高知到着に拘泥するのは、人と会う予定があるためだ。八年間の遍路道歩きを通じて知り合った高知在住の数人と、以前より再会を約していたが、一番札所から高知までの350キロを何日間で歩けるか定かではなかったため日時を定めることは出来ずにいた。昨日の午前中に、―― これならば高知には4月2日に到達出来る ――と確信してこちらから電話で日を決めたばかりだ。それをたった一日で変更したくなかったのだ。

赤岡町を通過し、しばらくするとまた国道を歩かされる。キャリーを引っ張る初老の遍路を追越した。最近はホームレス紛いの遍路も増えているらしいが、彼がそれに該当するかは判らない。国道とも1キロほどで離れることができ、山裾に沿った幅は比較的広いが交通量の少ない道を北上する。

左手に拡がる田圃は田起しの最盛期だ。集落に近付くと燕の飛び交う姿が目立ち、南国の初夏を感じさせられる。山裾に続いた遍路道は最後に右へ登る石段となり、大日寺には11時に到着した。

本堂、大師堂をおとなうと休むことなく国分寺へ向かう。山門を出て石段を降り始めたところに若い男性の歩き遍路がいた。挨拶を交わし、15キロ以上ありそうなザックに興味を惹かれ尋ねると、やはり野宿を重ねながら廻っているらしい。数年前に較べ、歩き遍路の増加と共に野宿をする人も増えているようだ。

長閑で明るい田起し風景の中を、気分はのんびりしつつもピッチは落ちないように歩く。母代寺の集落で特定郵便局を見付け、キャッシングをする。八十八ヶ所廻りでは郵便局が銀行より圧倒的に便利だ。ちなみに特定郵便局にATMはないが、カード読み取り機と、暗証番号打ち込み機はあり、これで確認後に局員が札を数えて渡してくれる。初めての経験だった。

大日寺から一時間少々で土讃線の踏切を渡る。二年前には此処で区切って後免の駅へ向かおうとした。丁度通り掛かった田起し帰りのトラクターを運転する農夫が、―― 国分寺はそっちじゃない ――と身振りで教えてくれる。それは判っているが駅へ向かおうとしていることが身振りでは伝わらず、最後に彼はエンジンを止めてトラクターを降りて来たことを、懐かしく思い出す。

12時を廻っているので食堂を物色しながら歩き、上甘枝あたりで、お好み焼きの幟が翻っているのを目にし、開店しているか疑いつつも引き戸を開けてみる。幸い営業中だった。

冷や酒にお通しは小烏賊の煮物。解凍が間に合わず部分的に凍っていたが味は悪くない。ソース焼きそばをツマミ兼主食としてさらに二杯。料金は1,350円だった。半時間の昼食休憩で先を急ぐ。

国分寺に着いたのは2時10分前だった。八十八ヶ所はそれぞれの国に国分寺があり、どれも品が良いように感じられる。それなりに格式が高いのだろうか。そしてこの土佐国分寺は境内に樹齢の高い木が多く、森閑とした雰囲気を醸し出しているのも良い。

国分寺を後にして田圃のなかに続く畦道を15分ばかり行く。地図を参照しながら国道32号線にぶつかった。左右を確認して横断していると、通り掛かった白バイがそばに停車して「注意して下さい」という。警官は嫌いだからムッとしたが、非はこちらにあった。遍路道は国道の下をくぐるボックスカルバートの中に通じていたのに地図に気を取られて見逃したのだ。

笠ノ川川(誤植ではない。川が重なる)を渡り、しばらくして国分川の支流を渡ると南国市から高知市になる。いずれにせよこの辺りは高知市外核地帯としての住宅が増えているようだ。

刑務所の高い塀を見上げながら山裾の道を行き、県道と合流して逢坂峠を越えると間もなく善楽寺がある。県道と分かれて裏手の方から廻り込むようにして土佐神社と寺のあいだに出る。3時43分になっていた。

今日の最終目的地と定めた竹林寺までは、残すところ後7.4キロだ。実のところ此処まで来ていれば、どこからでもタクシーを利用して駅前の宿泊予定ビジネスホテルに行き、明後日切り上げたところまで戻って歩き継ぐのもさしたる問題はない。昨日の足の傷み具合からすれば、今日一日は良く頑張ったと甘えてしまいたい気持ちもあった。しかし旅立つ前の目標「一日50キロ」を果たすためには、今の甘えがすぐツケになって返って来る。心中これを繰り返して歩き出した。

20分ほどで土讃線の下をくぐり抜けると、近年まで干潟であったのか人家のほとんどない平坦地に田圃が拡がる。間もなく国分川を渡り、いかにも人工的な感じの強い相互二車線道路が田圃を一直線に貫いている。「じっと我慢」で歩いて、500メートルほどで農道にそれることができた時はホッとした。

農道に見合った細い高須橋を渡ると、高須新町の市街密集地になり、土佐電鉄後免線をこえ、次第に場末を思わせる通りで大島橋、これを渡ると間もなく五台山の登りになる。標高差は100メートルで、如何ほどのこともないが、途中振り返ると辛抱して歩いて来た平原が黄昏の光に照らされていて一抹の感慨を抱かせる。

最後の斜面は林間を行き、これを抜けると正面に五重の塔が見えた。山上の牧野植物園に裏から侵入したような恰好になり、ゲートも何も通過しなかったが、出る時は既に開園刻限を過ぎていたため閉ざされた入り口の脇にある通用口から出る。

広場が在りほとんど正面に山門へ通じる石段があるが、客待ちのタクシーが一台いるのを見付けてそちらを先にして声を掛けた。しばらく待って貰う了解を取り付けて石段を急ぎ登る。これで市内からタクシーを呼び寄せなくても済む(時間と費用の節約)。

十数段の段差が大きな石段を登り、本堂の前に立ったのは5時半だった。納経所が閉まっているため、参拝客は他に二人。しかしタクシーを待たせているので、大師堂の前に行き写真を一枚撮るとすぐさま広場へと引き返した。待たせたことを詫び、駅前のビジネスホテル、ロス・イン高知へ向かった。 タクシー代は1,620円。

フロントで自宅から送って貰った荷物を受取る。着替えと高知から松山へかけての地図を中心とした「補給物資」だ。急いでシャワーを浴び、着替えをして街へでる。 足を傷めていた割には思っていたより順調に歩けたことと、竹林寺に客待ちタクシーがいた幸運により、ほぼ当初の待ち合わせ時間に着くことができそうだ。

帯屋町すじ裏の居酒屋「ひこの」で再会を祝し数杯、場所を替えて大手町筋でもう一軒。いつもより量を過ごしたが気持ち良く酔うことが出来た。大半を「辛抱」で過ごした一日だが、終わり良ければ総て良しだ。

―― 47.6キロ ――

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