5.わいどの家
 

  荷物一式。通常ならば下部のカバンと、上部のカメラバッグだけだが、食料品と保冷剤、保冷袋、それを包んだ厚手セーターが入ったデイパックが中間に挟まっている。 荷物の紛失や盗難を防止するには「ともかく一つに纏める」を信条としているので、乞食の引っ越しと揶揄されようと気にしない。

 

29日木曜日、朝6時に宿から50メートルのローソンへ行き、海藻ミックスサラダ、和風ドレッシング、無人島ロケ弁当、ミネラルウォーター1g、インスタント味噌汁5食入り、朝刊などを買う。全部で1,199円。
  東横インの朝食(握り飯に味噌汁)を済ませ、8時にチェックアウト。駅前から8時半の連絡バスでフェリーターミナルへ向かう。乗客は私一人で、料金は300円。バス路線としては大赤字と思われるが、下北半島北部の住人は、病院や買い物を青森でなく、フェリーで渡る函館に依存しているらしい。車を運転しない(できない)人達の(大袈裟に言えば)生存権がかかっているから、簡単には廃止できないようだ。
  ターミナルで乗船名簿に記入し、片道2,200円の二等切符を購入。後は9時半の出港を待つだけだ。 9時を回ったところで、今宵の宿舎「わいどの家」を管理する、村口産業へ電話した。大間のフェリーターミナルまで迎えに来て貰う、最終打ち合わせだ。 大間埠頭で間違いなくランデブーできるように、こちらの風体を「トレンチコートを着て、キャリーカートを引っ張った、髭面、60歳のジイサン」と告げると、相手のご婦人は半ば笑いをこらえながら「こちらからは62歳の社長が迎えに行きます」と。どうやら社長夫人らしい。
  ところで「わいどの家」とは何か?多少長いが以下 はそのいきさつだ。
  話しの発端は俎板だった。我が家で長らく使用してきた、檜柾目の一枚板は良いものだったが、繰り返し表面を修正鉋掛けするうちに、厚さが15ミリ程度まで薄くなってしまった。使用不可になったわけではないが、寿命が見えてきたことと、使用法が若干変わり、寸法に不満が出たため新品の購入を考えた。
  しかし檜柾目となれば、集成材でも高価だ。代替品をあれこれインターネットで探すうちに、青森ヒバに辿り着いた。これを扱っているのが村口産業だ。関連ページを見ているうちに、製材所であるにもかかわらず宿泊施設を持ち、そしてその所在する聚落、易国間いこくまは、昨年の雪見酒紀行において、大間からむつ市の下北駅へ向けてバスで通過した地であることなどが判った。
  都会らしいものが丸でない土地で、宿屋らしさも(多分)あまりないところに一泊する企画は、雪見酒紀行のマンネリ打破に苦慮していたものにとって、天啓のように思われた。  

  易国間を中心とした本州北部と北海道南部。
 

施設は、1〜2名が宿泊可能で、一人当たり3,000円の(施設名:わいどの木)と、1〜8名、一人当たり4,500円(施設名:わいどの家)の 二つあり、3,000円の方を利用するつもりだった。廉価さ故ではなく、大勢が泊まれるところを一人で占拠しては、後から多人数グループが宿泊を希望したとき、大勢の人を失望させると共に、経営者に対しては大幅な売り上げ減を押し付けることになるから。
  しかし詳細を詰めながら予約するべく電話をしてみると、思いがけない展開になった。一人でも遠慮なくわいどの家を使えると云うのだ。そして決め手になったのは「わいどの家にはトイレが付属していますが、わいどの木だと製材工場のトイレを共用することになります」だった。酒飲みに夜中のトイレはつきもので、その際、暗く寒い中を遠くまで行くのは願い下げにしたい。
  わいどの家を予約してから、改めて施設と周囲の状況を尋ねた。食事は自炊するか、大間または下風呂温泉まで行かないと飲食店はない。「運転するならば車は貸す」と云われたが、私は免許を持たないし、そもそも飲食店に行く主目的は食事ではなく飲酒だから、免許の有無と関係なく出かけるのは無理だ。
  自炊するための設備や器具は備わっているが、近所に食品スーパーなどはない。易国間バス停付近の万屋で、多少の食材や酒は購入できるなど。状況は概ね脳裏に描けるようになった。
  12月25日に予約が成立した時点では、弁当の持参と乾きもの(柿の種など)で、万屋調達の酒を呑む程度のことしか考えていなかったが、易国間泊まりのことを反芻しつつ日を過ごすうちに、次第に思いはふくらんでいった。その結果が、函館自由市場探訪だ。

 函館フェリー埠頭に係留されてるナッチャンWorl。
 

閑話休題。9時15分に乗船が開始された。徒歩の乗客は10人もおらず、車で乗船した客を合わせても、定員470名の5%以下だと思われる。二階のラウンジ席は私一人で占有することになった。
  出向前に右舷デッキに出てみると、隣の船着き場に繋留されているナッチャンWorldが見える。東日本カーフェリーが青函航路の切り札として、2007年に導入したナッチャンReraの姉妹船で、 建造費約90億円したアルミ軽合金性の双胴船体は約一万トンありながら、満載時でも36ノットの高速を誇る。しかし原油価格暴騰の逆波を真艫まとも に受け沈没してしまった。就航してから僅か6ヶ月。
  東日本カーフェリーはナッチャン路線を廃止したばかりか、カーフェリー事業そのものから撤退する。虚しく繋留されている船体に、染み一つないのは返って哀れを誘う。「. . . .兵どもが夢の跡」の感傷は私だけのものだろうか。
  定時に出港し、2時間弱の航海中は、曇り空のせいもあり、ラウンジで持参した「ブラックホールで死んでみる―タイソン博士の説き語り宇宙論」を読んで過ごす。物理学や天文学に多少なりとも興味がある人ならば面白いだろう。退屈せずに青函海峡を渡ることができた。

 本州最北端の大間崎から沖合の弁天島を望む。
 

船を降りると、埠頭には二台の車と四人が迎えに来ていた。10メートルほど近づいたとき、私の方を見ながら「金子さんですか?」と声を掛けてくれたのが村口社長だった。気さくそうな顔に笑みが浮かんでいる。簡単に挨拶を交わし、導かれた黒塗りの乗用車は、見慣れぬモデルだ。トランクに荷物をしまうとき見ると、クライスラーだった。
  すぐに走り出す。大間崎を見たことがあるか訊かれたので「バス車中から一瞥した」だけと答えたら、わざわざ寄り道してくれる。生憎の曇天に霞みまでかかっていたので、渡島半島もぼんやりとしか見えない。あとは一路、易国間を目指す。
  海沿いの国道は交通量も少なく走りやすい。時折通過する沿道の聚落に関し色々話が聞けた。僅か数キロを隔てただけでも、気質や習慣に大差があるなど興味深い。20分ほどで風間浦村易国間のわいどの家に着く。
  村口さんが先に立ち、屋内をざっと案内し、設備の使用法などを説明してくれてから、最後にキッチンの酒置き場(?)にある、先泊者の残していった酒をチェックした。一升瓶が半分くらいからになったものが三本、田酒などの銘酒もある。「良ければこれを. . . .」との申し出に、こちらにしてみれば銘柄などに拘りはないし、酒買いに出ず済むならば有り難いこと、「それでは計り売りで」とお願いしたが、料金などいらないの一点張りだ。ともかく有り難く呑ませていただくことにした。

左上:リビングルームとキッチン。薪ストーブが心地良く燃えている。右上:ロフトから見たリビングルーム。
左下:流しと対でカウンターが設けられている。右下:コーヒーメーカーやオーブンレンジ、トースターなどがあり、食器類も豊富。
 

  村口さんが去ったあと、ゆっくり屋内のあちらこちらを見て回る。インターネットの紹介ページを見ていたから、一応のイメージはできていたが、実物は期待を上回って快適そうだ。一階には浴室、トイレ、洗面所などのユーティリティと、ツインのベッドルーム、6畳、8畳の和室、リビングルームはキッチンと繋がりワンフロアで、20畳以上ありそうだ。二階はロフトで、リビングルーム上部は吹き抜けになっているので見下ろすこともできる。収容人員は8名となっているが、10名でも充分、雑魚寝で詰め込めば20名も可能だろう。

 ホッケの開き、鰊漬け、石狩漬けで昼酒をやる。
 

しかし「食って一升、寐て半畳」とても使い切れるスペースではない。玄関脇の寝室を使わないのはもちろん、リビングルームと襖で繋がる和室も、締め切り、飲み食いはリビングキッチン、就寝はロフトと定めた。吹き抜けで繋がる二階は、一階よりも室温が4℃くらい暖かいのだ。
  すっかり寛いだ気分になった。時刻は丁度12時だし、昼酒の支度にかかる。自由市場調達品がツマミだが、昼なので軽くしておく。ホッケの開きを半分、ガスレンジ備え付けのロースターで焼きながら呑み始めた。鰊漬けと石狩漬けを小鉢に盛る。まずは田酒でんしゅを冷やで。この銘柄についてインターネットで調べたところ、通信販売で(多分同じ品が)2,730円から5,500円までばらついているのには驚いた。純米酒としては人気が高く、幻の酒に近いような記述も 散見する。
  先ほども書いたとおり、銘柄など気にしないが、ともかく呑みやすくスイスイ入る。日常的にこんな酒を呑む習慣など付ければ、財政破綻に至るのは必然だろう。
  焼きたてのホッケがツマミに加わり、昼の弧宴はますます(静かに)盛り上がる。約4合あった田酒が からになったところでお開きに。二階のロフトでしばし午睡を楽しむ。

  易国間川。
 

2時を回って目が覚めた。腹ごなしの散歩に出かける。気温は3℃くらいで暖かい。最初にバス停まで行き時刻表を写真に撮った。明日の移動に際し支障ないよう、時間に余裕のあるときは実行している用心だ。時刻表もインターネットであらかじめ調べてあるが、より慎重確実にした。
  踵を返すと易国間川に沿って上流へ向かう。1キロほどで村外れになり、風間浦村総合福祉センターの、比較的新しい建物があった。その少し上流に、もっと新しいグループホームの建物。この村に限らず、地方を旅して目に付く新しい建造物はこの種類が多い。現在、日本の抱える困難が垣間見えるような気がした。
  さらに2キロほど遡ると、自動車の轍が消え、20センチほどの積雪をラッセルして歩かなければならない。雪対策としてロングスパッツは用意してきたが、履き古して防水がまるで効かないこの靴で、ベタベタの湿った雪を踏み分けて行く気にはなれない。易国間川探訪はこれでお終い。   

  帯ノコで製材する。
 

河口まで戻り右岸にある丘の上の神社まで登り易国間漁港を俯瞰する。港が立派な割には、漁船の数はさほど多くない。出港しているのだろうか。
  村口製材所に引き返し、わいどの木ギャラリーに展示してある木工製品を見物、次いで工場の方も見学する。 熟練工とはいえ、女性がヒバの分厚い材を、軽々と扱い、ガイドを手早く操作し、時にはガイドさえ使わずに見事に製材して行く。練達の技を見るのは、職種にかかわらず快感があり、しばらくの間その場に釘付けとなってしまった。
  製材所に馴染みのないものにとっては、初見の各種大型木工機械は、それぞれに興味深く、「作業している人にすれば、見物人は迷惑だろう」と思いつつも、半時間ほど所内をうろうろ した。
  宿に引き返し一風呂浴びる。風呂をあまり好まない方だが、昨日シャワーも浴びていない上、総ヒバの浴槽・浴室がある以上、無視というのも失礼であろう。
  仄かなヒバの芳香に包まれ、浴槽に浸かりのんびり暖まるのは、風呂好きでなくても至福の時だ。 寒い屋外を歩いて強ばっていた身体が次第にほぐれてゆき、すっかりリフレッシュして晩酌に備える。

晩酌の肴一式。左からホッケの開き半身、次の奥はイカの塩辛、手前がレバーと牡蠣の薫製、中央に鰊漬け、その手前右がホッキ貝刺身、さらにその右が鱈の昆布締め。左奥の俎板上にある包丁は持参したもの。
 
 

辺りは次第に黄昏れ、薪ストーブの炎が暖かみを増して感じられる。きのう自由市場で買い求めた品々を並べて呑めると思えば、それだけで気分が浮き立つ。昼に半身食べたホッケの開きをロースターに入れ点火し、ホッキ貝の剥き身を捌く。包丁は持参したものだ。ここに備わっていることは判っていたが、使い慣れかつ鋭く研ぎ上げたのを使いたかったし、それ以上に包丁持参で旅をする酔狂が、何故かとても気に入っていたのだ。
  鱈の昆布締めは既に薄造りになっているから器に盛るだけだ。昼食べきれなかった鰊漬けも並び、そのほか寝台特急でのツマミとして家から持ってきたイカの塩辛、レバーの薫製、牡蠣の薫製(いずれも手作り)も器に盛る。
  酒は如空、八戸の地酒らしい。純米の高級酒だ。先客が単なる酒飲みではなく酒好きであったことを感謝すべきか、良い酒をろくに味わいもせずにがぶ飲みしたことを反省すべきか. . . .。
  5時40分にひとりぼっちの、しかし豊かな気分で酒宴を開始する。ホッキ貝は一日経過したためか、貝臭さが多少鼻についたが、チューブワサビをたっぷり利かせれば、それも気にならなくなる。ちなみにチューブワサビは自由市場からの帰途、「刺身ならばワサビは必須」かと考え、棒二デパート地下の食品スーパーマーケットで買い求めた。ところがわいどの家の冷蔵庫には、使い掛けがあったので、それを使い、持参した方は残すことにした。酒その他、先客の残したものに大変お世話になっているから、ささやかながらでも。
  鱈の昆布締めは、昆布が良い具合に鱈の水気を吸い取って、旨味が凝縮している。しかし残った昆布の処分に困惑した。食材を捨てることができない性分は生来のものだが、最近その度合いが強くなり、我ながら「ほとんど病気」と思うほどになっている。
  持参した食料の中に、インスタントの味噌汁があることを思い出した。昆布を刻んで片手鍋に入れ、水を加えてストーブに乗せた。出汁が取れるし、後でインスタントの味噌汁を加えれば、昆布も具材の一つとして食べられるだろう。

  差し入れられたイカの一夜干しとアワビ。
 

6時半に玄関口から声を掛けられる。村口夫人がアワビとイカの一夜干しを差し入れてくれたのだ。その際にお言葉に甘え、後刻ご飯も頂くことにした。持参したコンビニ弁当を明日の朝食に回して、食糧計画は完璧なものとなった。
  森閑と夜は更けてゆく。製材所の従業員が退勤した後は、車の音も聞こえないし通行人もないのだろう。風も吹いていないので、辺りはほぼ完璧な無音だ。しかしこんな状態で独酌するのは好みというか楽しい。独りで黙然としつつ盛り上がって酒宴を続ける。
  如空がからになり、寝台特急で飲み残したワンカップ大関も飲み干して酒宴を終わりにする。先客の残した最上川の一升瓶もあったけれど、定量の5合を呑み、酒に関しては過不足ない気分になっていた。差し入れのご飯を、イカの一夜干しや鰊漬けと食べる。昆布入り味噌汁も試すが、汁は良いとして、堅さの残っている昆布は旨いものではない。それでもブツブツ言いながら結局全部平らげる。8時ころ就寝。
  ロフトは26℃くらいあり、何も掛けなくても寒くない。しかし眠りに付いて1時間ほどすると、寒さで目が覚めた。ストーブの薪が燃え尽きたのだ。薪を補給してやれば、すぐに室温は上がり、目一杯くべれば、ロフトでは汗ばむくらいになる。しかし一時間後に燃え尽き。以後、夜を徹して睡眠と薪追加のサイクルを繰り返す。できれば空気の流入量を抑え、室温が上がりすぎないようにしつつ、長時間薪を持たせたいのだが、それをやると「煙突からダラダラと水が漏れてきちゃいます」と云うことらしく、「空気孔をいじらないでください」の制札がある。
  今回わいどの家に泊まって、唯一感じた不満がこの薪くべ作業だ。せめて2時間持って欲しい。ちなみに暖房器具としては石油ストーブもあったので、これを使うべきだったのかもしれない。しかし化石燃料と薪の両方が選択できるとき、薪が選びたくなってしまうのだ。

6.佐井からフェリー

  明くる30日も、曇り空のどんよりした日だった。7時に起床して、まず薪の補給をする。次いでコンビニ弁当を電子レンジで加熱して朝食。まだ一袋残っていたインスタント味噌汁も一緒に。
  当初ローソンに入ったときには、カップタイプのものを買うつもりでいた。味噌汁の棚を店員に教えて貰い、そこにあったのが袋タイプだけだったので、これを購入したが、実に正解だったと思う。
  朝食と食休みを終えて散歩に出た。昨日の気温が高かったためか、一度溶けた雪が凍ってつるつるすべる。歩行困難と云うほどではないが、せっかく滑り止めを持参してきたのだからと、戻って荷物からエバニュー ノンスリップスノースパイクを取り出し靴にセットした。履き心地は悪いし、屋内に入るには問題があるが、滑る恐れは全くなくなった。

 漁具の始末を終え、焚き火を囲んで寛ぐ漁師達。
 

易国間漁港を歩いてみる。昨日、神社から見下ろしたときと同様、港内に船は少ない。2隻の漁船で、乗組員が漁網を畳んでいた。水揚げされた魚は既に持ち去られたのか、辺りにそれらしいものは見えない。岸壁の中央当たりに立派な漁業協同組合の建物があり、船の数が少ないこととのアンバランスが印象に残った。散歩を終わりにする。
  今日、最初に行く佐井だが、ここで何か見たいわけではない。易国間から青森へ行くのに、下北駅経由は昨年一度通っているし、昼飯・昼酒に適したところを思いつかない。列車時刻表の路線図を繰り返し見ているうちに、大間から下北駅へのバス路線を逆に辿り、終点の佐井まで行けば、フェリーボートで青森に、それも駅から徒歩10分の、高速フェリーターミナルに行けることが判った。バスが佐井につくのは11時22分、フェリーの出港は12時35分だ。この乗り継ぎ時間に利用できそうな食堂をインターネットタウンページで探すと、数軒がターミナル付近にあるらしい。経路探索の成果に満足したのだった。
  閑話休題、わいどの家に戻り、荷物をまとめる。佐井行きのバスは10時34分だから10分ころにここを出れば、村口産業の事務所で挨拶などしても、充分の余裕でバス停に着くだろう。それまで「ブラックホールで死んでみる―タイソン博士の説き語り宇宙論」を読んで時間潰しをする。
  10時をちょっと回ったころ、村口さんが玄関から声を掛けてきた。「佐井まで用事があるのでこれから出かけるが、もし良かったら同乗して. . . .」と、願ってもない申し出だ。既に出かける支度はできていたから、キャリーカートを引っ張って彼の後を追った。

 

  佐井を目指して発車し、国道に出て間もなくクライスラーが不調に見舞われる。村口さんは携帯電話で婦人を呼び出し、代車に乗って救援に来るよう要請した。5分ほどで彼女の運転する軽乗用車が到着し、クライスラーの件はともかく、佐井行きに関しては一件落着。以後順調に進行する。  
  道中、地元の現況に関して色々話しを聞く。大間町の原発に関連し、大規模な開発が行われているが、その金が中々地元まで落ちてこないこと。あるいは風間浦村ではむつ市からの合併要請を断り、原発により財政状況が好転するであろう大間町との合併を望んだが断られ、改めてむつ市との話しを蒸し返そうとして駄目だったことなど。
  全体的に感じられるのは、外部からの資金による大規模開発や、合併により地域を活性化させる手法に批判的で、それぞれの地が本来持っている生産力を育てるべきとの考えらしい。私が常々感じているのがそれなので、あるいは村口さんの本来考えていたこととは違うように曲解しているかもしれないが。
  11時を少々回って佐井に着く。まずフェリーボートの発着所を調べると、鉄骨コンクリート三階建ての津軽海峡文化館「アルサス」に観光案内所兼フェリーの切符売り場があった。この建物の二階には飲食店も三軒入居している。大間到着から世話になりっぱなしだった村口さんに礼を述べ、ここで別れた。 乗船名簿に記入して青森までの切符(3,460円)を買う。
  ビルに入居している飲食店より、一戸建てに店を構えている方が好みだが、土地勘がなく時間が限られている今は、贅沢を云わずにアルサス二階で我慢した。

 佐井のヒジキとカレイ煮付け、カンパチ刺し。
 

選んだ和食の店は広々として明るいところだった。ウェイトレスの一人は赤ん坊を負ぶっての仕事だ。4、50年昔に戻ったような光景に下北半島の奥深いところへ来ていることを印象づけられる。
  冷や酒を注文すると、桃川のワンカップが直ちに運ばれてきた。ツマミになりそうなものを訊くと、佐井のヒジキを煮付けたものがある。焼き魚はこれから焼き始めるので時間がかかると云われた。逆に言えば焼きたてが食べられるので歓迎だが、ホッケかイカの一夜干しとのことでは、昨日の今日、食指が動かない。
  刺身はいずれも地のもので、マグロ、カンパチ、ススキ、イカ、ホタテがある。結局ヒジキとカレイの煮付け、カンパチ刺しを頼んだ。
  ツマミはそれぞれ旨かったが、特に印象に残ったのはヒジキだった。生のものをそのまま煮付けたせいか、表面がツルリとして食感も良い。わざわざ「佐井のヒジキ」を名乗るのも頷ける。小鉢が200円は安い。
  途中、野菜炒めを追加注文し、半時間ほどでコップ酒三杯を飲み干した。勘定は締めて3,100円。店を出ると同じアルサスのテナントで昼食を摂った村口さんと出くわした。雑談を交わしながらロビーに展示されている写真など眺める。
  トイレに行きたくなったので、別れの挨拶を再び告げ別れる。用を済ませてフェリーボート乗り場に行くと、傍らに泊まっていた車が走り出し、村口さんが笑顔で手を振っているのが見えた。間違いなく乗船できることを見守っていたらしく、その心遣いが嬉しい。

  シェラインの高速フェリー、ポールスター。左に見える黒い車が村口さん。
 

96名の定員に対し、乗船したのは僅か三名だから船内はガラガラだ。一応窓際に陣取ってみたが、窓ガラスが飛沫で汚れていることと、薄曇りの天候が相まって、写真に撮りたいような光景を見ることなく船は進む。
  途中、福浦、牛滝、脇野沢に寄港するが、上下船する人もいない。風もなく波も静かだったので穏やかな航海は2時間20分で終わり、青森の旅客船ターミナルに着港した。かつては青函連絡船が発着した岸壁なのだろうか。少なからぬ回数利用したが、記憶には全くない。隣に青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸が繋留されていた。今では博物館のようなものになって公開されているらしい。

「青森の居酒屋」へ

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