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17.柳井
  相互一車線の国道は、比較的混んでいたものの、渋滞までには至らない。20分ほど走ると、岩国市の中心街で国道188号線が左へ分岐する。 Tが自慢する海沿いの景観を楽しみつつ、渋滞とも無縁で柳井に通じるルートだ。申し分ないと云いたいが、玉に瑕は降り止まぬ雨だ。しかし梅雨に降るのは当たり前だし、この時点で早明浦ダムの貯水率は25%を切っていたから、「晴れ上がって欲しい」などと願うのは罰当たりかもしれない。
  40分で柳井市に到着し、Tの親戚二軒を廻り(彼が挨拶している間は車で待機)、三軒目に彼の従姉妹が嫁いだSさん宅を訪ねる。彼女は六十半ばでTとあまり年が違わないこともあり、ごく親しいらしく、初対面の私をともない、穴子弁当を手土産に、この家で昼食をと当初から考えていたようだ。
  小柄で細身だけれど陽気な美人で、気が置けない。あらかじめ電話で予告してあったので、味噌汁を用意してあり、四人で穴子弁当を開く。Tが私のために酒を頼むと、びっくりしたようだが呆れた顔もせずに、大振りのグラスになみなみと注いでくれた。
  日常的には酒を飲まない家庭らしく、正月に開けたという金箔入りの一升瓶だった。うえのの穴子弁当は、さすがその名高さに羞じない見事さで、一方彼女の心づくしの味噌汁、胡瓜の漬け物も良かったし、金箔酒もまた結構だった。あまりになみなみと注がれたので、二杯目で終わりにする。
  Sさん宅を辞去してから、ちょっと余った時間を利用して柳井郊外をドライブする。Tの口からは、目にするあれこれに関わる、少年時代の思い出話が次々でた。一応の目的地、上関かみのせきは 、下関しものせきに 対応する由緒ある地名で、本土とそれに向かい合う長島との間に穿たれた、幅僅か100メートル海峡が、上代には絶好の「関」となったらしい。

18.瀬戸内ハイウェイフェリー

 慌ただしく柳井港を出発。
 

 途中ですれ違った瀬戸内ハイウェイフェリー同型船。松山→柳井。
 

柳井港へ戻り、 松山までのフェリーボート乗船手続きをした。防予汽船の運航するこのルートは、産業利用が多いのか、昼夜を分かたず往復し、一日の便数は16に達する。
  2時50分発で、5時20分に三津浜(松山港)着の便を利用する。この日は松山市内のビジネスホテル、東横イン松山一番町を予約したので、移動としては適当なタイミングだと思っていた。
  しかし2時35分になっても、船は一向に姿を見せない。てっきり遅延と思っていたら、37分に入港してきた。接岸とほぼ同時に車輌の上陸が始まり、続いて乗船が始まったのが45分 すぎ。定刻の2時50分には確かに舫を解いて動き出していた。
  時刻表を確かめると、10分間で車輌の積み卸しその他を済ませるのが基本パターンになっている。そのためには客室内外の清掃を着岸直前に済ましておくとか。接岸している時間により利用料金でも異なるのか?あるいは一日16便をこなすためには、このパターンが必然なのか?ともかく乗組員はご苦労なことだ。
  取り敢えず雨は止んでいる。せっかくの船旅だから、後部デッキに居座って、自動販売機の缶ビールを飲む。5キロばかりは本土沿いに東へ向かう。周防大島を迂回するためだ。数時間前に通った188号線は、車の形状がはっきり見える距離だし、沿道にあって興味を惹かれた店なども見え、何となく親しみを持って眺めた。大島大橋をくぐると、大きく右へ舵を切り、松山目指して瀬戸内海を斜めに横断する。  

 柳井・松山の中間点付近。
 

気温は25℃あるが、船の進行に伴う風が冷たいのか、T夫人が船内に戻り、しばらくしてTも去った。
  辺りを漫然と眺めながら考える。いかにも島が多い。多島海と云うことで自ずとエーゲ海に思いを馳せる。95年の初夏、三週間ほどをかけてフェリーボートで巡った、キクラデスの島々。ほとんど行き当たりばったりに船を選び、漂った幸せな日々。
  かなり朧気になってしまった記憶を頼りに、エーゲ海との比較を考える。島の大きさや密度は似たような感じがする。これはあくまでも気分で、まともに比較は難しい。海の色はあちらが勝っていた。しかし初夏のエイジアンブルーと梅雨空の瀬戸内海を比べるのは、公平性に欠けるような気がする。はっきり異なるのは樹木だ。エーゲ海に降る雨は、量的に灌木を維持するのがやっとだから、海上から見る島々は、斑に灌木と野草や牧草、そして耕地を開墾するとき取り除いたと思われる岩塊を積み上げた延々と続く仕切り壁。対してこちらの島はどこも濃厚な緑に覆われている。
  エーゲ海では随所に見かける、標高差50メートル以上あるような断崖絶壁もない。総合的に見れば、穏やかで女性的なのが瀬戸内か。
  茫漠と連なる思いにふけっているうちに、航路も半ば近くまではかどった。次第に雲が切れ、やがて初日を別にすれば、さっぱり縁のなかった陽光が降り注ぐ。明日の最終宿泊をキャンプにできるかの期待がふくらんだ。

19.割烹居酒屋 酒八さけはち
  航海はさらに一時間以上続き、その間に天候も曇り空から雨空へと変わり、松山へ着いたときにはとうとう降り出してしまった。ホテルに向かう途中、いったんは土砂降りになったものの、ピークを過ぎた頃に東横イン松山一番町へ到着、無事チェックインできた。
  一休みし、6時半に出かけようとするまでの僅かな間に空模様は変化し、曇ってはいるが爽やかな雨上がりになっていた。目指すは徒歩3分の居酒屋酒八さけはちだ。 この店は四月に松山へ立ち寄ったとき暫時飲み、もう少しゆっくりしたかったと感じていた店なのだ。
  外観は平凡だが、内部は旧い建物を移築したのか、黒光りして重厚な造作になっている。比較的早い時間帯と思うが既に先客はかなりいた。カウンター席に坐る。目の前には大皿料理が数種類並び、通路を隔てて流し、その向こう側が壁に向かい板場になっている。板前は四人いて、揚げ物、焼き物など分担して立ち働き、接客はしない。  

 オコゼの活きづくり。店の写真を借用。著作権的には問題ありかも(^^;
 

まずは冷や酒、八幡浜の川亀、それにサラダと大皿料理から鶏モツの煮込みを頼 む。モツは卵巣(黄身がつながっている)入りで、最近全く見かけないので、郷愁が先立ち注文してしまった。冷や酒を飲みながら、改めてメニューを吟味する。
  なんといっても目を惹かれるのは「地ものオコゼの活きづくり」だ。このオコゼは関東でこそあまり馴染みがないが、Tなどは幼少から親しんだ魚らしいし、私も一昨年しまなみ海道を歩いたとき、大三島で初めて食し、瀬戸内海の味として強く印象づけられた。100c当たり1,200円で、一匹200cちょっとになるらしい。
  こんなとき三人連れであることは有り難い、金銭的にも量的にも。これと一緒にTは丸はぎの煮物も頼んだ。柳井も含めて関西ではハギの類をハゲと云うらしいが、やはりハギがよい。それでなくては共食いになってしまう。それはともかく旨かった。
  しばらくしてオコゼが到着、見事な薄造りで、味もきわめて良い。一緒に出された頭部は、箸で突くと生体反応が残っている。気の毒と思うが、いかんともしがたい。せめて精一杯賞味することで成仏を願う。白身だけでなく、肝もしっかり 付いているのも嬉しい。
  刺身を平らげると、アラは唐揚げか味噌汁にしてくれる。オコゼの味噌汁は初体験であったが、Tが強く奨めるだけあり、これも美味。
  一時間半ほど美酒佳肴を楽しみ、勘定は全部で11,230円。金沢のかねき屋とほぼ同額になった。店(板場)の雰囲気は素人風と職人風が対照的だが、どちらも良い、多分すこぶる付きの居酒屋だった。

20.徳島へ
  7月3日は今回の旅で珍しい晴れだった。8時半に出発し、カーナビゲーターに導かれるまま、松山インターチェンジから松山自動車道へ乗り入れる。夏らしい強い日射しを正面から浴びながら東進するうちに、木頭村のキャンプ場に泊まりたい気持ちが強くなった。
  しかしかなり山奥の辺鄙なところだし、三日前までに予約が原則なので、新居浜辺りを通過中に電話してみる。「少々お待ち下さい」と云われてしばらく後「申し訳ないが予約が全くなかったため管理人がいませんので. . . .」との返事だ。
  「三日前」の意味がようやく判った。シーズン以外は利用者がないこともしばしばなのに、キャンプ場は村から5キロ近く離れているので、予約にあわせて管理人を手配し、それに三日程度を要するのだ。旅に出る前に「泊まる、泊まらぬに関わらず、料金を支払い予約しようか?」と考えたことがあるだけに、若干の後悔はあったが、これも縁だろう。
  目的地を第二候補の徳島県海部郡の旅館「みなみ」に替えた。いずれにせよ高知自動車道の南国インターチェンジまでは同じルートだ。
  この旅館みなみには、三年前に三月から四月にかけて、八十八箇所通し歩きをした際に、一泊したことがある。終日風雨の中を歩き、全身ずぶ濡れになり、疲れ果てて投宿したときの暖かいもてなしが忘れられずにいた。
  自動車道路を降りて、国道55号線を東へ進み室戸岬へ向かう。八十八箇所廻りで、(重なるのはごく僅かだが)歩いた箇所もあり、風景にも見覚えがあるので、懐かしい思いが湧き上がる。しかし歩けばたっぷり二日の道程も、車ならば僅か一時間半なのだ。
  昼飯は国道沿いのドライブイン風さぬきうどんの店に入る。立地から酒なしを覚悟したが、一昨日とは異なり的中。飲まない二人に「他所へ行こう」とは云えなかった。釜揚げうどんを注文すると、ウェイトレスは厨房に何分かかるか訊いていた。(すくなくとも)時分どきには見込みで先行して茹でるのだろう。近年は冷凍茹でうどんを使う店の方が多いとも聞くから、この点に関しては真面目にやっていると云えよう。予定通りに5分で運ばれてきた釜揚げうどんは味も良かった。

 
 最御岬寺本堂。
 

食事を済ませて、再び国道を東へ進む。岬の手前500メートルほどで左へ分岐し、急な坂道で150メートルほど登ると、第24番札所の最御岬寺ほっつみさきじだ 。
   三人とも宗教心に乏しいものの 八十八箇所は観光スポットでもあるし、標高150メートルの尖った岬ならば眺望も良かろう。無料駐車場から坂道を登ると境内に出る。
   一応本堂に挨拶してから、岬先端部にある灯台の方へ向かった。わたしが最御岬寺に来るのは四度目だけれど、過去三度は文字通り「脇目もふらず」次の札所へと急ぎ、展望や観光とは全く縁がなかった。そんなことで多少期待していた突端だけれど、左右足許は樹木に遮られ、ただ正面に海が見えるばかりの、誠に詰まらない景観だった。   室戸岬から走り出した車内で、明日の徳島から東京へ向かうフェリーボートの予約電話をかける。係りは「混み合っていますが、二等寝台でいいですね?」と、予想外のことを云う。 何でこんな時期に混むのか?理解はできなかったがともかく予約できたのだから良しとする。

 生見海岸。
 
 Tがナンパして撮った写真。
 

室戸岬から北へ向かう国道55号線は、約50キロの間ほとんど遍路道と重なっている。懐かしくあれこれを見るのは、やはり歩いて通過したなればこそだろう。歩き遍路の姿も数人見かけた。日射しは相変わらず強く、この辺りは海風が吹くのでいくらかましだが、それにしても大変だと思う。暑さに弱いから、この時期に歩くなどとても真似できない。
  このままでは早く着きすぎるので、トイレ休憩も兼ね喫茶店を探す。「できれば窓から海の見える」などと贅沢な条件を付けたら、数軒通過しナビゲーターが示す到着までの所要時間が20分を切ってしまった。次に見かけた店に入る。
  蒸し暑い店内だったが、店の人間はパタパタとドアや窓を閉め、エアコンのスイッチを入れる。この時間帯はほとんど客が来ないのだろう。
  こちらは生ビール、T夫婦はソフトドリンクとケーキを注文する。建物に遮られて見えないが、海はすぐその向こうらしい。トイレを使っている間に、Tは海を見ようと表へ出ていた。暇潰しを兼ねその後を追う。
  渚にはサーファーが二、三十人いた。この生見海岸は関西で有数のサーフポイントだそうだ。数枚写真を撮り店へ戻ろうとしたら、Tが車から携帯電話を持ち出してこちらへ来る。携帯カメラで浜辺を撮るつもりだと云うので、まともな写真は撮れないからと、デジタル一眼レフカメラを手渡した。
  店の席に戻り、ふと窓から外を見ると、Tがカメラを構えてネエチャンをナンパしている。後で訊いたら、海に向かってカメラを構えたら(一枚も撮影していない うちに)、ネエチャンから「プロですか〜」と声をかけられ「グラビア風に撮ってください」とリクエストされたそうで。ナンパしたのではなくからかわれたのかもしれない。
  みなみ旅館には3時頃着いた。ちなみに此処もユニークな宿だ。細長く40メートルくらい延びて裏側の路地に達している。木造だが部分的には三階建てで、部屋数はかなりある。我々が使用した部屋は四十畳の大広間を襖で四つに仕切ったもので、その端と端をあてがわれた。「商人宿」の印象だが、部屋数に見合う商人が泊まるほど、この町が栄えたことがあるのだろうか。みなみの真向かいにはほぼ同じ規模に見える生本旅館もあるのだ。ともかくこの日、他の泊まり客は商用らしい一組がいただけだ。
  キャンプ用にクーラーボックスに詰めて持参した食料を整理・破棄し、風呂に入ってもまだ4時だ。することもないのでT夫婦の部屋でビールを飲み始め、次に酒三本を注文した。運んできた(仲居さんというより)手伝いのオバサンは、「ご飯はまだだけれど、おかずはできているから、下の食堂で飲んでは如何ですか?」と云う。もちろん異議はなく、その三本を持って移動する。
  銚子が空になり「一々頼むのは面倒なので、酒を冷やで十本持ってきて」と頼んだら、それよりもこれでと、封を切ってない一升瓶を出された。量が明朗で手間がかからず、大変結構。
  料理は煮物、天麩羅、刺身、焼き魚の、ごく一般的なもので、岩惣などと比較してはいけない。しかし一泊二食6,500円の宿としては充分に良質だった。一升瓶が空になり、この夜はお開き

 徳島津田港を出港。背後に煙るのは眉山(290メートル)。
 

21.フェリーボート

夜中にかなり強い雨音と雷が聞こえた。キャンプしなくて良かったらしい。朝になっても止む気配はなく雨の出発となった。宿の勘定は宿泊費に、一升と三本、さらにビール 二本で合計25,900円。女将が玄関で見送ってくれた。
  海部から徳島への道は山間部が多く、かててくわえて雨降りのため、退屈なものだった。 徳島市内ちょっと手前で右折しフェリーボートの埠頭がある津田港へ行く。
  出港30分前の10時半にフェリーボートの切符売り場が開く。この時点で待っている乗用車は5台だけ。九州から丸二日もかけて東京まで船で移動する物好きが多いとも思えず、狐につままれたような気分になる。
  しかし乗船してすぐに判った。船倉にはカーキ色の軍用車がほとんど隙間なく満載され、確かに乗用車5台分のスペースが残されているだけだ。九州の自衛隊が、東富士で演習するために移動中なのだ。船室内も自衛隊員でごった返している。しかし幸いなことに四人一部屋の二段ベッドで、鍵のかかる部屋を、我々だけで使用することができた。自衛隊に限らないが、一つ組織に属する多数の人間と一緒にされるのはごめんだ。
  上甲板に上がり、缶ビールを飲みながら旅の興奮からのクーリングダウンを行う。

22.あとがき  
  天候にこそ恵まれなかったが、その他では幸運な旅だったと思う。すべてに関し、良質でバラエティに富んでいた。たとえば昼食。世界遺産の合掌造りでイワナ、アマゴを楽しみ、モダンなレストランで豆腐の創作料理。セルフサービスの和風定食屋に家庭で頂く穴子飯、高知のさぬきうどんも悪くなかった。居酒屋もかねき屋と酒八が甲乙付けがたく、泊まりもオートキャンプに高級旅館、商人宿。 枚挙にいとまがないのでいい加減にするが、これらを綿密に計画したわけではなく、いわば「たなぼた」が大半だったから、なおのこと嬉しかった。最後にこんな 我が儘な旅を許し付き合ってくれたT夫婦には、適当な感謝の言葉も思いつかない。

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