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 7.十三湖

  翌日も台風の影響が残っているためか、雨の断続する天候だった。しかし太平洋側やその他の地方で起きた悲惨な災害をニュースで知れば、ずいぶん運が良かったと感謝する。同室のKさん、Sさんは朝風呂を楽しみ、そして7時からの朝食では、後部座席お気楽コンビが生ビールのジョッキと、観光旅行リラックスムードにどっぷりつかる。
  いよいよ出発する時点で、車の中にキーを閉め込むアクシデントが発生したが、急ぐ旅でもないしと部屋へ戻り、鰺ヶ沢から来るというJAFの救援を待った。結局、出かけるのが50分遅れただけで、KさんがJAFの会員なので料金も発生せず、気持ちよく北上を継続する。
  十三湖の名称は十三湊とさみなとに 由来するらしい。十二世紀に築造された港は十五世紀後半まで栄え、国際貿易まで行うなど、往時は日本を代表する港のひとつであったとか。こんな話を目にしたKさんがロマンを感じ、旅の目的地として強く推奨した。
  しかし東日本最大規模の町並みも全て土に埋もれ、今や遺跡の発掘現場を訪れる以外、その面影はない。それでも意外な収穫があった。十三湖は今やシジミの産地として全国に名高いが、実際訪れてみると蜆ラーメンを中核としたシジミ料理を供する店が多数あるのだ。県道12号線を北上しつつ「蜆ラーメン」の幟を頻繁に見るようになると、昼飯は自然にこれと決まった。
  どの店がよいかは判らないから、行き当たりばったり。車が駐めやすかったので入ったドライブイン和歌山は、(どうでも良い話だが)帰宅後の調査で十三湖における蜆ラーメンの開発者だった。ともかく座敷に上がり、酒、ビールを注文してからメニューを吟味する。
  ラーメンははずせないが、こればかりで酒を飲むのはつらい。「酒の肴」といったものはメニューにないので、蜆定食、刺身定食、焼き魚定食と大蜆ラーメン、中蜆ラーメンを注文する。蜆定食と刺身定食でどちらにも刺身があったりするけれど、ともかく肴らしいものが並び酒が進む。短時間の付き合いながら、すっかり気の置けない間柄になっていたので、これらの定食を分け合って食べられるのが有り難い。
  しばらくして中座したKさんが戻ると、手にはプラスチック容器に入ったイカの塩辛があった。ここの自家製で、店に入ったときから目をつけていたらしい。塩分を控えた上品な味が良い。そのうちにラーメンも登場。淡泊なスープに蜆のうまみが充分に出ている。11時半に入店したとき、先客はほとんどいなかったのに、時分どきにはほとんど満員だ。それなりに有名なのか。
  蜆定食のメインは蜆のバター焼で、単品メニューでこれを目にしたときは食指が動かなかったものだが、意外に旨い。バター焼というより「蜆の酒蒸しバターソース」と云った感じだ。酒にも合うが、スープ(蜆のエキス)をご飯にかけて食べるのが好評だった。
  ラーメンも含めて、蜆料理は予想もしていなかった分、このように旨いと嬉しくなる。豊かな気分で一時間ほどの昼食を堪能した。 11時半頃に到着したのが良かったわけで、朝一番のキー締め込み事故がなければ、早過ぎるままにそのまま通り過ぎてしまっただろう。全く「禍福はあざなえる縄のごとし」であり、それが良い方へ転回しているのが嬉しい。

 

 「眺瞰台」からの竜飛岬。中央に小さく見える白い建物が灯台。
 

  8.竜飛岬

  十三湖まで来ると竜飛岬までは40キロを切る。それならば津軽半島の最北端から函館でも眺めようと云うことになった。小雨が時折ぱらつく天気に変わりはないが「こんなものか」と折り合いがついてしまえばそれなりに楽しめる。連休にもかかわらず交通量の少ない街道を気持ちよく北上し続けた。
  小泊と竜飛を結ぶ竜泊ラインには思い出がある。93年の1月、大型低気圧が接近する折りに、冬期には閉鎖されるこの道を独り歩いたのだ。吹きだまりには60〜70センチあるが、ほとんどは20センチ程度の積雪量で歩きやすく、本来一本道の自動車道だから迷う心配もない。それでも周囲数キロに人がおらず、低気圧の引き起こす強風が全山を鳴動させるように唸ると、何ともいえない緊迫感と高揚感があった。

 竜飛灯台。全国でただ二つ残った有人灯台であったが、6年3月に無人化。
 
  青い小さな水筒に焼酎。お湯割りのための魔法瓶と金属製マグカップ。このようなものを常備して旅をする人らしい。
 

 しかし全長15キロ程度は車で通過すれば瞬時に近い。あの時の思い出にふけるまもなく竜飛岬に到着してしまった。
  この岬は「北の果て」と云った感傷を抜きにすれば、あまり見所はない。そう思いつつもこの場所を度々訪れ、海峡越しに北海道の白神岬を眺めると、感慨が湧き上がる。
  幸いと云うべきか残念ながらか、この日は竜飛名物の強風もなく、のんびり展望台から360度のパノラマを楽しんだ。昨日であれば台風のため修羅場に近かったであろう。
  駐車場へ戻るとSさんが観光売店から味噌オデンを二皿調達してきた。Hさんが素早く反応する。持参の焼酎をみちのく温泉で補給したお湯で割り、三杯を用意してくれた。
  こうなれば車のトランクから乾きものにせよツマミが登場し、さらには私が持参したジン入りフラスコも参加し、青空酒場は一気に盛り上がった。駐車場を往来する人が呆れたような顔で見る。二時頃からこんなところで酒盛りをしていれば仕方あるまい。ままよとばかり杯を干す。
  さすがに長くは続けずそこそこに岬を後にする。三厩みんまや村(現在は合併により外ヶ浜町三厩)に寄る。 奥谷おくや旅館の現状を一目見たかったためだ。この宿には92年の5月、偶然に泊まってから冬になるたび訪れ99年が最後になった。 一人で「私が面倒の見られる人数しか泊めない」と云っていた奥谷光江さん(ご存命ならば88歳)と連絡が取れなくなったからで、健康を害されたかと気になっていた。
  旅館の前で車を降り、玄関まで行く。予想通り引き戸は固く閉ざされていた。しかし外壁の板は比較的最近補修した形跡がある。旅館としては廃業が決まっていないと云うことだろう。しかし彼女の年を考えれば、仮に再開しても面倒を見てくれるのは別人に違いない。この地を訪れるのもたぶん最後と、ちょっとばかり感傷的な気分になって車に戻った。

9.野の庵
  この後はノンストップで弘前へ向かう。弘前市街へ近づいて多少渋滞もあり、弘前グランドホテルにチェックインしたのは5時近かった。荷物を部屋に納めると、すぐに今宵の宴席、野の庵へ向かう。

 野の庵で、左からSさん、Kさん、Hさん。
 

そもそもこの「野の庵」が今回旅行につながる長い話の始まりだった。二月に雪見酒紀行で野の庵に立ち寄り、そのことを読んだKさん、Hさんが五月に弘前城花見酒紀行を実行した。その席で女将とともに接待してくれたお嬢さんと、二人は東京の阿佐ヶ谷で飲み(こちらにも声がかかったが生憎、北海シマエビ紀行実行中で留萌にいた)、この席で彼女がみちのくの秋を強く推奨したのだった。
  当初はメンバーに加わっていたが、都合が悪くなりSさんがピンチヒッターとなり、ようやく野の庵に辿り着いた次第だ。そんないきさつもあり、玄関口でおとないを告げると、すぐに現れた女将が下にも置かないように 席へ案内してくれる。
  広い座敷を我がグループで独占が最初の贅沢。縁側のガラス越しに、残照の中に僅かに輪郭を見せる西の丸が借景となる眺めは、いつも豊かな気分を味合わせてくれる。そして吟味された料理と次々現れる地酒の銘酒。最後には奈良美智デザイン・カップ酒セットをお土産に頂戴し、それでいて勘定は驚くほど安かった。Kさん、Sさんが阿佐ヶ谷でもてなしたことと、今回 、娘さんの部屋探しに、Sさん、Kさんが協力を申し出たためかもしれない。ただ乗りできた当方は大儲けだった。
  良い宴会の常として、終わりにするのはつらいけれど、3時間をかけてデザートまでのコースと大量の酒を飲み下し、お開きにする。女将は玄関口を出て、西堀にかかる春 陽橋の袂まで見送ってくれた。ようやく雨も上がり、雲間から朧月が姿を見せた。白瀑神社でKさんが引いた大吉はどうやら正しかったようだ。

 
 弘前城天守閣と十六夜の月。
 

城内を通り抜け鍛冶町の方へ向かう 。薄暗い街角で道筋に自信が持てなくなり、「飲み屋街のはずれを目指している」と連れに告げると、それほど声高ではなかったのに、通りがかりの若い女性が「そこを左へ行き、最初の角を右です」と教えてくれた。弘前の人情を嬉しく思う。
  彼女が立ち去ってからこの感想を漏らすと、Kさんは頷きつつ「脚の太い人だった」の一言。
  この辺りで最終電車を利用し大館へ帰るSさんと別れる。目指していた焼鳥屋は日曜日にもかかわらず営業していた。相変わらず常連客ばかりだ。
  一時間ほど飲み、時刻的にも、酒量的にも良かろうと宿へ向かう。しかしホテルの真向かいと云って良いところでもう一軒。ここは駐車場のはずれにプレハブのほとんど屋台に近い店が軒を並べ、その一番端に「広島風お好み焼き」の赤提灯がぶら下がっていたのだ。広島出身のKさんが反応した。
  明るい店内には若い女性客が一組。カウンターの中には、水商売は始めたばかりと云った感じの母娘だった。最近広島から越してきたらしく、Kさんと話が盛り上がる。Hさんも広島出身なので、適当に話が合い、こちらはとりあえず飲めれば不満もない。娘さんが危なっかしい手つきではあったが、焼き上げてくれたお好み焼きで冷や酒二杯。ようやくこれでお開きになる。

※10.八甲田山へ続く