出会い(Encounter : karşılaşmamız)

 サイデ18歳。

  話は83年の7月に遡る。当時は海外勤務でイラクが赴任先だった。現地の連休を利用し、同僚のKやSと共に1週間をイスタンブルで過ごした。どのように情報を入手したのか忘れてしまったが、シルケジ駅から近いエミュノニュを出港し、黒海付近まで往復するクルーズがあることが判った。滞在期間が1週間で、時間的に充分な余裕もあったし、このクルーズに出かけた。
  乗船開始時刻が近付いた頃には、埠頭のゲート前に50人くらいが開門を待っていた。この時に数メートル後ろにいた少女となぜか繰り返し視線が合ったのだ。この娘が当時18歳だったサイデだ。アイファとニハールも一緒だった。
  まもなく乗船が開始されると、勝手の判らない我々が右往左往している間に、良い場所すなわち船縁はあっという間に占拠されてしまった。サイデ達も手摺り際を確保している。
  私一人の旅だったらばこれで終わりなのだが、同行していたKは初対面でもすぐに親しくなれる特技の持ち主で、いつの間にか彼女たちとも言葉を交わしていた。
  10時半に出港した船は、ボスポラス海峡をジグザグに進み、アジアとヨーロッパの港を交互に寄っていくが、乗降する人はほとんどいない。往路の終着はアナドル・カヴァウで12時頃に着いた。帰り船は3時なのでたっぷり時間がある。

 
上:左からK、ジェラル一家、S。下:後列左からK、息子とアイファの姉。前列左からサイデ、S、アイファ、ニハール。インスタント写真を眺めて盛り上がっている。

  岸壁のそばには魚料理のレストランが軒を並べている。船中でこれもKがお友達になった、英語の達者なジェラルとその妻子に同伴し、此処で昼飯を食べる。
  食後にまだたっぷり時間があったので、(ジェラルに教えて貰った)丘の上にあるジェノバの城塞遺跡を見物に行くと、そこでピクニックの昼食を摂っていたサイデ達に再会した。
  さらに港へ戻り、船を待っている時に3度目の出会いとなり、それでは集合写真を撮ろうということになった。向こうはサイデ、アイファ、ニハールにアイファの姉とその息子の5人で、こちらは3人。
  まずはKが愛用のインスタントカメラで撮影した画像を披露して盛り上がる。次いで私がそんな様子も含めて数枚撮影。
 撮影後に、「後で写真を郵送するからアドレスを教えてくれ。」と頼むと3人とも渡した紙に書き込んでくれた。
  ちなみに彼女ら5人は誰も英語を話さないが、主にKの交渉で何とか意思疎通が出来たのだ。
  次ぎにイスタンブルを訪れたのは、その年の暮れで年末年始休暇を利用した。4日間と短かったが、事前に3人へ手紙で知らせておいたところ、驚いたことに親戚の女性を通訳として伴い、4人で我々のホテルまで来てくれた。
  その次ぎ会った際に通訳として登場したのがムラートで、それからはこのメンバーが変わることなく91年まで7、8回の再会があったのだ。

フェイスブック(Face Book : Yüz Kitabı)

  91年に会ってからは、98年までイスタンブルへ行く機会がなく、音信不通が続く間に、彼女らの住所も判らなくなってしまった。ムラートから貰った名刺を頼りにして、98年にはジェラルが色々手を尽くして調べてくれたが、結局なんの手掛かりも得られなかった。
  虚しく年月は経ち13年の2月に、整理というわけでもないが半ば暇潰しに古い名刺を捲って行くと、ムラートのが出てきた。目の前にPCがあり、たまたまフェイスブックが開いていたので、Murat Vatanseverを友達検索したところ数人の候補が上がった。たまたま誰もプロフィール写真を出していないので、見当が付きにくかったが比較的該当しそうな一人に駄目元で、「イスタンブルで数回あっていると思う。最後は91年5月だ。違いますか?」のメッセージを送った。
  1ヶ月以上反応がなく半ば忘れた頃に、「ハロー!長いことFBを開いていなかった。確かに91年の5月に会っている。またトルコに来るならば会いたい。話ができたのはとても嬉しい。」みたいな返信があった。
  ムラートから芋づる式にサイデ、アイファ、ニハールが判りともかくFB友達となった。しかし環境的には一応整ったものの、彼が多少英語を話すだけなので、相手の投稿(画像)を見て、「いいね!」を表明してフォローしていることを明示する以上のことには中々ならない。
  これでは埒が空かないと、15年の年明けメッセージとして、「新年おめでとう。5月か6月にイスタンブルへ行きたいが、ご都合は如何ですか?」と問い合わせた。アイファ(TC Ayfer Sertelli Uçar)から、「その時期はイスタンブルにいます。これは娘が訳してくれました。」、サイデ(Saide Kurt)から、「新年おめでとう、また会えるのは嬉しい。」の反応があった。
  2月になり、いつも利用している旅行代理店に使用可能便や料金などを問い合わせ、3月下旬に飛行機を仮予約すると、その内容を友人達に伝える。しかしこれに対する回答はなしのつぶてで、それでいて相変わらず、「いいね!」の反応だけは続く。無視するつもりはないらしいが、彼等の真意を計りかねた。
  次第に日が迫り、仮予約ではなく発券をする時期になってしまった。あれこれ考えても仕方ない。イスタンブルは良いところだから、もし会えなかったとしても行っただけのことはあるだろう。切符を買い、5月31日に旅立った。

イスタンブル寸景(Istanbul Sketch : manzaraların kabataslak resim)

スルタンアフメット・ジャミイ(ブルーモスク)。この辺りから眺めるのが一番良いようだ。内部は拝観しなかった。




アヤソフィア。ブルーモスクと比較すると武骨さが際だつ。しかしブルーモスクに先立つこと約1100年の537年に竣工したことを考えれば、その技術的到達点は素晴らしいと思う。さらには建設工事中に、過大な荷重に地盤が耐えきれず、アーチなどが変形を起こした時、適切な対応でこのトラブルを乗り越えたという。驚嘆に値する技術力だ。
  スルタンアフメットの丘を中心とする界隈は、一級の観光資源が蝟集しているため、訪れる観光客も桁違いに多い。彼等とは出会いたくないけれど、イスタンブル風景を語るならばやはり落とすわけにはいかないだろう。スルタンアフメット・ジャミイ(ブルー・モスク)とアヤソフィア(ハギヤソフィア)だけは撮影しに行った。 

南側から見たスレイマニエ・ジャミイ。

ガラタ橋から見るスレイマニエ・ジャミイ。手前右にリュステム・パシャ・ジャミイ。
  イスタンブルのモスクで一番有名なのがスルタンアフメット・ジャミイだとすれば建築としての一番はやはりスレイマニエ・ジャミイだろう。規模が大きいだけでなく端正な姿が美しい。さらには旧市街の一番高いところに位置するので。イスタンブルの各所からランドマークとして見ることが出来る。

ガラタ橋南側から見る金角湾。正面にガラタ塔。 サバ・サンド船。
  ガラタ橋界隈は相変わらずの人出でごった返している。観光客も多いけれど、それ以上に地元の人が目立つ。以前は普通の漁船を使用し、真っ黒な重油を思わせる油を使ってサバを揚げ、パンに挟んで売っていた。久し振りに来たこの界隈で、そんな船が見えないので、消滅したのかと思ったら凝ったコスチュームの船に変わり、三隻も並んで埠頭に横付けされていた。油もきれいなものを使い、ステンレスのプレート上で焼いていた。しかし相変わらずの人気だ。

ガラタ橋近くの計り屋。大型のフック式が目立つのは肉塊などを計るためか。画面左の赤い機械は大型コーヒーミル。その左側はデジタル体重計。   Küçük Pazar Cad(キュチュック・パザール・ジャデッシ:小さな市場小路)。張り巡らされた小旗は翌週の総選挙に向けた政党のものだ。
  ガラタ橋界隈から金角湾沿いに内陸部へ向かうと、いかにも下町といった感じの街並みが続く。

旧メドレッセの入口。

アカイの絨毯屋があった並び。 今は土産物屋が軒を並べる。
移転した水煙草屋。 

  イエニチェリの旧メドレッセ(神学校)には、以前現地の友人アカイ(コーカサス人)がそこに店を構えている絨毯屋で働き、かつ寝泊まりしていたので良く訪れた。自由に利用できるベンチがあり水煙草屋を兼ねたチャイハネもあったので、半時間ぐらい寛ぐには良い場所だったのだ。そこで餌を貰っている野良猫も10匹ぐらいいて、これと遊ぶのも楽しかった。
  今はそんな自由な空間が消滅し、びっしりと土産物屋に仕切られたような感じになり、水煙草屋も別の一角に移転していた。

  グランド・バザール(Kapalıçarşı:カパルチャルシュ(屋根付き市場))には4,000軒以上の店があるらしい。 金細工師通り、カーペット商人通り、などと名付けられているのは商いが決められた区画で行われた名残だとか。

以前定宿としていたオテル・ベルン。ほとんど以前と変わっていなかった。

ベルンの玄関。



唯一変わったのはエアコンの設置か。


トラムのジェトン(自動改札機用専用コイン)自動販売機。4TL(約200円)。
  アクサライの以前定宿としていたオテル・ベルンを見に行ったところ、ほとんど変わらぬ姿で存在した。

 ルメリヒサル。
 海軍兵学校。 古い宮殿。名称は判らなかった。
 ネオ・バロック様式のオルタキョイ・ジャミ。 オルタキョイ波止場で。
  サイデ達とのミニクルーズは、天候に恵まれ、ボスポラス海峡沿岸の景色を楽しむことが出来た。

 ソクルル・メフメット・パシャ・ジャミイ。
  ソクルル・メフメット・パシャ・ジャミイは、これもスィナンの設計で内部のイズニックタイルが美しいことで有名。合計3回訪れた。最初は入口が判らず、2回目は玄関が閉まっていて、3回目にようやく入れたが撮影禁止だった。

  チャクマッタシェ地区の魚介レストラン群。なぜこれほど集中しているのか不明だが、昔は海辺に近かったのかもしれない。



  イスタンブルのレストランで食事をすると何所も高いが、市場に並ぶ食品は安い。
 右側の卵は30箇で約300円。

 トマト1キロ50円。

 レタス1キロ50円から100円。

 バナナ1キロ240円。

 ジャガイモ7キロ500円。

 タマネギ5キロ500円。

 チェリー1キロ150円。

 チェリー1キロ300円。

 チェリー1キロ400円。

 シャッターチャンスを逃したので、何を取ろうとしたか判り難いが、大型の鮮魚を運んでいた。


 ナッツや乾燥果物類。




 「写して!」とカメラの前に立つ少年。一応撮影したが、結果を見せて金などせびられるのは嫌だからそのまま行く。

イスタンブルの街角 屋台とトレンド(Istanbul the streets. Stalls and trends. : istanbulun sokak köşesi dışanda satıcı ve eğilim)

  日本やヨーロッパの諸都市と較べて、イスタンブルの街角を特徴付けるのは屋台と物売りの呼び声だろう。どちらも徹底して人力による。これが日本だと、すぐ軽トラックにラウドスピーカーなどを取り付けて騒音を振りまくが、彼等はゴムタイヤの着いた屋台を、たとえ厳しい坂道でも人力だけで押し上げるし、深みのあって良く透る声で街頭を流して行く。
  ホテルの部屋でウトウトしている時、ペアガラスを透してこんな声が聞こえてくると旅情を感じ良いものだと思う。これに対して、日本で聞く廃品回収などの音声は騒音でしかない。
 トウモロコシ売り。焼いたり茹でたりしている。以前食べた時は皮の固さに辟易した。


こちらはトウモロコシと焼き栗だ。




 オレンジとグレープフルーツの絞りたてジュース。ここは1カップ50円だが、ブルーモスク界隈では250円と5倍もボッタクル店もあった。
  ジュースの屋台スタンドで、昔と変わったと感じたのはオレンジの取り扱いだ。直接手を触れずに、ポリエチレンの手袋を使用している。衛生観念が随分向上したようだ。

 塵芥集集装置。足踏み式で上の蓋が開く。路面と同じ高さで2メートル四方ぐらいの鉄板下が収納部で、収集車の車載クレーンでつり上げ、収集装置底部の蓋を開けて塵芥を収集車に移すと想定される。

公衆電話スタンド。






公衆電話。かなり旧態依然としたもののようだ。





 野良犬の耳にタグがつけられている。トルコでは野良犬に去勢・避妊手術を施した後、耳にタグをつけて元いたテリトリーに戻しているそうだ。ブルガリアでも同様のシステムがあったことを思い出す。

 レストランのトイレで見た、「使用済みの紙は屑籠へ。ご協力有り難うございます」の掲示があった。下水が詰まりやすいからだけれど、日本人観光客は気付くだろうか?


箒の製造直売店があった。日本ではすっかり出番を失っているタイプの箒だが、イスタンブルではまだまだ現役らしい。



日本でも40年以上前にはやったスピログラフ(登録商標)が、なぜか今ブームだ。
ちなみに現在でもダイソーではデザイン定規、アマゾンではくるくる定規の名称で販売しているようだ。

以前は見かけなかった包装方。OPPテープの出現が関係していると思われる。ポリエチレン平織りの布を使い、OPPテープで縛る(?)。面白いのはグリップを着けることだ。通常両側にあり、二人がかりで4つのグリップを掴んで動かす。

  
政党が翌週の選挙に備えて組織したらしいデモ。



街で見かけたファッション。似たような服装の人は他に見かけなかったし、彼女のオリジナルかもしれないが、やはりイスタンブルにいることを感じさせる。



 横断地下歩道で営業していた、携帯電話充電屋。携帯電話サイズのロッカーが設えてあり、充電中に待機していなくても盗難などの事故を防ぐシステムらしい。 Acil:緊急 şarj:充電。



 風にたなびく小旗  便器の洗浄水噴射装置。
  イスタンブルの街は至る所で風になびく旗が目立った。何かと思ってオヌルに訊いてみたら、来週の日曜日が国会議員選挙で、それぞれの政党がシンボルフラッグを張り巡らしているらしい。日本で選挙と云えば個人ポスターだけれど、そんなものは1枚もない。完全比例代表制なのだろうか。
  温水洗浄便座になれてしまうと、洗浄できなくてトイレットペーパーだけで始末した時に落ち着かない気分になる。イスタンブルでも当初はペットボトルに入れた水を手の平に流して洗ったり苦労した。ところが二日目に、洗浄装置が便器に組み込まれているのを発見。温水は出ず、便器の右側に設置されたバルブを右手で開閉操作する、ごく簡便なものだけれど、ペットボトル方式に比べれば遙かにましだった。

 駐車場は出入り通路確保せずの詰め込み方式。

 靴底屋が集まっている地区だ。ショーウィンドウにTaban(タバン:ベース、基部)で各メーカーか?

インターネットカフェは海外電話を安くかけられる店を兼ねている。


イスタンブルでもヘチマを売っていた。

イスタンブルの食(Istanbul Foods : istanbulun yemeğilar)

  トルコ人は自らの料理を、「フレンチ、中華と並ぶ世界の三大料理。」と誇りにしているが、それほどのものとは思えない。しかし私の口には合うし、レストラン以外に屋台料理も多いのは楽しい。また素材は既に紹介したように、日本からすると随分安いものが多かった。

30日の晩飯
 ミックスサラダ。
  ラムチョップ。
 8カ国語お品書きのラムチョップ。大きなお品書きの当該部分だけをトリミングした。
  イスタンブルのアタチュルク国際空港に着陸したのは、定刻の午後4時15分だったが、入国管理の大行列、受託手荷物のピックアップ、地下鉄による移動、アクサライ駅から宿までの道探しなどを経て、部屋に落ち着いたのは7時半を回っていた。
  カメラだけ持って晩酌に出かける。フロントで最寄りのワインを供するお奨めレストランを訊いた。徒歩1分の Aksu は lokanta(ロカンタ:食堂)ではなくレストランだと思わせる、以前アクサライでは見かけなかったタイプだ。
  ミックスサラダとラムチョップに白ワインを1本。ラムチョップが旨かったのは、素材の良さ故だろうか。しかし2千円近くと高い。ワインはさらに高く5千円ほどだった。
  以前来た時はワインといってもドルジャぐらいしかなく、質的にも大したことがなかったのに、今はこの店でも10種類くらいのトルコ産ワインだけでリストが出来ている。質的にも(値段ほどの値打ちがあるかは疑問だが)随分向上したようだ。

31日の昼飯。
 左側が昼飯を食べたイエニチェリのCOZYPUB & RESTAURANT。

 COZYPUB & RESTAURANTでは本格的石窯を設備している。

 ロケットサラダ。
 スズキのグリル。
  5月31日の昼飯はイェニチェリのレストランで。ロケット(ルッコラ)サラダとスズキのグリルに白ワインを一本。美味かったけれども勘定は約7,500円。アクサライより観光中心地に近いせいか、より高価な価格設定に感じられた。

ドネルケバブ
  晩酌は外食せずに、宿の部屋で適当なツマミを用意してやるのが、ここ数年の海外を旅する時のスタイルだ。昼夜外食ではとても消化しきれないことによる。そんなツマミに好適なものとしてドネルケバブが上げられる。私の好みに合うし、比較的安価なことが多い。近年ヨーロッパでもドネルはよく見かけるが、なんといっても総本山みたいなのがイスタンブルだ。
50人くらいは入れる食堂のドネルケバブ・コーナーは、外に開いた窓口があり、持ち帰りスタンドになっている。
  日本から持参した容器に詰めて貰ったドネルケバブと焼きトマト。


  下町で見かけたドネルケバブ・スタンド。アイラン付きで3TL(150円)

  5月31日ムラートに宿まで送って貰い、一旦部屋へ戻って用意の持ち帰り容器を携えてアクサライの街へ出る。昨日目星をつけて置いた食堂のドネルケバブ・コーナーで容器を示し身振りで持ち帰ることを意思表示した。簡単に通じ、一人前が何グラムなのか判らないが、ともかくデジタルスケールで定量を計ってくれた。焼きトマトやその他の野菜は追加しても計量外だ。勘定が18TL(900円)だったのは意外だった。ファーストフードはもっと安いはずなのに。
  翌日は別の食堂でドネルケバブを調達してみた。22TL(1,100円)で、さらに高い。6月5日に下町の Kadırga Limanı 通りで見かけたスタンドでは、パン( ギョズレメやエクメッキ)に挟んだ飲み物付(アイラン)きが3TL(150円)で、このくらいが一般的だと思う。なんで大幅に価格が異なるのか理解できなかった。品質にそれほどの差があるとは思えないし、量的に多かったとしてもせいぜい2倍が限界だろうに、価格は6倍。


6月1日の昼食
  30日、31日と高い割に冴えない食事だったので、1日は少し真面目に探すことにした。日本国内で常々やっている方式で、グーグルマップを使用しアクサライを中心として Restoran を検索する。ヒットした対象をロケーションなどからある程度絞り、名前で今度はグーグル検索で評判を調べる。
  この評判チェックが国内と異なり思うに任せないところだが、それでも TripAdvisor 情報などにより闇雲に歩き廻るより効率よく探すことが出来た。宿から徒歩5分のチャーレ食堂( Çağrı Restaurant )はトリップアドバイザーの評価が、「イスタンブールの食事ができる施設で 11,595 軒中 60 位」なので此処をターゲットにする。
ワインのラベルに印刷された透明シールが使用されている。デザインも含めてかなりの違和感。 「酒不可」が絵文字で表現されている。

ナスのトマト煮。


ミックスサラダ。 パンは中空。 ベイチケバブ。
 チャーレ食堂のテラス席。
  チャーレ食堂に行ったのは1時頃だった。テラス席があるのでこちらへ坐る。先客はテラス席に家族連れ3人が坐るだけで、屋内に客はいなかった。
  お品書きは画像入りでトルコ語を含めて7カ国語併記だ。此処を含めて3回見るお品書きが、ほとんど同じように出来ている。おそらく専門の業者がいて、インクジェットプリンターやラミネーターを駆使して作っているのだろう。ともかく勝手の判らない外国人には有り難い。
  割に空腹感が強かったので、コールドスターターからナスのトマト煮、グリルとケバブからベイチケバブを選び、ミックスサラダも頼んだ。ワインを訊くと改めてワインリストを持ってくる。赤白それぞれ10種類くらいあり、白はどれも辛口とのことだったので一番安い(それでも)60TL(3千円)のにした。
  すぐに運ばれてきたワインを、一緒に供されたパンをツマミに飲み始める。ワインは良かったけれど、それより印象に残ったのはパンだ。熱々の焼きたてで、パリッとしたのをちぎると中は空洞になっている。どうしたらこのように焼けるのか不思議に思ったし、「これをパンに着けて。」と出されたオリーブ油に唐辛子を抽出した(トルコ風辣油)で食べると実に旨い。糖質制限中だと思いながら、とうとう一箇を食べきってしまった。
  ベイチケバブはどんなものかを知らないまま、お品書きの画像を専らの頼りに注文した。供されたものは旨いが要するにシシケバブだと思う。
  改めて調べてみた。大雑把にいうと、肉(挽肉が多い?)の串焼きがシシュケバブで、これの香辛料に唐辛子が入るとアダナケバブになり、さらにニンニク風味が加わるとベイチケバブということらしい。
  ちなみにチャーレのお品書きにはアダナケバブもあり、画像を見ても見分けは付かない。値段が違いベイチの方が2TL高く、英文説明にある Garlicky の文字を手掛かりに注文した。
  ベイチケバブは旨かったし、白ワインも飲みやすくケバブとの相性も良かった。ケバブが旨いのは、まず羊肉の質が良いのだろう。さらに香辛料の使い方や材料の熟成させ方などに長い歴史の積み重ねがありそうだ。勘定は〆て118TL(5千9百円)で、チップを5TLテーブルに残す。
  前2回に較べれば幾分安いものの、それでも高いと思う。此処で前回98年に来た時の紀行を紐解き、グランド・バザールの中にあったハブズルのところを参照した。
  此処でバットに盛られた料理から二品、スープとサラダ、ワインのハーフ・ボトル、食後にトルコ・コーヒーの昼食をゆったりと賞味する。料金は1,642円。安い!
  と書いてある。ワインの質的向上が著しいことはあるにしても、なんでこんなに高くなってしまったのか。


3日の昼食
  2日は12時からニハール達と一緒だったので独自の食事はなし。
  3日は一昨日オヌルがメールで推奨してくれた食堂のうち、焼き肉が評判のヴァージニア・アンガスまで半時間かかけて行った。店構えを一見して悪い予感。店内で暇そうにしていたウェイターに訊くと、やはりアルコール類は置いていない。仕方なく再びチャーレ食堂へ行った。
オヌル推奨の食堂、ヴァージニア・アンガス。

  チャーレ食堂のワインリスト。


この日飲んだtılsım。


 ほうれん草炒め。  ラムの串焼き。
  この日は曇り空だったが、やはりテラス席を選んだ。ちなみにテラス席は喫煙可だけれど屋内は禁煙で、食堂はそんなところが多いようだ。禁煙環境として日本より進んでいると思う。EUに加盟したいトルコとしてはこんな所でも、「EU並である。」とアピールを試みているのかもしれない。
  お品書きは既に閲したものなので、簡単にコールドスターターからほうれん草炒め、グリルとケバブ類からラムの串焼きを選んだ。白ワインは最安値のもので先日飲まなかった tılsım にする。
 料理とワインには満足したが、それ以上特筆することはなし。


 上:ファヒータのチャーレ食堂お品書き。下:実物。
4日の昼飯
  前日に引き続きチャーレ食堂へ行く。宿から近いし、雰囲気、価格、サービス、料理などが抜群ではないにせよ水準以上なので、「行きつけの店」にするつもりだ。
  お品書きを開き、魚類にも食指が動いたが、結局はグリルとケバブ類からどのようなものか知らないまま画像を見てファヒータにした。値段からそこそこ量が多いとみなし、これ一品と白ワイン1本にする。
  執筆にあたりファヒータを調べたら、なんとメキシコの郷土料理だった。しかしトルコでもかなり一般的らしく、るるぶのイスタンブル観光案内にも載っている。本来のファヒータを食したことがないので比較は不可能だが、肉料理を得意とするトルコ風にアレンジされたものかもしれない。

5日の昼飯
  4日にソクルル・メフメット・パシャ・ジャミイを目指し、入口が判らないまま諦めた時、付近でその名もソクルル食堂を見付けた。雰囲気は良さそうだったが、インターネットの評価を探そうかと、この日はチャーレ食堂へ行く。後ほど調べた結果は、「イスタンブールの食事ができる施設で 11,595 軒中 354 位」だった。チャーレ食堂よりは落ちるが、それでも中々のものだ。
 上:冷蔵ショーケース。レストランでこのタイプは珍しいと思う。
下:ソクルル食堂の外観。テラス席もある。

 ソクルル食堂のお品書き。店頭表示用。



 使ったテーブル。 羊飼いのサラダ。 ソクルル・ケバブ。
  付け合わせのライスとサラダが少量残ったがほぼ完食。
  ソクルル・メフメット・パシャ・ジャミイの入口は判ったものの、内部への扉は閉ざされていた。11時まで待ってみたが開く様子がない。それではと、昼飯を先に済ませることにしてソクルル食堂へ移動した。
  テラス席もあったけれど、幅の狭い歩道上にセットされ、すぐ脇を車が往来する。おまけに坂道なので上ってきた車はエンジンを吹かした状態で通過するので屋内へ入った。先客はなく窓際のテーブルを選べば、窓は開放されていたので気分的にはテラス席と大差がない。
  流暢に英語を話すウェイトレスが英文お品書きをテーブルに置く。画像が少ない代わりに、名称だけでなく簡単な説明があった。羊飼いのサラダ(トマト、ピーマン、胡瓜、パセリ)とソクルル・ケバブ(グリルしたミートボール、ラムのシシケバブ、鶏のシシケバブ、ラムチョップ、アドナとトマトのケバブ)にした。
  ワインリストはなくて部屋の隅に積まれたワインの壜を見せながらの説明だった。白はどれも辛口とのことで、彼女にお奨めを訊くとアンゴラだと云う。値段が60TL(3千円)だったのでこれにした。 ちなみにこのワインは日本でも販売されている。楽天のインターネット通販では1本が1,620円だった。
  サラダをツマミにワインを飲みながらソクルル・ケバブを待った。20分以上掛かったのは種類が多いからだろうか。このケバブに関し特筆するようなこともないが、種類が多いため量的にも増え、私の適量からすれば多過ぎることになった。ライスは糖質制限により残したが、サラダは単に食べきれず少量残す。 


小イワシの唐揚げ
  3日の晩酌ツマミにドネル・ケバブを買った帰り道、宿のそばまで来て、小イワシの唐揚げをパンに挟んで売る屋台と出会った。大いに食指が動いたもののドネルと一緒では多過ぎる。明日のツマミはこれにしようと、ひとまず断念した。
  翌日も夕方になりカメラと容器を準備し、小イワシを求めて街へ出た。昨日の屋台はいなかったが、適当に探し回ると5分もしないで運良く見付かる。持参の容器を見せれば、要望は簡単に通じた。唐揚げを作る状況などを撮影しようとして失態に気付く。メモリーカードをカメラからネットブックに差し替えたままで、撮影(記録)できないのだ。
  メモリーを取りに部屋まで行くほどの根性はなかったけれど、翌日も小イワシの唐揚げに再挑戦する。幸なことに同じ場所で唐揚げ屋台は営業していた。
揚げ物鍋はエプロン部分が内側に向けて緩く傾斜し、揚がったものの油切りに使う。 右にいるのは助手なのかトマトやタマネギなどをトレイに詰めてくれた。 左は唐揚げ屋の使い捨てトレイで右が持参の容器。

  随分前にガラタ橋のそばで見かけた、鯖を揚パンに挟んで売る船では、真っ黒な重油かと思うような油を使用していたが、唐揚げ屋台で使用しているのはサラダ油なのか透明度も高いものだった。1人前(?持ち帰った分量)で10TL(500円)だった。
  値段が高めなことと、パンに挟むには量が多すぎるから2~3人前なのかもしれない。食べてみるとイワシの鮮度も良いようだし、油も軽いもので旨かった。

エピローグ(Epilog : sonuç bölümü)

 サマーガーデンのサイデとニハール。
  6月2日の晩餐会で、隣に坐ったサイデはスマートフォンから1枚の画像を選び出し見せてくれた。ひまわり畑を背景にハンモックに横たわるニハールとその脇に坐る自分で、「私のサマーガーデン。今度は此処にもいらっしゃい. . . .」と云う。その時は酒も飲んでいたし、舞い上がって、「次はもっと長く滞在しても良いのか?」と思った。
  いっときの熱気が去ると、今回のイスタンブル訪問は、私に取って終活(Ending action)の一環であったと考えるのが一番おさまりが良いようだ。だからといって、「イスタンブルに来ることはない。」とか、「サイデにもう会わない。」と決めたわけではない。ただはっきりしているのは、「これでこの世に思い残すことが一つ減った。」ことなのだと思う。
Benim değerli türk arkadaşlarım icin bu cümleyi yazdım
(トルコの大切な友人達のためにこの文章を書きました。)

あとがき

  これまで随分紀行文を書いてきたけれど、自分自身が写る画像の使用は滅多にないことで、利用した数千画像のうちで数枚あるだけだ。それが今回は一気に5枚も入っている。このことからしてもいかに本紀行文がこれまでのものと違っているかの表れで、正に空前にしておそらく絶後だろう。
  各章のタイトルにはトルコ語も入れた。これは、「イスタンブル紀行 再会」をトルコの友人達に(日本語で申し訳ないと)謝りつつも紹介し、せめて画像を見ながら幾分かでもストーリーを想像して貰う助けになればと思ったからだ。

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