İstanbul seyahatname   tekrar birleşme


 目 次
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地図

再会(Reunion : tekrar birleşme)


イスタンブル逍遥(Istanbul rambling : istanbulun dolaşma)

晩餐会(Dinner party : ziyafet)

出会い(Encounter : karşılaşmamız)

フェイスブック(Face Book : Yüz Kitabı)

イスタンブル寸景(Istanbul Sketch : manzaraların kabataslak resim)

イスタンブルの街角 屋台とトレンド(Istanbul the streets. Stalls and trends. : istanbulun sokak köşesi dışanda satıcı ve eğilim)

イスタンブルの食(Istanbul Foods : istanbulun yemeğilar)

エピローグ(Epilog : sonuç bölümü)

あとがき(Afterword)

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再会(Reunion : tekrar birleşme)

  イスタンブルに着いてから、二日目になっても旧友から連絡はない。気を揉んでも仕方ないので、午前中はアクサライから歩き出し、スルタンアフメット・モスク界隈をぶらついてから、イェニチェリのレストランで昼飯・昼酒を済ませて宿へ戻った。
  フロントでキーを受け取る時、ホテルスタッフがメモを見ながら、「ムラート から電話があった。また電話するそうだ。」と告げてくれた。情報としては曖昧模糊としたものだけれど、ともかく連絡する気があることが判っただけでも気分的に落ち着く。果報は寝て待てと、部屋で一眠りした。

運転席のオヌルと助手席のサイデ。サイデのスマートフォンでオヌルが撮影。FBより採取。

 ウトウトしたところで、電話のベルが鳴った。男の声で、「これからそちらへ行く。」と云う。時間を訊くと10分ぐらいで来るらしい。急いで身支度を整え、カメラバッグを持って下へ降り、玄関の外で待っていると、サイデが青年を伴って道路を渡ってくる。24年ぶりの再会に、思わずハグ。
  ハグが終わると、サイデは傍らの青年を、「私の息子(My son)」 と紹介してくれる。名前はオヌル・ヴァー(Onur Var)だ。あまり英語を話さないサイデは、通訳も兼ねて彼を同行させたらしい。オヌルは付近に駐車しているのでそれに乗ってピエール・ロティのチャイハネ(トルコ風茶店。フランス人作家ピエール・ロティ(1850年~1923年)が書斎兼サロンとしていた歴史的建物を利用している)へ行くと云う。そこで他の旧友と落ち合う段取りらしい。
  徒歩1分のところに路上駐車していたフォルクスワーゲンの中型車に同乗する。ちなみにイスタンブルは路上駐車可能のところはかなり多く、係員がいて料金を徴収している、人力パーキングシステムだ。
  この街は車(人口)増に道路整備が追い着かず、車輌渋滞は日本の首都圏より酷い。しかしそれでも8キロ強を半時間ほどで走り、3時半にはチャイハネそばの路上に駐車できた。すぐに駐車料金を徴収される。

 
左からアイファ、私、サイデ、ムラート、娘。

  小さな公園状の庭を抜け、崖の上に設けられたテラス席へ行く。日曜日の午後で天気が良かったせいもあるのだろうが、ほとんど空いているテーブルはない。取り敢えず4人掛けの円テーブルに着き、2回ほど場所を変えて、手摺り際の眺めが良く8人掛けの長テーブルを確保できた。
  テーブルを確保した頃に、タイミング良くムラートが娘(次女)を連れて到着し、しばらくしてアイファも連れ合いのアリ(TC Ali Ucar)と一緒に姿を現す。
  落ち着いたところでオヌルと名刺を交換し、名前の発音を訊きカタカナで書き込んで置いた。耳も記憶力も衰えているから、こんなことをしておかないとすぐ判らなくなってしまう。航空機関系のエンジニアで、84年生まれとのことだ。一瞬アレッ?と思う。
  7人が揃ったところで、今日集まれるのはこれが全員だと告げられる。旧友のもう一人、ニハールはイスタンブルから少し離れたところに住んでいるため、急な集まりに参加できなかったそうだ。私としては随分前から情報を流していたつもりだが、なぜか違うらしい。

 チャイハネからの眺め。 

  チャイハネなので飲み物と軽食を各自注文する。gözleme mantı(トルコ風パンケーキ。英文併記のお品書きには具材のバリエーションで、7種類が載っていた)を奨められたが、食欲が今ひとつだった上に糖質制限食には抵触しそうなので、トルコ風コーヒーだけにする。
  英語を話すのはオヌルだけなので、全員ではろくに話が通じないのに、2時間半も楽しい時を過ごした。その中で一つだけ深刻な話しを聞く。オヌルの通訳を介して、「サイデは20年ほど前に心臓病で危篤状態に陥った。」と。何とかそれは乗りきったものの、未だに状態は悪く、最終的に心臓移植が必要らしい。

 
串揚げジャガを持って笑うムラート。 ムラートの娘とアリ。

  一見したところではそのような重い障害を抱えているようには思えなかったが、ふと一抹の儚げな感じが漂うのはそのせいなのだろうか。ともかく今回、思い切ってイスタンブルまで来て良かったと思った。
  中座していたアリが、両手に人数分の串揚げジャガを持って再登場し座が賑わう。これを食べ終わったのを潮時に、火曜日に晩餐を共にする約束をして別れる。帰りはムラートが彼の車(やはりフォルクスワーゲン)で、宿の前まで送ってくれた。

イスタンブル逍遥(Istanbul rambling : istanbulun dolaşma)

 上:宿の朝食堂。下:グランド・バザール。

  6月1日の夕方にオヌルからメールで、「明日の正午にニハールがあなたのホテルでピックアップし、後ほどサイデと合流する。晩にはムラートやアイファと晩餐を共にする予定だが、支障はないですね?」の連絡が入った。「了解。支障は有りません。」と返信する。
  明けて6月2日は、幸いなことに晴が継続していた。ホテルの朝食堂は最上階の7階にあり、マルマラ海が遠望されて気持ち良く食事が出来る。しかしビュッフェ方式の品揃えは貧弱で、糖質制限食を実行しようとすればほとんど食べるものはない。
  チーズ、(牛肉?)ソーセージ、トマトを皿に取り、エッグスタンドに載せられた茹で卵を一つ。飲み物はオレンジジュースにした。それ以外に用意されている飲み物は牛乳か、お湯とネスカフェ、ティーバッグなどで食指は動かない。
  朝食後は部屋でしばらく朝日新聞デジタルを読み、10時近くなって、散歩に出かける。目指したのはグランド・バザールだ。この街では屈指の観光名所であり、エスニック・ショッピングセンターでもあるが、見物や買い物が目的ではなく、以前に度々利用したレストラン・ハブヅルが、まだ営業しているか確かめるためだった。結局見付からず、後ほどインターネットで調べたところ、グランド・バザールの外へ移転したらしい。

 
スレイマニエ・モスク北東側の展望台でニハール(左)とサイデ(右)に挟まれてスリーショット。  

  宿へ戻って部屋で待ち、約束の5分前にカメラバッグを持って玄関前で待機した。ほぼ正午ぴったりに、見覚えのある顔が若い長身で学生風の青年と共にやってきた。ニハールだ。二人と握手を交わし、ニハールはほとんど英語を話さないので、青年が自己紹介した。彼女の甥でアフメットジャンという電気系工学部の学生だった。
  サイデとの待ち合わせ場所へは、アクサライの乗り場まで歩き、タクシーを利用した。スレイマニエ・モスク北側の石畳広場で下車する。ニハールが携帯で何か話していたが、しばらくすると向こうからサイデがどこか浮遊感のある歩き方で広場を横切ってくる。
  合流してからは何となくサイデがリードするような形で移動した。最初にモスクの南側にある門から境内に入り北東側まで行くと、眼下に金角湾、その向こうにガラタ塔と新市街、左手遠方には一昨日訪れたピエール・ロティのチャイハネ、右手にボスポラス海峡やそこに架橋された第一ボスポラス大橋などの雄大な景観が広がった。アフメットジャンがスリーショットの写真を撮ってくれる。

  スレイマニエ・モスクの大ドーム天井。窓にはステンドグラスが使用され美しいが、画像では露出オーバーとなってしまった。

  展望台を離れてモスクの方へ向かう時、サイデが良いニュースがあると云い出した。昨日病院へ行き医者から、「心臓移植の必要は無い。」の診断を得たそうだ。「カネコが訪ねてきたからかしら?」と頬笑みながら付け加えた。
  モスクの内部を拝観する。このモスクはスレイマン1世の命を受けミマール・スィナンが設計した。スレイマンはオスマン帝国最盛期の皇帝だし、スィナンはトルコ建築史上最高の建築家と評価されているから、ゴールデンコンビによる作品といえよう。その結果、トルコ建築最高傑作のひとつと言われたり、イスタンブルで一番美しいモスクなどと評されている。
  しかしイスラム教の教義というか精神が偶像崇拝などを排除し、したがってモスクの内装でも、祈りを捧げる目印となるミフラーブでさえ過剰な装飾を排している。スレイマニエ・モスクもこの点は全く同様なので、多用されているステンドグラスやイズニク・タイルはあくまでも瀟洒な使用にとどまり、カトリック教会の大寺院と較べると随分違っている。
  祈りの場はただ祈りのためにあれば良いとの精神は、純粋で素晴らしいと思うし、それを実現しているモスクの良さも判るつもりだ。しかしその一方で、私のような俗人はバロック教会の豪華絢爛に目を奪われたりもするし、スレイマニエ・モスクでは割と短時間で堪能(満腹)してしまうようだ。
  モスクを出るとサイデは、「私とニハールはシングルだから、あなたとこんな風に散歩していても問題ないの。」といいだした。「オヌルは?」と訊き返したら、息子ではなく甥(姉の息子)だと答える。一昨日の「アレッ?」が解消した。何しろ84年当時はもちろん、最後に会った91年でも彼女たちに既婚者の雰囲気はまるでなかったのだから。ましてや84年に息子がいたとは青天の霹靂ではないにしても随分違和感を覚えることだった。
  ちなみにアイファは91年の私がトルコに滞在している間に結婚した。わざわざ私の宿まで婚約者と一緒に、披露宴の招待状を持って来たらしい。生憎なことに、その時は同行した友人夫婦とエーゲ海沿岸方面へ3泊の旅でイスタンブルにはいなかったのだ。トルコ人の披露宴に出席するなど、願ってもない機会だったのに、惜しいことをしたものだ。
  またさりげなくサイデが一向をリードする。これは自然な成り行きで、ニハールはサイデより年下でそれに現在イスタンブルに住んでいないため土地勘がない。アフメットジャンはさらに若く、それにもっぱら通訳のために同行したようだし、そして私は全くのところ他所者の異邦人だ。
  ということで当然なのだけれど、サイデは何となく皆の合意で移動しているような雰囲気にしてくれる。境内を出て北西側の通りを行くと墓地があった。彼女の説明では、スレイマンや彼の妃ヒュッレム・スルタンの墓廟があり、さらに設計者スィナン自身の墓もあるそうだ。

 
テラス・カフェのアガ・カプセ(Aga Kapisi:時代のゲート?)から見下ろすガラタ橋とボスポラス海峡。

  しかしこれを見るために来たのではなかった。墓地の脇を下るファトワ坂をわずか行くと、地味な看板を掲げてテラス・カフェのアガ・カプセ(Aga Kapisi:時代の門)があった。木製の古びた階段を3階まで登ると、4人掛け円テーブルを10くらい置いたフロアがあり、ガラス戸で仕切られてテラス席がある。
  此処からの眺望が売り物なのだが、サイデがウェイターと言葉を交わした結果、「屋上のテラス席はさらに眺望が良い。」とのことでそちらへ移動した。
  確かに見事な眺望で、スレイマニエ・モスク北側の展望と似ているが、手前に夾雑物がないすっきりした眺めだ。この違いを抜きにしても、此処なら腰掛けて飲み物を楽しみながら寛ぐことが出来る。生憎なのはアルコール類がないことだけれど、これは我慢するしかない。
  曇り空で少し風が強いのが玉に瑕だったけれど、此処からの景観はそれを補ってあまりあるものだ。その割には観光客風の訪れは少なく、日本人は皆無だった。半時間あまりテラスで過ごし、その後は私が持参した古い画像をネットブックで見せるために、直射日光の射さない室内へ移動しさらに半時間。
  晩餐をムラート達も加えてするのは既定だが、現在時刻の1時半からそれまでどう過ごすつもりなのか訊いたところ、サイデとしては一緒にいることを考えていた。それではこれから何所へ行くか?
  シルケジからフェリーでアジア側に渡り、ウスキュダル界隈の散歩を提案したところ、サイデが車で来ているので拙いらしい。車があるならばそれでのドライブはどうか訊くと、それなりの心積もりがあったようで、しかしその前に軽い食事を摂ることになった。
  カフェの支払いは総てサイデが持ってくれた。申し訳ない気持はあるが、トルコの習慣としては招いた側が負担するのが当たり前で、それに従わないと無礼で出しゃばったような感じになるらしい。

 モスクの門前(?)レストランで煮豆料理(Kuru Fasulye)。

  アガ・カプセからモスクの横を通り、先ほどサイデとであった、石畳広場まで戻る。広場の北側には半分屋台のような食堂が軒を連ね、何所も繁盛していた。
  門前町ならぬ門前食堂といった印象を受ける。此処では煮豆料理(Kuru Fasulye:クルファスリィエ。肉と白豆を柔らかく煮込んだもの)が名物で、その中でも特に評判の良い(?)Kurucu Ali Baba Kanaat Lokantasiに入る。
  多少の品揃えはあるようだが、ともかくお奨めのクルファスリィエにする。これを各自に一皿ずつと、ピクルスをシェアして一皿。サイデ達はパン(エキメキ)も頼んだが、糖質制限食の私はパスする。アルコールはなしだった。
  半時間ほどで昼食を終え、此処もサイデに奢って貰う。徒歩10分ぐらいの所に駐車場はあった。狭い空き地を利用し、日本なら立体駐車場などを考えそうだが、イスタンブルは労働集約で解決する。車が入出場するための通路を残さずに密集して駐車し、奥の車がでる時は、駐車場の係員が障害となる手前の車を順次移動させるのだ。
  閑話休題。駐車場近辺は狭い曲がりくねった道で、かなり運転しにくそうだが、サイデは苦にしないで走って行く。日常的に運転しているようだ。このエリアを抜けて、アタチュルク大通へでれば、一気に快調な走行となった。ローマの水道橋をくぐり、アタチュルク橋で金角湾を渡る。
  直進して坂を登ればタクシム広場へ出るが、右折して海沿いの道を選んだ。間もなくカラキョイを通過する。トラム(路面電車)が走るようになった以外は昔とさほど変わっていないように感じる。

 各種クンピル(インターネット画像より採取)。

  ボスポラス海峡に沿って北東へ進むと、ドルマバフチェ宮殿など、かつて訪れた観光名所を懐かしいものとして見た。半時間強で第一ボスポラス大橋の袂に近いオルタキョイに着いた。どうやらサイデの心積もりは此処だったらしい。
  名物料理のクンピル(ベイクドポテトの中や上に、好みに応じ注文し各種具材を挟んだり乗せたりしてもらう)やアクセサリーを商う屋台が小路の両側に軒を連ね、人通りも多い。此処を抜けるとオルタキョイの船着き場で、ボスポラス海峡を1時間ほどで巡る、ミニクルーズの基地になっている。

第二ボスポラス橋。

  着いたのが3時10分で、次のクルーズが3時20分と絶妙のタイミングだ。クルーズ料金は15TL(750円)だが、今回もサイデは払わせてくれない。
 平日のせいか上甲板の席は半分ぐらいが空いていた。朝方は曇り空だったのが今は青空が拡がり白い雲が太陽光を反射して輝いているし、海の青さも申し分ない。気温は少し高めだけれど、海上を渡る微風を受ければ爽やかで心地良い。
  出港した船は海峡のヨーロッパ側に近い方を黒海方面へ向かい北上して行く。途中目を惹かれたのはスワダ・クラブで、元々は石炭貯蔵などに使用されていたガラタサライ島を人工的に拡張し、ナイトクラブや3軒のレストラン、バー、プールなどが作られた。最大で2,700人程度が利用できるらしい。火曜日の午後3時半と、半端な時間なので利用者は余りいなかったが、設備から想像されるのはかなり華やいだ場所のようだ。

船上でサイデ、ニハールとのスリーショット。ニハールのコンパクトデジタルでアフメットジャンが撮影。ニハールのFBから採取。

  出港してから半時間ほどでルメリ・ヒサル(Rumeli Hisarı:ローマの城)が見えてきた。メフメト2世が1452年に建設し、対岸に設けられていたアナドル・ヒサルと対で、ボスポラス海峡の制海権を握りコンスタンティノープル攻略の拠点となった歴史的建造物だ。
  ルメリ・ヒサルを過ぎるとまもなくファーティフ・スルタン・メフメト橋(第二ボスポラス橋。日本の政府開発援助のもと、石川島播磨重工業(現IHI)や三菱重工業などにより建設され、1988年に完成した。)があり、この辺りでクルーズは引き返す。帰路はアジアよりに航路を取った。
  オルタキョイに帰港すると来た道をカドキョイまではそのまま引き返し、そこから直進して浮き橋のガラタ橋を渡った。金角湾の渚沿いに内陸部へ向かい、イスタンブールベルトウェイに乗る。高速道路に近い作りだが、歩行者が平気で横断したりするし、中央分離帯に相当する部分がバス専用レーンになっている。
  アタチュルク空港に近いムラートの事務所までは20キロ弱で、夕方のラッシュによるのか1時間強掛かった。サイデは車を置きに家へ戻り、ニハール、アフメットジャンと私がムラートの事務所へ向かう。
  事務所は5階建て集合住宅の3階にあり、1戸分を友人の事務所と共有しているようだ。彼の部屋は一人用で、立派な長デスクとソファー、大型TVなどが備えられている。一昨日は次女が一緒だったが、今日は長女を伴っていた。建築関係のエンジニアとか。
  ちなみにムラートは以前からそれほど英語は得意ではなく、それが長いこと使う機会もほとんどないまま、すっかり錆び付かせてしまったらしい。そこで娘達を通訳もさせようと付き合わせているようだ。

晩餐会(Dinner party : ziyafet)

 グラーテは海岸に沿って細長く、眺望を楽しめるようになっている。

  ムラートの事務所で晩餐会までの時間調整をする。7時15分前に出発する。ムラートの運転で空港の南側を迂回し半時間ほどで魚料理のグラーテ(Güverte:甲板)へ着いた。
  芝生が拡がる公園かと思われるような敷地に、海岸に沿って細長く伸びた木造の平屋で、4メートルほど立ち上がった煙突が焼き魚を連想させる。
  皆は勝手知ったる様子で店内へ入って行く。左手奥の眺めが良く、寛げるところが予約席で、アイファが連れ合いのアリともう一人見知らぬ中年婦人と先着していた。我々が坐ってまもなくサイデとオヌルも到着した。

 
全員が揃った。左からニハール、アフメットジャン、ニガール、アイファ、アリ、サイデ、ムラートの長女ツーチェ、ムラート、オヌル。

  全員が揃ったようで、料理や飲み物が次々に運ばれてくる。アルコール類を飲むのはサイデ、オヌルと私の3人だけで、後はコーラなどのソフトドリンクだ。
  魚料理に(白)ワインは世界的にごく一般的な組み合わせだけれど、ことトルコにおいてはラク(rakı)が一番のようだ。ワインや葡萄の搾り滓を蒸留して作るこの酒は45%程度の強いものだが、それ以上に特徴を与えているのがアニスによる香り付けだ。サイデ達は迷うことなくラクにしたが、私はアニスを苦手とするので「1杯目は白ワインで。」と勘弁して貰う。
  ついでに席次も、「主賓だから中央へ。」と云われたが、「写真を撮りたいので端に。」して貰う。正直なところ中央などは面はゆくていけない。

 
 プレゼントされた卓上スタンド。

  前菜(meze:メッゼ)が一通り並び、飲み物が行き渡ったところで乾杯する。その後で向かいに坐っていたオヌルが、「皆からの記念品だ。」とビニールの手提げに入った卓上スタンドを渡してくれた。
  此処で大失敗。エアキャップに包まれたスタンドを垣間見たものの、気が高ぶっていたせいか、せっかくの見事な品をその場で披露することなくしまい込んでしまった。翌日になりこれに気付き、ともかくFBでお詫びする。
  料理が次々に運ばれて、撮影が追い着かない。一方座の方も打ち解けてきて会話も盛り上がる。英語をまともに話すのはオヌルとツーチェくらいなので、トルコ語がもっぱら飛び交っているのだが、なぜか疎外された気分にもならず楽しむことが出来た。
  宴たけなわになったところでオヌルがアイファの隣に坐る婦人を指して、「誰だか判る?」と訊く。判らないと答えたら、「ニガールだよ。」と教えてくれた。ニハールの姉であり、アフメットジャンの母親で、二、三度会ったことがある。酒のせいもあったのか、急に懐かしさが湧き上がり、互いに席の後ろを駆け寄るようにしてハグした。

 オヌルのカメラで撮影し、彼のFBから画像を採取。

  宴が始まって1時間ほどしたところで、サイデがグラスを持ってニハールと席を交替し隣に来ると、改めてラクで乾杯しようと云う。すると向かいにいたムラートが驚いたことに、「私もラクを飲む。」と云い出した。何しろ彼は本来一滴も飲まないはずだ。ともかくオヌルがサイドテーブルに置いてあったラクとグラス、水で乾杯の段取りをする。折良くボーイが通りかかったので乾杯写真を撮って貰った。
  宴会がお開きになったのは11時近かった。皆が財布を取り出したので、割り勘に加わろうとしたが今回も断られてしまった。
  店を出て、サイデとオヌルが呼んだタクシーに同乗させて貰う。(この辺りでは高架だが)地下鉄のアタキョイ・シネニーラ駅へ寄り道して下ろしてくれる。空港から二つ目の駅だった。深夜に酔った状態で異国の地下鉄に乗るのは不安もあったが、2回目であることが救いだ。
  12駅目のアクサライに着いたのは11時55分で、宿に辿り着いた時は日付けが変わっていた。玄関が閉まっていたら大変だと、ヒヤヒヤしたがこれは問題なし。部屋でベッドに潜り込み、「良い一日だった。」としみじみ思う。

「出会い」へ

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