9.鶴岡の昼飯
 明くる日は青空に薄い絹雲が流れ、風もない穏やかな朝だった。6時50分の奥羽線上り列車で弘前を発つ。
  この日の旅程も計画立案時にかなり悩んだところだ。鶴岡に泊まることは早目に決めていたが、昼飯・昼酒をどこでやるかが難しかった。
  秋田でということならば以前Nさんに教えて貰った迎賓館が、秋田駅西口から5分ぐらいの所にある。此処はそれなりに良い店だと思う反面、旅の酒としては面白味に欠ける。
  秋田を過ぎるとそれなりに大きな街を探せば酒田まで行ってしまう。酒田は3回ほど訪れたことがあるけれど、駅近辺は閑散とし、街の中心部はちょっと離れたところにある。2010年の雪見酒紀行で、飛島からフェリーで酒田に戻り、昼食を摂った五郎兵衛(ゴロウヒョウエ)食堂は良かったけれど、歩いて20分は気が進まない。
  昨年秋に一応紅葉見物ということで陸奥を旅した。この時は弘前から鶴岡へ移動し、此処で少し遅めの昼飯・昼酒だったが、結局このパターンを踏襲することに決めた。その結果青森駅発が6時50分発の普通列車利用となる。
上:八郎潟付近。
下:東酒田駅付近から見る鳥海山。
  弘前の東横インも朝食開始は6時半だった。「これならば味噌汁くらい飲む暇はあるか?」と思ったが、朝食開始時には混むことが多いし、慌ただしくせこい朝食を摂ることなどやめにしてチェックアウトした。
  6時半に2、3番線ホームに着く。20分も吹き曝しのホームで待つのもどうかと思ったが、38分に大館発の下り普通列車が到着し、これが折り返しの大館行きとなる。すぐに乗り込んで暖を取った。
  定刻に発車したのは良いが、車輌がロングシートタイプなので車窓風景を楽しむ気にならない。大館に7時33分に着き、鷹ノ巣まで行くならば5分待ちで乗り継ぎができる。しかし秋田までだと35分待ちで、車輌は弘前から来たのだ。そのため僅かだが車内で待ち時間を過ごす人もいる。私は途中下車で改札を出ると、しばらく駅周辺をうろうろする。
  同じ車輌に戻って秋田へ向かい、秋田駅での乗り継ぎは5分で済んだが、酒田では33分も待たされる。酒田近辺では車窓から雪に覆われた鳥海山の優美な姿が見られるが、平野部には全く雪がない。鶴岡が近付いてもこの状態が続いた。
酒田から鶴岡までの車輌。ようやく片側ロングシート、片側ボックスシートになった。電化区間なのになぜかディーゼルカーだ。
  鶴岡駅には定刻の12時42分到着だった。徒歩3分のともえ旅館へ直行し荷物を預かって貰った。この宿は昨年10月に鶴岡を訪ねた際に見付けたところで、なぜか駅周辺のホテルはどこも満室だった状況下で、ようやく見付けたところだ。トイレ共用の部屋しかなく、本来は避けたかったが仕方なく利用した。
  しかしいざ泊まってみると、12時ころからでも空室があれば入室できるし、家族運営らしいスタッフの感じも良く、さらには素泊まり料金3,900円も気に入り再利用する次第になった。
  鶴岡の街は元々お城の東にできた城下町で、駅からは徒歩20分ぐらいの所が繁華街だ。のんびり歩いて行ったが目指したのは前回訪問時に昼飯・昼酒をやった定食屋の入舟食事処だ。街中にも雪は皆無で、からからに乾き、幾分ほこりっぽいような気がする。
上:五目野菜炒め。中上:選べるサービスランチ。中中:餃子。中下:ザーサイ。下:カウンター。一般的なものより幅が広くゆったりした気分で食事ができる。
  迷うこともなく入船に辿り着いたものの、やんぬるかな休業だ。時刻は既に1時を回っているから、早く食事できるところを探さないと食いっぱぐれる恐れが出てきた。前回来た時に一本西の通りで中華料理屋を見かけたので、そちらへ向かう。するとほとんど隣といったところに、「やきとり元気」の看板が有り、暖簾が出ている。
  名前は嫌いだけれど、店の大きさは手頃に思えた。中へ入ると高校生ぐらいの女の子二人がカウンター席に坐り、オヤジと話し込んでいた。開口一番、「お酒は飲めますか?」に、オヤジの答えはすげなく、「昼はやっていないんです。」だ。ただちに踵を返す。
  結局目指していた、桃園 飲茶点心店に入った。広々した店内はカウンター席と座敷で余裕を持たせた配置になっている。酒が飲めることを確認後、カウンター席に坐り焼酎の水割りを注文する。
  水割りを飲みながら分厚いお品書きを見る。外観と店の名前から、本格的中華料理屋で一品料理やコース料理ばかりかと思っていた。お品書きには、そのような品目以外に日替わりランチ(650)、選べるサービスランチ(750円)などが有り、庶民的というか私などには親しみやすい店だ。
  選べるサービスランチは、豚肉とピーマンの炒め、エビのチリソース煮、五目野菜炒め、カニ玉、マーボー豆腐。鶏の唐辛子炒めの6品から一つを選び、それに小鉢、漬け物、ご飯、スープが付く。一品を五目野菜炒めにしてご飯は断り、さらに餃子も頼んだ。
  お通しをツマミに飲んでいると10分もしないで餃子とサービスランチが同時に出された。運んできた女将は訛りからすると中国人らしい。店の懐が深いことを感じる。
  野菜炒めは本格中華らしい強火で一気に炒めたもので、野菜炒め好きとしては心中快哉を叫ぶような品だった。焼酎の水割りを1杯追加し、料理が七割方なくなった頃、女将が中皿に盛ったザーサイをサービスしてくれる。随分久しぶりに食べるザーサイだが、記憶の中にぼんやり残っているそれとは全く異なる美味いものだった。今まで食べたものはザーサイの名に値しないものだったのかもしれない。
  その他、餃子は普通に美味かったし小鉢や漬け物も箸休めに良かったので、これと水割り三杯で満足の昼飯・昼酒となった。約一時間で食べ物、飲み物が全部なくなる。最後にすっかり冷め切ったほうじ茶を飲み干して勘定にする。
  店を出ると2時をちょっと回っていた。鶴岡城址の方へ足を向けたが、雪が全くないのでさっぱり面白くなさそうだ。ともえ旅館は既に入室可能だから、昼寝でもしようと戻ることにした。
 10.鶴岡の居酒屋
上:堂道店内。中上:お通し。中中:サラダ。中下:白子ポン酢。下:ノドグロ姿作り。



  5時を回ったところで夜の部を始める。目指したのは徒歩3分の居酒屋堂道だ。此処1年くらいの間に鶴岡を二度訪れ、その際に立ち寄ったのは居酒屋セイゴだった。この店も居酒屋らしいところは好みだけれど、今ひとつ相性が良くない。そんなことでセイゴのほとんど隣にある堂道を試すことにした。
  引き戸を開けると真っ直ぐ通路が延び、左側がカウンターになっている。額に入った色紙や貼り紙も多く、雑然とした感じだが居酒屋としては良い感じだ。気分よく飲めそうな予感がする。
  カウンター席に坐り、4合壜があることを確かめ目の前に張り紙された赤霧島を頼む。カウンターの一部に冷蔵ショーケースが設えてあり、そこから中で調理するオヤジが見える(話もできる)。
  接客は女性二人があたり、どうやらカミサンと娘らしい。要するに家族経営の居酒屋だ。
  すぐに運ばれてきたお通しで焼酎の水割りを飲みながら、お品書きに目を通す。白子ポン酢と野菜サラダ、値段が割に高かったので躊躇したがノドグロ刺身も注文した。私には日頃食べる機会の少ない魚だ。
  時刻が早かったせいか、先客の姿は見えなかったが、二階の座敷で宴会があるのか、引き戸が開いては客がオヤジに声を掛けながら階段を上がって行く。オヤジの方も宴会料理の支度で忙しそうだ。それでも10分ぐらいでサラダと白子ポン酢が運ばれてきた。
  白子ポン酢(タチポン酢)は函館でも食したばかりだが、較べればこちらの方が優るような気がする。しかしそれほど繊細な味覚があるわけでもないし、あの時は食欲が今ひとつだったから、あまり当てにならない感想だ。
  ノドグロの方もそれほど遅れずに出された。姿作りなのに驚く。丸々一匹だから一人分としては多過ぎるくらいだ。そして早速賞味してみれば美味い。これだけ質量共に充実していれば(うろ覚えだが)1,800円は安いと思う。
順調に赤霧島の4合壜が減り、6時半には空になった。酒にペースを合わせて料理も片付けていったから、完食完飲だ。世間的には早い時刻だが、昨日同様切り上げて寝ることにした。
  
11.村上の昼酒
  雪見酒紀行2015の企画段階で、当初は鶴岡から仙台へ向かうつもりだった。ところが仙台で付き合ってくれるOさんからメールで、「水曜日は盛岡で仕事なので、仙台へ戻るのは遅い時刻になります。木曜であれば万全。」とのことだ。そこで再検討の結果、鶴岡からさらに羽越線で南下を続け、坂町で乗り換え、米坂線で米沢へ向かい、此処で一泊の後に山形駅を経由して仙台へ入ることにした。
  経路が決まれば次の問題はどこで昼飯・昼酒にするかだ。経路で多少大きな街は村上と坂町だが旧城下町でもある村上にした。インターネットで調べると「やすらぎ処 石亀」の評判がそこそこ良い。しかし駅から片道徒歩15分かかり、一方乗り継ぎ時間は1時間36分だ。これでも何とか間に合うだろうが、忙しい気分では昼酒が楽しくない。無難に駅そばの平内という食堂にした。タウンホテル村上というビジネスホテルの1階にあり、この宿は昨年秋に泊まったが、食堂は定休日で雰囲気も判らなかった。
  閑話休題。鶴岡から村上は近いので10時3分発の普通列車を利用した。庄内平野は古くから穀倉地帯として有名で、車窓からは見渡す限り水田が続いている。刈り入れが終わり雪のない田圃は反って寒々とした印象を与えるようだ。
  羽前水沢を過ぎると水田はなくなり、ちょっとした山間を抜けると日本海が見えた。山が海岸線まで迫り、ごく僅かな平地を羽越線と国道が並行して走る。沿線には温海温泉や海水浴場、さらには笹川流れなどの景勝地もあるが、冬の朝方は閑散として人影もない。11時43分に村上駅へ到着する。
上:お通しのタコ。中:さけびたし。下:平内定食。
  駅から真っ直ぐ徒歩4分の平内へ行き入店する。テーブル席、小上がり、座敷が有り総ての席が埋まれば60人ぐらいは入れそうだ。12時前ということもありまだ空席が多い。中ほどのテーブルを選び、焼酎の水割りをともかく注文する。
  お品書きを見て、ごく無難に平内定食をご飯抜きで注文する。水割りをお通しで飲みながら、暇潰しにお品書きを見直していると、村上でしか食べられない郷土料理として、「さけびたし」なるものがあった。
  興味を惹かれウェイトレスに訊くと、塩引き鮭を1年がかりで乾燥発酵させ、食べる時に薄く切り離してお刺身風にお皿に移し、 その上からお酒を少々かけたものだと説明される。ともかく名前からして頼まないわけには行くまい。
  これは調理というほどのこともなしに出来るようで、すぐに運ばれてきた。かなり塩味が強く、それ以外の旨味などはあまり感じられない。私としては今後これを注文することはないだろう。
  平内定食の方は取り合わせに調理もこの手のものとしては良い方だと思う。3杯の水割りを気持ち良く飲むことができた。
  駅まで戻ると12時50分を回っていた。やはり石亀を止めておいたのは正解だったようだ。1時19分の普通列車新潟行きに乗車し坂町へ向かう。次第に沿線が雪景色へと変化する。
  坂町では3分の連絡で米沢行き普通列車に乗り換えた。米坂線は荒川に沿って内陸部に向かう。越後下関を過ぎるとまもなく山間の鉄路となり、積雪量も一気に増えた。
  この辺りも豪雪地帯で、小国町では1963年(S38)2月1日には4メートル45センチに達し、外部との交通は途絶し10日間文字通り陸の孤島となったこともある。ちなみに駅前での積雪記録は飯山線の森宮野原駅で1945年(S20)に7メートル85センチ。
  この日も降雪はあったものの豪雪はおろか小雪程度のささやかなもので、列車は定刻3時35分に米沢に到着した。しかし宿の東横イン米沢駅前へは徒歩4分にもかかわらずぬかるんだ雪で足許が悪い上に、キャリーカートの車輪が積雪に埋没し引っ張るのに難儀した。

 12.米沢 北都匠
上:お通し。中上:烏賊納豆。中中:ブリのカマ焼き。中下:湯豆腐。下:白子ポン酢。
  米沢に泊まるのは二回目で、それ以外に一度昼飯・昼酒のために立ち寄ったことがある。雪見酒紀行2005と2010だ。見どころとしては上杉神社ぐらいしかなく、それも見応えのないものと認識している。そんなことで街見物はパスし、5時を回ったところで飲みに出かけた。
  東横インから駅へ向かって1分の所に居酒屋を発見。外観からすると悪くなさそうなので、よほど入ろうかと思ったが、店の名前をユアーズとするセンスが嫌で素通りする。いつものようにインターネットで幾つか目星をつけて置いたが、店を見ると外見から想像する店内にめげてしまったり、カラオケ有りの看板に怖じ気を震ったりだった。やはりユアーズにしようかと駅前交差点まで戻ったところで、北都匠の看板が目に入った。なんと読むのだろうか。
  食堂らしいが雰囲気が一般的なところと異なり、しかし居酒屋とはもっと違う感じだ。実は寿司屋で暖簾にも小さく書いてあったようだが、出入り口(ガラスの引き戸が四枚)の貼り紙、「寒い時期仲間で一杯、鍋にしよう!!」に注意を奪われていた。恐る恐る引き戸を開け一歩中に入る。
  10坪くらいの店内はコンクリートの三和土で、右側にカウンター(6席)左側はテーブル2卓8席。カウンター内部は広々スペースをとってあるし、テーブルはあと2卓ぐらい増やせそうだが、混み合うのを嫌っての配置だろうか。
  先客はおらず、70位に見える女将らしき女性が、テーブルで貼り紙を作成中だった。すぐに片付けて奥へ向かって声を掛けると、白髪でコック服を纏ったオヤジが笑顔で出て来る。
  ともかくカウンター席に坐り、焼酎の水割りを注文した。お通しに出された青菜漬けと蕪漬けをツマミに飲み始める。壁に貼られたお品書きから、烏賊納豆とブリのカマ焼きを注文した。
  すぐに供された烏賊納豆は、うづら卵の黄身を入れているのが珍しかった。ブリカマも10分ほどして出される。常連客らしいオバサンが一人で来店し、カウンターで定食を食べながら雑談している。オヤジ、女将共に話し好きのようだ。
  時々こちらにも会話が振られ、その結果判ったのはこの店を始めて1年経たないことや、その前は新宿歌舞伎町で営業していたことなどだ。ちなみにその頃は女将ではなく別の仕事をしていたらしい。しかし大病したことを契機に、彼女のふる里である米沢に戻ってきたとか。
  さらに詳しい話はこちらを
  ブリカマが片付いたところで湯豆腐を所望。これをツマミながらもう少し品揃えを増やしたくなり白子ポン酢も追加する。三連ちゃんに近くなってしまったが、お品書きから他を思いつかなかった。しかしこの時は知らなかったとはいえ、オヤジがそれなりに気合いの入った寿司職人だったから、寿司は糖質制限に触れるとしても、刺身くらいは頼むべきだったのかもしれない。ともかくこの白子ポン酢は堂道のものと甲乙つけがたかったから良しとしよう。
  盃を重ね水割り4杯と料理が片付き、この日も早目の終了。宿へ戻ったのは7時ちょっと前だった。
 13.山形 土佐
    翌朝は小雪の舞う、どんよりした天気だった。10時40分の列車を利用するから、朝食後は部屋で朝日デジタルを読んで時間を潰す。新聞は紙で読む方を好むので、家ではもちろん旅先でもコンビニエンスストアまで買いに行くことも多い。しかしこの朝はぬかるんだ雪が嫌でデジタル版で我慢した。
  10時が最終チェックアウト時刻なので、駅で無為に半時間ほどを過ごす。定刻に普通列車が米沢を発車した時はかなり混んでいたが、次の置賜(おきたま)で学生風が大量に降りると一両に数人しか残らなかった。
  車輌はロングシートも多いがボックスシートもあるので車窓風景を眺めながら行ったがあまり面白いものではなかった。
山形駅の改札で、「お城はどちら?」か訊くと西口だった。お城へ通じる道の半ばにある「台所家(だいどこや)たわら」には10分弱で着いた。引き戸を開けると先客は4人ほどで、カウンターには空席があった。坐る前に焼酎の水割りが飲めるか訊くと、昼はやっていないとの返事だ。
上:焼酎水割りのお通しと焼き魚定食の小鉢。中上:さごしの照り焼き。中下:スタンプカード。下:外観。
  実は旅立つ前に電話で焼酎が飲めるか確認していたが、昼夜まで考えなかったのは甘かったようだ。しかし問い合わせた時の応対が不愉快だったので、此処で食事することを躊躇する気持ちがあった。そんなことで反ってさっぱりした気分で店を出る。
  第2候補としていた「つばさ」は斜向かいにあった。しかし雰囲気が好みではない。云ってみれば和風ファミリーレストランごときで、酒飲みに向いていないような気がする。
  それよりも俵の隣にある土佐が気に入った。引き戸を開けて入ると、共に70代と思われるジイサン、バアサンが、「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。カウンターに2席と奥に座敷が有り2卓ぐらいあるようだ。「奥へどうぞ」と云われたが、座敷は腰が痛くなるので敬遠、焼酎が飲めることを確かめてカウンター席に坐った。
  カウンターに置かれたお品書きを見て焼き魚定食の魚を訊くと、サゴシの照り焼きだという。ご飯抜きにして焼酎の水割りも所望した。枝豆がお通しで付いてきたのでこれをツマミに飲み始める。
  先客はいなかったが時分どきなので次々客が訪れ、奥の座敷に上がって行く。カウンター席を選んだのは煩わされないことと、席をふさがずに済んだのと、二重に正解だったようだ。煙害の心配がないことも良い。
  夫婦で店をやっているのかと当初思ったが違うようで、それもバアサンの方は店に来て日が浅いようだ。ジイサンがあれこれ教えながら厨房をやっている。それでもあまり待たされず、焼き魚定食ご飯抜きが供された。
  水割り三杯を飲み12時半に切り上げる。仙台行き列車の発車時刻までは随分あるが、早目に切り上げたのは山形城址(現在は霞城公園)を見物するためだった。土佐からは3分で南門後まで行けたが、詰まらないところだった。
  城であったことを示すものは周囲に巡らされた堀だけで、平城だったので平坦で地形的変化がなく、さらに歴史的な建物も全くない。5分ほどで見極めが付き、踵を返した。
山寺駅から五大堂(画像中心付近)を見上げる。
  仙山線はその名の通り仙台と山形を結ぶ線だ。ちなみに両市は隣接しており、仙山線は両市域内だけを走っている。県庁所在地同士を連絡し、その域内だけを走るのは、全国でこの路線だけだ。
  数回利用しているが、いずれも山形から仙台へ向かった。そしていつも感じるのが、「こんなに乗客が少ないのに、なぜこんな大編成(定員273名の4両か6両編成)なのか?」である。理由は単純で仙台に入り愛子(あやし)駅あたりから都市化が進行し人口が急増した一方で、単線のため増発は困難だかららしい。
  閑話休題。山形市内を走っている間は雪も多いし、山寺や面白山高原などの景観も楽しめる。しかし仙山トンネルを抜けて仙台に入ると、一気に積雪量は減り、愛子あたりからは美しさに欠ける日本の新興住宅地になってしまう。
  
 14.フィナーレ 仙台居酒屋徘徊
   普通列車の仙台到着は3時13分だった。東横INN仙台東口2号館にチェックインし、シャワーを浴びてからメールなどチェックしていると、4時を少し回った頃Oさん(八戸のOさんとは別人)から電話があった。「ステンドグラス前で待ち合わせましょう。」とのことだ。
仙台朝市風景。通称は朝市だが実際の商売は昼から夕方の店が多いらしい。

  東京ならばハチ公前に匹敵するような、待ち合わせに判りやすく間違いのない場所らしいが、仙台の土地勘がないからさっぱり判らない。しかしそこは携帯電話のありがたいところで、何回かナビゲートして貰い落ち合うことが出来た。
  時刻はまだ4時半にもなっていない。この時刻から飲める店もあるけれど、あまり早くから出来上がってしまうのもフィナーレに相応しくない。そんなことでOさんが朝市見物を提案した。
  駅から東へ2、3百メートルのところに有り、戦後の闇市に端を発するらしい。道路に面した店と、低層ビルの1階にも軒を並べ、青森のアウガなどと似た雰囲気もある。旅先で市場を覗くのは好きだから良いが、あれこれ買いたくなり実現できないことが欲求不満を引き起こす。なるべくあっさり眺めることにした。
  ざっと朝市見物が終わり、のんびりした足取りで文化横丁へ向かう。これまで度々書いたことだが、仙台はなぜか横丁文化が今なお残り、その質と量ではおそらく日本一だと思う。その横丁群の中でも一級といえるのが文化横丁だ。この横丁にある居酒屋源氏で今日のスタートを切るつもりだ。
源氏の店内。画像中央は燗付け器。
  仙台に数ある居酒屋の中でも特に名高い源氏だ。そして私の見るところ、高評価の源泉となっているのは女将だろう。年は多分70過ぎで、愛想っけは全くないし、常連客と話し込んでいる姿を見かけたこともない。
  しかしいつも和服に白い割烹着で物静かに立ち働いている彼女の凛とした佇まいが、この場の雰囲気を引き締め、飲む場所で有りながらいつも物静かな状態が保たれている。
  ところがこの女将が引退するかもしれないという情報が、昨年の11月にOさんを通じてもたらされた。それも単なる噂ではなく信頼すべき筋からだ。要約すれば、「70を過ぎ店を切り盛りするのはしんどい。趣味である琵琶ももっと極めたい。」ので辞めるために後継者を探しているようなのだ。後継者が見付かるまでは彼女が続けるようだが、逆に云えば期限なしにいつでも引退する可能性があるわけだ。源氏をスタートとしたのはこのようないきさつからだった。
源氏の玄関。
  源氏へ通じる路地に辿り着いたのは開店時刻の数分前だった。しかしどうやら開店を待っているらしいオヤジが3人も所在なさそうに佇んでいる。結局5時を数分過ぎて入店できたが、それから10分ほどで22席の店内はほぼ満員になってしまった。引退の噂が世間に拡がっているのだろうか?
  店内はコの字型のカウンターにベンチシートで、テーブル席や小上がりはない。Oさんと共に端の方に坐る。中で働くのは女将一人で、奥の厨房では息子が調理などを担当しているという話だ。どっと訪れた客に女将一人が忙しげに立ち働く。
  ようやく少し彼女の動きが止まったので、飲み物を注文した。Oさんは生ビール、私は焼酎はないので酒。ちなみに、「常温冷や。」と注文するのが常日頃だが、源氏では燗、常温、冷やに分けていた。
  1時間ちょっとで三杯飲み干し、一杯ごとに付いてくるツマミも食べ終わった。この間に立ち去った客もいたが、新たな入店者や酒やツマミの注文も有り、女将は休むどころか席に着く暇さえない。店を出てからOさんと二人で、「あれではますます辞めたくなってしまうだろうなぁ。」と同情することしきりだった。  
みらいの店内。
  源氏を出て、同じ文化横丁にあるみらいへ入る。先ほど時間潰しに近辺を歩いていた時、店の外観に雰囲気があり惹かれたところだ。以前は未知の店をこまめに探訪していたOさんも、最近は出歩くことが減り、この店も知らなかったそうだ。
  店内にはカウンターだけで、此処もベンチシートだった。先客はなく60がらみのオヤジがカウンターの中で暇そうにしていた。私は焼酎水割り、Oさんはビールで始める。
  お品書きは黒板に白墨であれこれ書いてある。かなり長期間そのままなのか文字がかすれているものもあった。ほうれん草お浸しと卵焼きを貰う。
  2階もあって宴会など出来るそうだ。この界隈の横丁はほとんどが売春防止法施行以前の赤線・青線でちょんの間だったところが、ほとんど建物の構造を変えずに現在に至っているようで、2階のある店が多い。しかし源氏は元々米蔵だった建物を改造したとかで、したがって2階はない。
  ちなみに店の名前であるみらいだが未来ではなく、標準語で「(〜して)みなさい」を、宮城の方言で「(〜して)みらい」とか「(〜して)みらいん」というらしい。
上:壱番茶屋。下:二代目のコロッケ。
  後から訪れる客もないまま、のんびり1時間ほど飲んで河岸を変える。次ぎに行ったのはOさんが以前から贔屓にし、私も2006年を皮切りに何回か訪ねたことのある壱番茶屋へ。店は一番町に有り、文化横丁からは徒歩10分ほどだ。
  壱番茶屋に着いたのは7時半頃だが先客はいなかった。古い馴染みのOさんが店をやっている夫婦と久闊を叙した後、突然、「今月いっぱいで店を閉めます。」と告げられた。Oさんがその理由を訊かなかったので想像するしかないが、この時間で客もいないから商売として厳しいということかもしれない。
  一時間ほど飲んで4軒目へ移動。此処でも1時間ほど飲んでから、文化横丁そばの壱弍参横丁へ戻り、居酒屋二代目へ。時刻は既に10時なので此処を最後とする。飲み始めて小腹が空いていると気づき、コロッケをツマミに数杯。この店は壱番茶屋の息子が夫婦でやっている。それで二代目と命名したのかは良く判らない。
  二代目を出たのは11時近かった。付近でタクシーを拾い、Oさんが東横インまで送ってくれた。すっかりお世話になってしまった。それにしても久しぶりの梯子酒でしたたかに痛飲したものだ。
 ―― 雪見酒紀行2015 完 ――
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