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5.早立ち
  
22日の水曜日、目覚ましはセットしなかったが、3時に起床した。ざっと身支度して、駅前のローソンに弁当を買いにでる。ところが玄関の自動ドアはロックされ表へ出ることができない。昨年、この時刻の出入りに問題がなかったので油断していたが、エレベーターに「門限は12時」の貼り紙を見て「早出することを事前に通告すべきか?」と考えながら、実行しなかったことが悔やまれる。
  朝飯を抜くことはさしたる問題ではない。しかし5時出発の予定が7時などに遅れてしまえば、今日目指す民宿岡田に着くのは午後7時を回ってしまう。これでも宿泊はでき、食事も可能であろう。しかし、酒を飲みながら、食卓を囲んで、オヤジさんを始め同宿の面々と会話することがこの旅の、云ってみればメインテーマだから7時を過ぎての駆け込みでは無惨に過ぎる。
  フロントを見たが、呼び出し用のインターホンなどは見当たらない。3階の部屋へ戻り、内線電話からフロントを呼び出した。家族経営の当ホテルでは、同じ建物内に居住しているように見受けられ、それに望みを託したのだ。
  15回ほど呼び出し音が鳴り、ようやく反応があった、チェックイン時にフロントにいた老人らしい。深夜に叩き起こしたことを詫びつつ、弁当を買いに外出したいことと、5時にはここを発つ予定でいることを説明した。簡単に話がつき、ホッとする。
  ローソン弁当をゆっくり食べながら、今日歩くところを地図上で吟味してゆく。5年前には、これから始まる長い道筋を、迷ったりせず進むための、重要な「儀式」だったが、今日の五十数キロは、既に五回通過し、昨年もまた辿っているだけに、 ポイントはほとんど脳裏に残っている。
  4時40分に宿を出る。この日の日の出は、5時22分で、通常ならば夜道を避けて5時ころが出発の目安だが、今日のコースは最初の半時間くらいが国道歩きになるため、幾分早めにした。その分、岡田民宿に早く着き、オヤジさん達と話ができればとの期待があった。
  予讃線を踏切で渡り、しばらく行くと国道11号線に突き当たり、これを東へ進む。宿を出てから半時間ほどで、右へ分岐して行く道があり、おそらく旧道と思われるこれを辿って間もなく遍路道に合流した。
  強くないものの、風を冷たく感じる。寒さ対策はさほどしていないので、カッターシャツの上は生地の薄いパーカ一枚だ。気温を見ると、18℃だった。これ以上防寒しようとすれば、レインスーツを着込むことになるが、我慢している内に朝日も射し、こうなると寒さは急速に和らいだ。
  遍路道歩きはあまり続かず、再び国道を歩かされる。しかし、早朝のためか交通量は少なく、路肩や歩道に充分スペースがあるため、車輌往来による不快さに悩まされることもない。
  しばらくして再び旧道が別れる。中萩の街というか、商店と住宅が相半ばするような通で、早朝のため人通りはない。ほとんど平坦なところが続き、歩きやすくはあるが景観などには恵まれず、退屈きわまりない。ひたすら我慢し、地図の上で距離が確実に延びてゆくのを確認しながら、「今日の道程の四分の一、三分の一. . . .」を励みにする。
  伊予土居駅付近で突然遍路姿を見かけたが、バスによる団体遍路が沿道にある番外12番延命寺に立ち寄るところらしい。歩き遍路ならば、一言挨拶を交わすだけでも、士気恢復になるが、車の団体ではサッパリだ。幸い挨拶するほど接近することもなく前方を横切ってくれた。
  土井には03年10月に投宿した蔦廼屋旅館が遍路道沿いにあり、一抹の懐かしさと共に眺めるが、朝立ちの客は去り、ひっそりと静まりかえっていた。この宿は食堂兼居酒屋もやっているのだが、10時前では早過ぎる。
  以後も単調な歩きを続け、11時近くに遍路道を逸れて国道11号を行く。昼飯・昼酒のためだ。一昨年利用した回転寿司は、昨年よってみると、酒を出さなくなっている。経営者が替わったそうだ。今回は開店前で、と思っていたら、丁度通り過ぎるときに従業員が幟を立て始めた。しかし交通量の多い国道を渡って、相変わらず酒なしでは詰まらないので、そのまま通過。
  結局、三島の場末で国道沿いにあるガストに入る。昨年に続く利用だ。回転寿司やガストを利用することなどまずないが、食事時間を惜しむときには有り難い。何しろ待たされずにすぐ飲食できる。その上ガストには禁煙席も設けられ、自ずと評価が高まった。

6.三角寺

 三角寺大師堂。
 

半時間でイタリアン風の定食と酒三杯を飲み下し、再び歩き始める。 遍路道に戻ろうとして間違えた。土地の人に尋ねると「一本下の道. . . .」と教えてくれた。せっかく登った坂を下るのは、いささかながら業腹で、地図から先を読めば、このまま水平に移動してゆけば、遍路道の方が合流してくるようだ。松山自動車道路が格好の目印になり、迷うこともあるまい。
  この判断は正解で、半時間ほどして遍路道の道標に行き当たった。自動車道路をくぐると、三島公園があり、しばらくすると急な上り坂が始まる。舗装された農道から、やがて山道が分岐していた。
  デイパックを背負ったオヤジがくだってくるのと擦れ違い、挨拶を交わす。数分で同年代のオバサンと行き会い「すれ違った人がいないか?」訊かれた。どうやら夫婦らしく、ここのちょっと上で、山道への分岐を見落とし、農道を下ってしまったらしい。車を麓にでも停めて、三角寺を往復しているのだろうか。
  その後は人に会うこともないまま、見覚えのある舗装道路に出、さらに10分で三角寺の山門へ繋がる石段が見えてきた。境内には車遍路らしい姿が二人いるだけだった。

 三角寺からの下りで川之江町方面を眺める。棚田が美しい。
 

三角寺から民宿岡田までは14.2キロで、時刻は2時だから、時速5キロで進めば、5時前に着くことができる。とは云っても、常福寺(椿堂)までの6キロは緩い下り坂だから良いとして、それからは登りが続き、最後に境目峠越えが残っている。気を引き締めて前進を開始した。
  舗装は良い状態を保っているが、交通量は至って少ない。人家はほとんどないし、三星ゴルフ場が倒産してからは 、山菜かキノコ取りぐらいしか訪れる動機もないだろう。静かな道を下ってゆくと、時折樹林の間から垣間見える、川之江方面の景観が美しい。

7.境目峠
  平山で県道五号線に突き当たる。せとうちバスの路線でもあり、一日四本だけなれど、川之江駅などに繋がっている。しかし遍路道は県道を横切り、横川方面へ続いている。周辺は田畑になり、人家も散見されるが、相変わらず交通量は少ない。
  高知自動車道の下をくぐって間もなく、急な坂を下ると椿堂だ。ここは番外霊場廿番札所の一つで、三角寺から雲辺寺へ向かう遍路道の路傍にあるため、歩き遍路をはじめ訪れる人は多いらしい。八十八カ所番寺の方では、その御威光を暈に横柄な態度を取るところも多くあると見聞きするが、この椿堂は良い評判ばかりだ。興味を惹かれたので覗いてみようかと思ったが、狭い境内に対し、参拝者が多かったので止めにする。巡礼ならぬ野次馬なのだから。
  椿堂のすぐ下を金生きんせい川が流れ 、橋を渡ればすぐに国道192号線だ。この国道を川沿いに上流へ向かう。歩道も含め、道幅は広くないものの、交通量がさほどではないのが救いだ。両側から斜面が迫り、視界は狭く、かといって渓谷美とは無縁なところを、ひたすら耐えて歩く。
  地図を見る回数がやたら多くなるのは、現在位置を確認する必要からではなく、この退屈な部分を歩かされるのが、どれだけ減っているかを認識して、歩く志気をいくらかでも鼓舞しようとしているのだ。
  境目峠が近くなって、前方に白衣の遍路姿が見えた。有り難い。
  「後ろ姿を目標」にするほどもなく、すぐに追い着いてしまう。六十代後半の男性遍路は、疲れているのか歩取りが重い。並んだときに声をかけた。「この時間だと、岡田さんにお泊まりですか?」。近辺に他の宿はないから訊くまでもないことで、頷くのを、「お先に失礼します。後ほど宿で」と追い越した。
  100メートルほど先を、同じような年格好の遍路が、やはり脚を引き摺るようにして歩いていた。挨拶をして追い抜き、しばらく行くと国道と境目峠への分岐点にでた。道標が若干見難いこともあり、余計なお世話かもしれないが「あの二人に一言」と振り返ってみたが、姿が見えない。遅い歩みでも着実に前進していればさほど時間はかからないだろう。しかし休憩などしていれば、どれだけ待たされるか判らない。境目峠へ行けなくても、国道を辿っていれば迷うことなく岡田民宿には到達できるから、そのまま峠へ続く山道 (旧道)を登り始めた。
  旧道を行けば、標高差が100メートル、歩行距離も200メートルほど多くなるけれど、トンネルを通らずに済む。855メートルの境目トンネルは、一応歩道も整備されているものの、排気ガスに包まれて、大型自動車の威圧するような轟音を堪え忍んで行くよりも、どれほど快適なことか。しかし意外にトンネルを利用する人も多い。一日歩き続け疲労がピークに達しているためか、はたまた、旧道への分岐を示す道標が判りづらいためだろうか。
  一応舗装されている旧道から、さらに杣道に近い旧々道に別れるところには、岡田さんの手造り道標がある。一昨年はこれに@、A、Bで行き先が表示され、意味が判らず間違えた。昨年からは左を指す矢印に「民宿岡田」と書かれ、判りやすくなった。ちなみに@. . . はへんろみち保存協会の地図で使用しているものだった。
  杣道も、所々かつての舗装が垣間見える。伊予と阿波を結ぶ国道として使用されたこともあるのだろうか。登りの傾斜が緩くなると間もなく、舗装されて旧道に合流する。200メートルほどで境目峠を越え、緩い下り坂になった。視界が開け、吉野川の支流である、馬路川のなだらかな谷が直線状に延びている。10分ほどくだると、トンネルを抜けてきた国道が左下20メートルぐらいのところに見え、先ほどの六十代後半男性遍路が二人で、なにか励まし合うようにして歩いている。
  旧道が国道と合流するころには、足取りの重い彼等二人の姿は、遙か彼方になっていたが、宿までは緩い下りを1キロちょっとだから、心配する必要もないだろう。 この日の道程57キロは無事終わり、民宿岡田に到着した。

8.岡田さんの艶聞
  民宿岡田の門口近くで、岡田さんが迎えてくれる。 お年は八十くらいのはずだが、矍鑠たるもので、身軽に動き回って遍路達の世話を焼きつつ、分け隔て無く談笑して旅人の心を和ませる。
  実は5年前にお会いするまで、漠然と狷介な老人を想像し、若干臆するところがあった。電話で予約をするときに、前神寺そばの湯之谷温泉から約60キロを歩くつもりと告げて、強硬に無理であると云われたのが影響したかもしれない。ちなみに「無理」と云うのは常識的な助言ではあった。ともかく無事60キロを歩いて到着し てみると、厳めしい顔を瞬時にほころばせ、暖かく歓迎してくれた。これだけで臆する気持ちなど瞬時に霧散した のだった。
  6時から、心待ちにしていたこの宿での夕食が始まる。元は台所であったのか、流しのある6畳間(?)は、食卓を挟んだ泊まり客九人と、接待をしてくれる二人が入ると過密状態と云って良い。通常ならば欠点となるはずなのに、ここでは逆に、初対面がほとんどの間柄でありながら、短時間にうち解け あえる力となっている。
  冷や酒を所望する。通常ならば「面倒なので」五杯一気に並べてもらうのだが、5年前にオヤジさんから「そんなに急がんでも空になったらちゃんと注いでやるから」とのお叱りを受けたこともあり、一杯ずつ頂く。実際過密状態の食堂では、食卓に五杯並べるほどのスペースもないのだ。
  いつものように、客同士、そしてオヤジさんを交えて遍路話に花が咲く。この宿に泊まるのは九回目という人もいる。先ほど部屋から「民宿岡田専用駐車場」の看板が目にとまり、気になっていたので訊いてみた。かつては此処の利用者は土木工事など に携わる業者で、長期滞在が多かったらしい。それが1998年にNHKが教育テレビで4日間に亘り遍路道を紹介して以降、歩き遍路が急増し、ついに仕事関係の人達は長年の馴染みを除き、断るようになったとか。
  オヤジさんがお連れ合いに先立たれて何年になるかが話しのきっかけだった。10年近く前に寡男となり、その後一人で2006年までお遍路さんの世話をしていると、その間に(詳細は聞き漏らしたが)住み込みで民宿経営を学びたいと望んだ女性がいたそうだ。
  それを断ったと聞いて、隣のオバサンが「アラ嫌だ、それ、プロポーズじゃないですか!」と華やいだ声をあげる。岡田さんは返答を避けながらも、顔付きはまんざらでもない。ポツリと「中々美人だった。今は(どこそこで)民宿をやっている」と呟く。
  その後もあれこれ談話は盛り上がり、一時間はあっという間に過ぎた。それでも酒五杯を飲み下し、ご飯を頂いて供された皿は全て綺麗に平らげる。勘定を済ませ、お接待の握り飯をお願いして、就寝すると、窓から静かに聞こえる馬路川のせせらぎが一日の終わりにふさわしい、落ち着いた心地にしてくれた。

「9.雲辺寺」へ