八十八カ所つまみ食い紀行伊予編

***目次***
1.前書き
※地図
2.鉄道事故
3.久万
4.岩屋寺
5.千本峠越え

6.失速(墜落?)
7.駅前食堂

8.民宿岡田
9.善通寺へ
10.ウィニングラン
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1.前書き

  3年前の3月から4月にかけて八十八カ所を通して歩いた。それなりに完璧を期して準備したつもりだったが、実際に歩いてみると何かと不満が残った。しかしもう一度、通しで歩く気力は今までのところ湧き上がらない。そんなことで部分的に歩き直したのが昨年の「スポーツ88カ所つまみ食い紀行」であり今回の紀行 、内子うちこから坂出も同様である。昨年の一番大きな違いは、思わぬ故障により、不満 を解消どころか増やして旅が終わったことだ。

2.鉄道事故

  4月20日夜、東京駅近辺で軽く晩酌し、さらに個室B寝台でじっくり飲む。いつものことながら、飲み終わった頃のことは覚えていない。ともかく気持ちよく目覚めた。岡山で寝台車を降り、松山行き特急が 来るまでの待ち時間を利用して、 駅ビルのコンビニエンスストアで弁当とカップ酒3杯を調達した。
  この時点では、車内で朝飯・朝酒にするか、歩き始めてから昼飯・昼酒にするか迷っていた。記憶に残るコースを思い浮かべ、適当な食事場所もなさそうなので、結局坂出を過ぎて間もなく朝飯・朝酒。結果的にはこれが良かった。
  今治までは順調に進行したものの、ここで列車がストップしてしまう。最初流れた車内放送では「踏切に置き石。安全確認中」だったが、これは誤りで「踏切死傷事故。対応に時間がかかるため、この列車の運行は取りやめ」と、修正された。
  ともかく松山へ行かなければ旅は始まらない。駅前広場のタクシーに料金を訊くと、一万円程度らしい。「八千円でいい」という運転手もいるが、それでも高い。一人で行くのは馬鹿馬鹿しいので(法令違反ではあるが)同行者を募った。幸いすぐに五十代で和装の婦人が松山県民会館まで、三十代の女性が松山駅まで同行することになる。
  気は急くもののじたばたしても仕方ないので、一時間弱のドライブを楽しむ。高曇りで長閑な風景の中、初対面の(運転手を含む)四人旅は、のんびりした会話と共に楽しく進行した。県民会館前でそこまでのメーターの三分の一を預けて和装女性が降りる。松山駅前で精算すると3,880円が負担分となった。

3.久万

  当初予定列車より、一時間遅れの宇和島行き宇和海7号に何とか間に合う。内子に着いたのは11時40分だった。 特急券の払い戻しを請求すると、2,310円が戻ってきた。タクシーの負担は予想以外に少なくて助かった。支度を整え11時50分に出発。今回はアウトドア用GPS(グローバル・ポジショニング・システム :全地球測位システム)を初めて使用するのでそれの初期化も。使い方がまだ良く判らないため、複雑な操作はし(でき)ない。
  内子から今日の宿、久万くま にある民宿笛ヶ滝までは32キロある。午後7時まで明るいとしても、出発が一時間遅れたのは、行程を窮屈なものにしている。途中、昼飯に時間を割かずに済むのは幸いだった。道筋は分かり易いし、3年前の記憶もあり、快調に進む。
  しかし四時間ほど歩いて、落合のトンネル出口で道を間違えてしまった。不運がいくつか重なったためだ。GPSのログ画面を撮影しようと、神経がそちらに割かれていたため、地図と現況のチェックが甘くなった上、前方を歩いていた遍路姿の四人が、遍路道をそれて、(宿へ行くために?)総津の方へ向かったのに追従してしまった。すぐに彼等を追い越し、分岐から500メートルほどのところで間違いに気付いた。

 鶸田ひわだ
 

直ちに踵を返し、決まり悪い思いをしつつ、彼等と擦れ違うときに、「道を間違えました」と自己申告する。このあとは慎重さをましたことと、ほとんど分岐のない一本道で、畝々うねうね から傾斜を強めた道を一気に登ると、この日最初の峠、下坂場峠を越えた。
  峠を下る途中で5時を廻り、民宿笛ヶ滝に電話をする。遅くなるため、余計な心配をかけたくなかったためだ。女将は「懐中電灯はお持ちですか?」と気遣ってくれる。準備に抜かりがないことと、7時頃(薄暗い程度のうちに)着けるつもりでいることを伝えた。
  下坂場峠の山道から、いったん宮成の集落に出て、再び山へ分け入る。5時14分に鶸田ひわだ峠遍路道の道標があり 、ここから未舗装の旧道を峠まで登る。峠で迂回してきた車道と合流し、一気に標高差300メートルを旧道(未舗装道路)主体で下ると久万町に到着した。
  宿の筋向かいにある生協のスーパーマーケットへ直行。明朝の食料を確保するためだ。閉店間近のため、弁当類には半額などのシールが貼られている。 太巻き寿司、カボチャコロッケ、小松菜の和え物、牛乳500ccパックなど購入。宿に着いたときは7時丁度だった。慌ただしく汗を洗い流し、冷や酒の晩酌七杯(五合程度?)を済ませて就寝する。

4.岩屋寺

  4月22日、目覚ましもセットしなかったが、3時に起床する。昨夕買い込んだ太巻き寿司などを食べながら、今日歩く松山までの道筋を、地図上で追う。国土地理院の二万五千分の一地図をインターネットからダウンロードし、A4の用紙に印刷したものだ。
  自宅でへんろみち保存協力会の地図帳と照らし合わせ、ルートは既にマーキングしてあるけれど、あらためて地形を見ながら、距離と、この日歩く累積距離を書き込んでゆく。直前の予習であり、一日歩き通す決意を強固なものにする儀式(?)でもある。地図は10枚に渡り、累積距離は53キロになった。
  5時に宿を出る。曇り空で薄暗いけれど、歩くのに明かりの必要はない。ちなみにこの日の日昇時刻は5時21分だ。徒歩15分で四十四番札所、大宝寺に着く。薄暗い境内にはひと気がなく静寂が支配していた。

 河合付近から東方を眺める。5時58分。
 
 岩屋寺。
 

団体の参拝者が、傍若無人に花木魚などを鳴らしているのは大嫌いで、それとは対極の状況はありがたい。参拝者でもないのに僭越な感想かもしれないけれど。
  大宝寺の裏山を越え、岩屋寺へと繋がる舗装道路へ出る。河合の集落へ下る辺りで、完全に夜が明ける。低い位置に雲や霞が多く、天候の悪化を告げていた長期予報を裏付けているようだ。
  狩場の集落を過ぎ間もなく本格的な山道になり、八丁坂で一気に200メートルほどの標高差を登った。
  樹林帯の中ではGPSは電波が枝葉に遮られるため、空が透けて見えるところでも、位置を把握することができない。しかし高度計の方は、衛星情報と気圧情報が相互補完するらしく、常に適当な数値を示してくれた。喘ぎつつ登っているときは、位置情報よりも「後何メートル登れば良いのか」判る方が励みになる。
  尾根筋に出ると、農祖のうその峠 からの道が合流する。しばらくは緩やかなアップダウンが連続し、最後に葛籠折れの急坂を下ると岩屋寺だ。急斜面に貼り付いて堂宇が散在している。岩屋もあるらしいが、全体としても岩屋寺の名にふさわしい。
  大師堂の前に人影はなく、本堂でも参拝者の老人が一人静かに経文を唱えているだけであった。ここから駐車場のあるところまでさらに150メートル近い標高差がある。一気に下ってゆくと、団体バスでも到着したのか、多くの参拝者とすれ違った。歩き慣れていない人が多いのか、喘ぎながら登ってゆく。

5.千本峠越え

 千本峠を越え菅生すごう方面を望む。
 

来た道をそのまま戻るのも芸がないし、楽をしたい気持ちも手伝い、県道を河合へ向かう。幅の広い道路だけれど、交通量は至って少なかった。
  河合から山道へ分け入る。千本峠直前で、中年の遍路姿に追いついた。挨拶もそこそこに「この道で間違いないでしょうか?」と訊かれる。彼の予想以上に上りが続くことで不安になり、ほとんど間違えたことを確信している。
  こちらとしては分かり易い道を辿ってきたし、最後の道標を過ぎてから、分岐を見逃したとも思えない。GPSは現在の位置を教えてくれるのに、それを活用できないのは若干残念で、もう少し勉強が必要だ。ともかく引き返す気にはならず、万一間違えていたとしても、そこから本来のルートに合流するにはGPSが役立つはずと思えば気が楽だ。
  足取りの遅い彼と先頭を替わり、僅かばかり行くと人家が見え、すぐに道標代わりの「遍路道」札も発見。ルートを外れてはいないことが確認できた。しかし彼は「間違えた」と云いながら、地図などで状況を確認するわけでもない。一番札所から(区切りにせよ通しにせよ)歩いてきたならば、既に800キロ以上の経験を積んでいることになるけれど、道標や遍路札だけで何とかこなしてきたのだろうか。他人事ながら未知の山路を行く基本が全く違っているようだ。
  千本峠から半時間ほどで国道に合流し、その少し前から雨が降り出す。幸い風がほとんどないので、折りたたみ傘とザックカバーだけで対処できた。つまらない国道歩きはひたすら耐えるのみ。三坂峠の手前2キロのところにある、国道付帯の休憩所(駐車スペース、トイレ、四阿)で、朝、残した太巻き寿司と、カボチャコロッケを食べる。このコースは適当なところに食堂がない。

 
 西林寺。
 

軽食後に再び徒歩行を再開する。三坂峠を越えると国道を離れ、旧土佐街道を下る。車の騒音と排気ガスから解放されほっとした。
  松山市郊外の住宅地帯に入り、三年前にはなかった(はずの)食堂を発見、食料品店が一部をそのスペースに充て、紺色の暖簾が翻っている。軽食のお陰で、空腹はさしたることもないけれど、自ら課したハードル「昼酒三杯」が、昨日今日、果たせずにいる。
  そんなことで引き戸を開けおとないを告げ、酒の有無を尋ねた。ビールしか置いてないとの話に、僅かばかりがっかりもするが、妥当なところに落ち着いたと納得し先を急いだ。
  松山近辺は札所が多い。1時40分、浄瑠璃寺到着を皮切りに、八坂寺、西林寺、浄土寺、繁多寺、石出寺を二時間半ほどの間に訪れた。 拝まないから早いけれど、巡礼として本堂と大師堂で経文を唱え、さらに納経所で納経帳に印など貰っていれば、少なくとも一時間はそれに費やされていたであろう。
  石出寺を過ぎ、雨が降り続く中、そのまま道後温泉市街に入り、有名な道後温泉本館から500メートル先の交差点で歩き止めにする。後はタクシーを利用して、この日の宿、東横インまで移動。
  2キロほどの移動距離は、体力的にも、時刻的にも充分歩けるものだった。しかし間が抜けたことに宿の所在が(電話で確かめる手段があったものの)判らなかった。間抜けさに輪をかけたのは、所在がGPSに記録されているにもかかわらず、そこへナビゲートさせる操作方法が判らなかったことだ。これも考えてみれば、疲労により気力が低下していた証かもしれない。
   部屋に入り、雨に濡れたものをそれぞれ始末し、ざっとシャワーを浴びる。靴は内部までびしょ濡れになっていたが、備え付けのドライヤーのスイッチをゴム紐で固定し、しばらく靴の中に向けて熱風を送り続けると、不快感無しに履けるようになった。ほとんど雨の上がった松山の街に食事に出かける。
  フロントで近辺にあるお奨め居酒屋を訊くと、徒歩2分のところにあるEを教えられる。近いのが何よりで、あまり考えることもなくそこへ入った。途端に選択を間違えたと感じる。店の規模が大きすぎる(いま調べると110席)し、客が来るたびに若い従業員(しかいない)が、一斉に「いらっしゃいませ」を叫ぶのもうるさい。しかし「入った以上は」と、三杯飲むことにしてカウンター席に坐ると、冷や酒を注文する。
  接客やメニューに気遣いは感じられるものの、要するに肌が合わない、二品のツマミで三杯飲んで席を立った。カウンター内に立っていた若い店長(?)が東横インに泊まっているか尋ねる。その場合は500円割引になるとのことで、支払ったのは1,330円だった。
  割引があるにせよ安すぎる。これを書きながら改めてレシートを見直すと、なんたるや、酒二杯が抜け落ちていた。 意図した結果ではないが、飲み逃げ まがいは面白くない。店が開くのを待ち、電話すると、たまたま受けたのはあの日カウンターで接客してくれた店長風だった。こちらのことはそれなりに記憶に残っていたらしく、話は通じる。「銀行振り込みするから口座番号などを教えてくれ」と申し出たが、「そこまでせずとも、今度ご来店の際にお支払い下さい」で押し切られてしまった。1,260円が借金となる。

6.失速(墜落?)

 太山寺山門
 

4月23日は曇り空ながら、風もない穏やかな朝だった。5時にチェックアウトし、タクシーで前日到達点まで戻る。支度を調え歩き出したのは5時10分だった。曇っているせいか薄暗いため、分かり易い道を選ぶ。市街中心部を抜けた頃には、すっかり明け放っていた。
  松山郊外の太山寺、円明寺を過ぎると次の札所までは35キロほどある。拝まないから関係ないようなものだが、この間の道筋が単調なため、歩いていて退屈する。
  時分どきが近づき、海沿いのドライブイン海賊うどんがあった。3年前の記憶からすると、この先、菊川を過ぎたところにラーメン屋が一軒あるだけで、それを過ぎるとまた昼飯抜きになる可能性が高い。安全側を選択し、海賊うどんへ寄った。
  ところが引き戸を開けて酒が飲めるか尋ねると、七十ちかいオヤジは極端に不機嫌な顔のまま言下に否定するのだった。酒に恨みでもあるのか。
  記憶と異なりさらに二軒ドライブインがあったものの、ビールだけ、酒類なし、でどちらもパス。しかし菊川の街中で、旧道を辿ろうと国道から分岐したところで一軒の大衆食堂を見付けた。以前にも気付いていたが、お好み焼きの幟を見て敬遠した店だ。今回見直すと典型的な大衆食堂、これならばと暖簾をくぐる。
  機嫌の悪そうな顔をしたオヤジが一人でやっており、先客はいない。冷や酒と野菜炒めを頼む。顔つきは単に地顔と云うことらしく、愛想は良かった。店の片隅にオデン鍋を見付け、これを繋ぎに飲み始める。間もなくできあがった野菜炒めは、材料の種類、質ともに水準以上で、おまけに日頃減塩食に精進するものにとっては禁断の濃厚味付けが蠱惑的であった。
  半時間で昼飯・昼酒を済ませ、先へ進む。街外れにあるはずと思った件のラーメン屋、ついに発見できなかった。狐につままれたような気分になる。
  単調な道を堪え忍ぶこと二時間以上、今治郊外に入ったところで、オヤジ遍路に追いつく。今朝は円明寺前の民宿上松からで、南光坊まで行くとかで、「今日は歩き過ぎです」と云った。延長40キロくらいであろうか。

 
 
 

 
 南光坊。
 

 仙遊寺本堂。
 

彼と別れて間もなく延命寺、さらに40分ほどを要して南光坊に着いたときは4時近くになっていた。今日の宿までは12キロを残している。大師堂に挨拶し、本堂は団体がいたので敬遠、写真を一枚撮ると先を急いだ。
  泰山寺から永福寺へ廻り、いよいよ仙遊寺への登りが始まる。標高差は200メートルで、時間に換算すれば(速くて)20分。これに水平移動距離2.4キロと現在時刻を合わせると、到着は早くて5時54分になる。3年前より若干ペースが落ちているのは、加齢による衰えゆえか。
  感傷はさておき、ラストスパートの気分で、しかし宿までの距離12キロを考え無理をせず急ぐ。犬塚池の脇を通る野道を抜けると、舗装道路に合流し、急な登りで視界がグングン拡がる。黄昏の光を浴びる今治と瀬戸内海だが、ゆっくり眺めるだけの心理的余裕がない。
  最後は石段となり、これを60メートルほど登るとようやく仙遊寺境内に出た。5時53分で、参拝客の姿はない。正直なところ、6時前には着かないと思っていたから、 残り4キロを歩くのに随分励みになった。 本堂、大師堂と巡り、写真を二枚撮っただけで踵を返す。
  石段の始まりまでは同じルートを戻り、そこから山徑を南東方向へ下る。GPSの操作にも幾分慣れ、樹林帯を降下中は標高を、麓の舗装道路へ出てからは地図で現在状況を把握する。
  疲労による精神の弛緩か、あるいは登りでの成果に過剰に高揚したためか、急な斜面を乱暴に(足をいたわることなく)下ったせいで、前日に発生していた右足裏の肉刺を酷く傷めてしまった。降下中は何故か痛まなかったものが、平坦地を歩くと強烈に感じられる。
  ともかくこれ以上悪化させないため、応急手当をした。路傍の石に腰を下ろしテーピングのために靴を脱ぐ。靴紐をゆるめると、血流が増えたためか、痛みが足先で爆発する。ともかく幅広絆創膏で肉刺の部分を固定した。
  再び靴紐を締め上げると、痛むものの何とか跛を引かないで歩ける。バイパス沿いにあるローソンで明朝のための弁当と飲み物を買い、宿に着いたときは7時になっていた。GPSの示す歩行距離は64キロになっていた。
  シャワーを浴びてから肉刺の状態を調べる。直径は2センチほどの円形で、足裏を床に着けているとさほど痛まない。しかし脚を持ち上げると激痛が襲い、思わずうめき声が出る。
  ともかくスリッパを履いてゆっくり歩く分には、見苦しいことにもならないので、宿の食堂へ晩飯・晩酌に降りた。
  宿泊したホテル・コスモオサムは温泉や、サウナ、カラオケルームなどもある複合施設で、宿泊者は温泉、サウナを無料で利用できる。勿論そんなものは使わないが、レストラン銀河に浴衣で行けるのは、この際有り難かった。(公称)二合徳利を四本に餃子、ツクネ、冷や奴で4,330円。酒が割高だが、ツマミは安くそして不味かった。

翌朝3時に目を覚ます。足裏に痛みはなかったが、試しに立ち上がってみると、昨夕同様、足裏が床から離れる瞬間に激痛が走る。この状態で横峰寺を通過して西条までの56キロは無理だろう。とりあえず出発を遅らせることにしてベッドに戻った。
  浅い眠りから覚めるたびに「何とか当初の予定コースを行けないか?」の気持ちが湧き、立ち上がっては激痛に沈没することを繰り返す。6時を過ぎ、健常でも間に合うまいと諦めがつき、善後策を考えた。なるべく遅くチェックアウトし、交通機関を補助に使用し、早めにチェックインする。それならば10時に出発し、国分寺からなおもしばらく遍路道を辿り、伊予三芳あたりからJRを利用して西条まで行く。少し遅めの昼飯・昼酒で時間を潰せば、それほど待たずにチェックインできるだろう。

 
 国分寺。
 

宿の真向かいにあるコンビニエンスストアで新聞を買い込んで時間を潰す。予定通りの10時に出発し、国分寺に着いたのは45分、ゆっくり歩いても時速4キロくらいにはなるようだ。痛みの方もいざ歩き出してしまえばあまり苦しめられることもない。
  晴天微風で、絶好のウォーキング日和だ。日射しの強さを感じ、日焼け止めクリームを鼻筋と(受光率の高い)額に塗った。この手のクリームを使用するのは初めてだが、何故こんなに強い香料が入っているのだろうか。辟易するが代替物もなく我慢。
  出発後40分ほどで国分寺に着く。団体客に遭遇することもなく、静かな境内だった。
  国分寺を出てしばらく歩き、地図上で前方に伊予桜井駅を見付けたとき、善後策より気の利いた案が浮かぶ。駅まで行き、適当な列車が利用できれば、それで伊予小松まで行く。此処で昼飯・昼酒にすればそこから西条への10キロをほろ酔い機嫌で歩き、ほぼ最早チェックイン時刻に着くだろう。
  駅へ到着し時刻表を見ると、15分待ちで 11時42分発の伊予西条行きがある。先ずは好ましいタイミングだ。体の故障では気分的に落ち込んだが、天候の良さに加え、このような小さい巡り合わせの良さでも、随分恢復できる。

7.駅前食堂

 上:コノシロの姿寿司。  

定刻に到着した二両編成のワンマンカーはがらがらに空いていた。明媚で長閑な田園風景の中を行く。遍路道は予讃線と絡み合うようになっているため、懐かしい風景も随所で見かける。
  乗車時間18分で伊予小松に到着。予定通り歩いていれば、回り道を辿るとはいえ九時間ほどを要しているはずだ。
  ともかくここへ来た目的である食事場所を探した。ごく小さな駅前広場に面して一軒の大衆食堂とその筋向かいにハイカラな装いの洋食屋がある。洋食屋は若者向けの雰囲気ゆえ敬遠し、いぶしのかかったような食堂に入った。
  先客は四人いて、店の中央に常連らしいオバサン二人、奥の方にさらに馴染みらしいオヤジが二人ビールを飲んでいた。いかにもローカル線の駅前食堂らしい雰囲気に嬉しくなる。七十近い店のオヤジが水を運んできたので、冷や酒と野菜炒めを注文する。昨日に次ぐ野菜炒めなれど、メニューからは他にツマミになりそうなものが見当たらなかった。
  多少待たされて運ばれてきた野菜炒めは、鉄製の小判型ステーキ皿の上でジュウジュウ音を立てている。いささか意表を突かれたが、食べてみてさらに驚いた。材料として、豚肉、タマネギ、キャベツ、モヤシなどの一般的なものに加え、グリーンアスパラ、筍、生椎茸など全部で九種類も使用し、そして美味である。
  このような不意打ちは嬉しくなる。足の故障によりこの店にたどり着いたならば、まさに塞翁が馬と云うべきか。二杯目を飲み始め、もう少し余裕を持って店内を観察した。カウンターの片隅には中皿に盛られた数種類の総菜と姿寿司がある。最初からこれに気付けば、総菜をツマミにしていたと思うが、野菜炒めに不満はない。今は飲んだ後の姿寿司に興味が移った。
  席を立って、カウンターの中にいた女将に尋ねる。魚はコノシロで彼女の手作りだった。伝統的なスタイルは頭を付けたままで出し、頭ごと食べるものであったが、今となってはこのような食べ方をする人がほとんどいなくなってしまった云う。ちなみにコノシロに馴染みがなかったけれど、小型のものをコハダというらしい。これならば寿司ネタ、あるいは正月食品として関東でもごく一般的だ。
  閑話休題、三杯の酒と姿寿司に満足して店を出る。出掛けに夜の営業時間を尋ねた。西条で好みの居酒屋が見つからなければ、此処まで来て総菜で一杯やるのも悪くないと思ったためだ。こんな問いかけは店の人にとっても嬉しいらしく、にこにこ顔で8時までと教えてくれた。
  午前中の好天は去り、小雨模様になっている。傘をさすほどではなく、西条までの10キロをのんびりと歩いた。思惑通り3時ちょっと過ぎに宿へ到着。
  チェックイン後、朝食用食料をコンビニエンスストアで調達し、ついでに駅界隈の飲み屋事情を概観するが、あまり魅力的には思えない。駅に寄って列車の時刻を調べた。4時58分で伊予小松へ行き、6時59分で戻れば良さそうだ。

 晩酌にイカの煮物、コノシロ天麩羅の煮付け、蕗、虎杖いたどりなど。
 
 食堂の外観。
 

シャワーを浴びてから時間調整し、予定の電車に乗る。小松まで12分の乗車で運賃は210円。車内は下校中の学生が中心で、座席はほぼ埋まっている。利用者が多いためか、車掌も乗務していた。
  食堂の引き戸を開けると、客はおらず片隅に女将と亭主が坐ってテレビを見ていた。まさか来るとは思っていなかったらしいが、すぐに笑顔で歓迎してくれた。
  昼間、食べ損なった総菜料理で飲む。コノシロの煮物は温め直してくれた。電子レンジなど使わず、油で揚げ直すと云う。この店らしくて良い。オヤジは無口だが女将の方はうるさくない程度に抑制を利かせ、気さくに四方山話をする。
  この地方も魚類は安価らしく、商売をしていることもあり、何かというとトロ箱で買い込んで捌くらしい。キビナゴならば百匹ぐらい、コノシロでも三十匹くらいをおろすのは日常的なことと云う。
  以前は旅館も営業していたらしく、その当時は石鎚山の山開き前日に大勢の宿泊者があり、一番乗りを目指して深夜に出発する人が多くて大変だったとか。広島や熊本からも講を組んで多数来たらしい。
  さらに先代の若い頃は、部屋だけでは泊めきれず、食堂の椅子机を全部表へ出し、布団を敷き並べて雑魚寝をした。そこまでは良いが、酒に酔って頻繁に喧嘩が始まり、血みどろの乱闘騒ぎがつきものだったそうだ。
  話題もツマミもご機嫌で六杯を飲んで打ち上げにした。いささか酔い過ぎたようにも思うが、それでも帰りがけに店の外観を撮影をできる程度ではあった。

8.民宿岡田
  2時半に目覚ましで起床する。今日の行程と体調その他を勘案し、せめて半時間早く出発することにしたのだ。窓を細めに開けて表の様子を窺うと、小雨が降り続いているが、風はない。
  食事しながら、地図に書き込み、予習。荷造りや足肉刺のメンテナンスとトイレなど思った以上にもたついてしまった。ザックにカバーを掛け、折りたたみ傘を差して出発したのは4時40分になっていた。宿の位置が遍路道から大きく外れていたこともあり、暗いうちは判りやすい国道を辿った。夜が白々明ける頃、旧道に分岐し、間もなく遍路道に合流する。
  以後延々と旧道歩きが続く。交互一車線程度の舗装道路だ。8時頃に雨は上がり、10時に土井を通過する頃には強い日射しが戻った。折りたたみ傘を日傘替わりに使いながら乾かす。土井を過ぎて間もなく、乾いた傘を畳んで、臭気に憮然としつつ日焼け止めクリームを塗る。
   11時を廻り、寒川辺りで遍路道を離れて国道を行く。勿論、遍路道の方が歩きやすいけれど、食堂その他がないため、そのままでは昼飯抜きになってしまう。保存 協会地図から三島市街はずれのファミリーレストラン・ガストをターゲットにしていたが、だいぶ手前で回転寿司店を見付けてそちらへ入った。機会を確実に利用した方が、旅先ではリスクが低くなる。
  ファミリーレストランや回転寿司は、およそ縁がないため気後れはあった。ともかく冷や酒を頼むと、即座に運ばれてくる。ツマミも眼前のものを取るだけだから、これまた待つことがないに等しい。厳しい行程で、食事時間を切りつめたいから、これは気に入った。
  正体不明の皿があったので、目の前にいた店長に尋ねると、鯛のあら煮と教えてくれ「旨いですよ」と云う。異議はないが、丁寧に食べていると時間がかかりそうなのでパス。半時間かからずに三杯と数皿を平らげ、勘定は二千円強。安くて早く、現物を確認してから食べられるのも良い。急ぎ旅の際には利用価値が高いと思う。遍路道沿いにはないのが欠点だが。  

 三角寺。
 

地図で至近ルートを探し遍路道に戻る。住宅地の中を抜け、高速道路をくぐると、間もなく三角山への登りが始まる。標高差250メートルばかりなので大したことはない。三角寺に着いたのはそれでも2時20分になっていた。
  ここから椿堂までは、舗装されているがほとんど車の通らない、眺望にも比較的恵まれた道だ。沿道ではかつて三星ゴルフ場が営業していたけれど、倒産して久しい。しかし工事関係のトラックを数台見かけたので、再開の動きがあるのかもしれない。
  椿堂を過ぎると、国道192号線の緩い上り坂を歩かされる。民宿岡田に電話し6時半を目標に歩いていることを伝えた。遅めの到着になるので余計な心配をかけたくない。
  味気ない国道歩きが半時間以上続き、境目峠のところでようやく遍路道が分岐する。ところが分岐してすぐのところにある道標に左方向がAxxx Bxxx と書かれていたので、右が@かといい加減に判断した。この道標は岡田のオヤジさんが設置したものと後で判り、@は保存協会地図を参照すれば、まるで無関係の方面であった。
  つまらない間違えをしたけれど、右方向へしばらく行くと雲辺寺を示す道標も出現し、多少遠回りしたものの、無事境目峠を越えることができる。再び国道と合流するところにドライブイン水車があり、コンビニエンスストアを併設している。ここで明日の朝食調達を考えていたが、水曜定休で当てが外れた。岡田では昼食用のお握りを「接待」してくれるので、これで何とかしのごう。
  宿へ到着したのは6時10分だった。三年前には5時前に着いたのに。前回の方が早い理由に、昼飯抜きで、境目トンネルを通過したことが挙げられる。しかし距離的には今回の方が4キロほど短いので、総合的に考えれば、やはり衰えていると云うことか。
  案内された部屋は前回と同じだった。馬路川のせせらぎを見下ろす良い部屋だ。しかしそんな楽しみもそこそこに、急ぎ汗を流す。他の宿泊者は全員風呂も済み、食事が始まろうとしていた。
  遅れて食卓に参加する。六畳の台所を兼ねた和室で、一つの食卓を囲む。多少狭い感じもするが、お互いの物理的距離の近さは心理的なものにも影響するのか、和気藹々となる。此処の夕食に対する期待が、今回の旅を思い立った動機の一つでもあった。何故そうなるのか?
  宿泊できるのがせいぜい八人程度(この日は私を含めて七人)と、こぢんまりしている上に、立地条件から歩き遍路しか泊まらないのが良い。そして何よりも大きいのはオヤジさんの人柄だろう。民宿経営者の良心と云ったものを越え、お遍路に対する接待の精神に満ち溢れ、そのことを楽しんでいる様子が宿泊者を和ませる。
  遅れての参加だったが、同宿者との会話を楽しむことができた。二十代の女性一人と、後は皆六十過ぎで、夫婦が一組、残りはオヤジ遍路だった。此処まで来たと云うことは六十五カ所、千キロ以上をこなしているわけで、それぞれ話題も豊富だった。

9.善通寺へ

  雲辺寺へ登る途中で朝日を眺める。5時49分、標高500メートル。ちなみにこれまではデジタルカメラデータから時刻のみが判ったが、今回はGPSにより、位置情報や標高も判る。

4月26日、旅も終盤に近づいた。三年前にこの辺りを通過したときは三段跳作戦と自ら名付けた行程を組み、最後のジャンプで善通寺に着地するはずが、体調などの理由ではなく、宿を見付けることができない故に転けてしまった。その口惜しさが、主たる動機となり旅だったものの、助走を失敗し、ホップ(踏切?)で転け、既に三段跳びは成立しなくなっている。それでもせめてジャンプだけ はまともに着地したい。
  そんな覚悟で3時起床、5時出発を実行した。同宿者は寝静まり、母屋に明かりは点いていたものの、状況が判らないので、声を掛けることもなく歩き出す。山間にある佐野集落はまだ夜のとばりから脱していなかったが、登山口に着いた頃には、道筋や道標をはっきり目視できるまでになっていた。
  杉木立の中に急勾配の、それでも歩きやすい道が続く。傾斜はほぼ一定で、途中に下りがないことも高度を稼ぐ上で有り難い。一時間弱で標高差400メートルを登り、上の舗装道路へ出た。

 雲辺寺大師堂。
 
 雲辺寺からの下り山徑分岐点。
 

此処から雲辺寺までほとんど舗装道路を歩く。途中軽乗用車に追い抜かれ、車内には白装束の若いカップルとテリア系の小型犬の姿が見えた。
  間もなく雲辺寺到着、6時50分。
納経所は閉まっているし、ロープウェイは勿論動いていないので、境内は閑散としている。標高900メートルなので気温9℃と低めだが、歩いて温まった体には気持ちよい。
  大師堂の前で先ほどのカップルが読経を行っていた。手前の金剛杖立てに犬が繋がれていた。特注(?)の南無大師遍照金剛が墨書された白衣を着せられている。ひょっとすると「境内に犬の連れ込み禁止」対策かもしれない。
  境内が深閑としていたため、つい長居をしたが7時5分に下山を開始する。急な下りが標高差にして700メートル続き、登りより厳しく感じられた。三日前に仙遊寺からの下りで足肉刺を傷めた記憶がまだ鮮烈なので、足裏に負担をかけないよう、慎重に下った。
  およそ1時間半で開けたところに出る。ミカン畑の間に続く舗装道路は、相変わらず下るものの、勾配は緩やかだ。今日の行程で最大の難所は通過したが、距離に関しては33キロも残っている。記憶に残る道筋を脳裏で再現してみると、うんざりするばかりだが歩くしかない。気持ちよく晴れ、爽やかな風が吹くことを励みに前進した。

上左:太興寺本堂。上右:神恵院本堂。左下:観音寺大師堂。右下:本山寺本堂
 

9時45分に太興寺へ辿り着く。入るときは遠回りながら一応表の山門から行き、出るときは近道の駐車場から遍路道へ戻る。田園風景の中の、長閑にせよ面白味に欠ける路を耐え歩き、国道11号線を越えて間もなく、二十人弱の団体に追いついた。先頭としんがりは墨染めの衣を纏う僧侶だから、どこかの寺が主導し、檀家の連中と歩いているのだろうか。人数が多いので挨拶も面倒に思われ、道路の反対側を通って一気に追い抜いた。
  以後、神恵院、観音寺、本山寺を訪れ、本山寺を退去したときは12時半を回っていた。このすぐ先に三年前利用した、日本料理の店があるはずだ。丁度頃合いも良く、これを目指して歩みを早めた。 東側の門を出て、門前町商店街を抜けると、国道11号線に合流する。この辺りと見回したが見つからない。
  菊川郊外のラーメン屋みたいなこともあるから、これもまた記憶の錯乱かと、ともかく善通寺を目指して歩く。10分ほどして、(記憶通りの右側に)紺色暖簾の一平食堂を見付けてホッとした。記憶の当てにならなさと、「近くに在って欲しい」願望に引き摺られることをしみじみ思う。
  イカ刺しともずく酢で冷や酒を始める。鰹のタタキが気になったが、冷凍物と聞いてやめにする。オヤジに云わせれば冷凍の方が品質的に安定するとのことで、確かに高知あたりのように安定した消費が見込めないところでは致し方なかろう。替わりに鯛頭のあら煮にした。昨日、食べ損なった恨みもあったし。
  1時を過ぎて他に客もいないため、オヤジと四方山話になる。三年前にこの店を訪れたことを言うと、風貌を僅かながら覚えていたらしい。禿に髭ならば記憶に残りやすいだろう。彼も八十八カ所を詣りたい気持ちはあるが、それとは裏腹に、ここ数年休むことなく営業しているそうだ。
  この日は「たかだか全長48キロ」の気持ちがあり、つい寛いで昼食に一時間費やした。2時に店を出ると、気分を引き締め弥谷寺を目指す。10分ばかり歩いて男女の学生風遍路に追い着いた。カップルではなく、たまたまその時一緒になったらしい。
  男の子は先ほど門前町商店街の肉屋店内で見かけたので、そのことを訊くと、ニッと笑って「コロッケを買ってました」と教えてくれた。しばらく三人で歩いたが、ペースが違うようなのでバラバラになる。私が一番早く、彼は荷物が重いのか一番遅い。
  至る所に溜め池のある、讃岐らしい田園風景の中を行く。途中国道へ戻り、ローソンで水分補給用のお茶ペットボトルを買い、ついでにトイレを拝借。遍路道に戻ろうと して、合流点で先ほどの女の子とばったり出会う。今日どこまで行くのか訊くと「門先もんさき屋さんまで」との答えだった。三年前失速して泊まった宿だ。
  そこから一時間ほどで弥谷寺に着く。本堂にいたる380段の階段で、一応難所と云うことらしいが、標高差にすれば80メートルほどで、息を切らすこともなく一気に登りきる。
  本堂前は視界が開け、今日歩いてきた観音寺平野を見渡すことができる。参拝に来たジイサンと、彼方に霞む山嶺が剣山かどうかなど話し込んでいると、横を先ほどの女の子が通り過ぎていった。

  出釈迦寺前から。中央僅か右にある小山が甲山で甲山寺はその向こう側にある。ちなみにこの写真はカメラの設定ダイアルが知らぬうちに動き、オートのつもりがマニュアルに替わっていた結果、著しい露出不足になったものを、強引に補正した。画像が見苦しいのはそのためで、忌々しいことだ。
 

弥谷寺から出釈迦寺まで一時間、さらに1キロ弱離れた曼荼羅寺に着いたときには5時40分を廻っていた。本堂をバアサンが閉めているところで、コンニチハと挨拶すると、ニコニコ応えてくれる。
  寺の脇を、先ほどの女の子がかなり疲れた足取りですぐ隣の門先屋へ向かうのが見えた。納経所は既に閉まっているから、明日一番に出釈迦寺と曼荼羅寺を打つのであろうか。
  三年前に同じコースを辿って、此処に着いたのが4時45分だから、一時間遅れと云うことだ。一平食堂でのんびり過ごし、歩く際には幾分だらけたところがあったとはいえ、やはり衰えが感じられる。ともかくあと5キロ歩かないと宿へ着かないので、再び歩き出した。
  甲山寺も参拝者がおらず、善通寺はさすがに無人ではないものの静かで良かった。善通寺を出て、GPSを初めてナビゲーションモードで使用してみる。確実に距離が縮まることを確認しつつ、曲がるべき角も適切に教えられ、距離がゼロになったとき目の前に宿があったのは、当たり前ながら一種の感動があった。到着は7時10分前になっていた。

10.ウィニングラン 
  明日の予定を決めないまま、筋向かいのコンビニエンスストアで朝食用飲食物を買う。邪魔になることもないだろう。シャワーを浴びると、フロントで教えて貰った居酒屋へ。好みの店ではなかったが我慢する。善通寺では居酒屋の数も少なく、探しても空振りの可能性が高かった。定量を飲み干し、寐る前に明日の歩行距離を調べた。丸亀まで10キロ、坂出まででも17キロしかない。早起き早出の必要はなくなった。
  4時頃に目を覚ますが、寛いだ気分で二度寝した。5時半に起床し、外を見ると、高曇りの穏やかな天気だ。弁当の朝飯を食べながらこの日の予定を考える。
  既に「ジャンプ」で着地したから、積極的に歩く動機はない。夕方神戸で友人と落ち合うべく、丸亀からの高速バスは予約済みで、発車時刻は11時10分。これまでの時間が適当に潰れればよい。 気分はウィニングランだ。7時から歩き始めても、距離的に大したことがないから、のんびり歩いても坂出まで行けるかもしれず、その場合には携帯電話で予約を修正すればよい。

  金倉こんぞう
 

こんな構想で地図に距離程を記入し、7時に宿を出発した。土讃線を渡り、県道319号線を越えると、舗装こそされているものの、田圃の中に昔と(おそらく)変わらない遍路道が続く。金倉(こんぞう) 寺に着いたのは7時40分だった。
  本堂前では団体が花木魚まで鳴らして騒々しく読経しているので敬遠。そのまま裏手から次へ向かおうとしたが、納経所前にオヤジ遍路が一人地図を見ていたので挨拶をする。
  金倉 寺の裏手は徑が判り難く、一回目はビギナーズラックで通過したものの、二回目は地元のお年寄りに先導して貰った。多少なりともその恩返し的なことができないかと思ったのだ。結果的に大して役にも立たなかったが、そんな思いが湧くのもウィニングランの余裕だろうか。
  田圃の中に続く道なので並んで話しながら行く。西条の人で、三角寺から打ち始め、前神寺を打ち上げとするらしい。雲辺寺からの下りで多少足を痛めているとのことなので、判りやすい道に達したところで別れた。
  道隆寺には8時半到着、裏手から出ると味気ない県道歩きが始まる。感性レベルをなるべく下げて黙々と歩くこと40分、丸亀市街中心部に達し、西日本JRバス予約センターに電話した。変更を告げ、坂出でのバス乗り場を教えて貰う。
  郷照ごうしょう寺 を10時に通過し、歩みを早めた。バスの到着時刻、11時35分を考えると、今回まだ食していない讃岐うどんを味わえそうだ。勿論そうなれば、冷や酒の二、三杯が前提となる。しかし一度弛緩してしまった精神と肉体は、簡単に戻れないのか、思ったほど速度が上がらない。結局坂出駅に到着したのは、11時10分前、駅周辺のうどん屋を探して、虚しく10分が経過し、諦めようと高架駅の一階部分に売店を探して入った。
  ところが此処に全国へ向けて地元のうどんを発送していると云う「亀城庵」がアンテナショップ的なものを開いていた。入り席に着く間も惜しんで冷や酒とツマミを頼み、酒が運ばれてきたとき、うどんができるのに必要とする時間を尋ねた。バスの時刻から逆算して、注文するリミットを確定するためだ。ウェイトレスは厨房に訊きに行ったが、すぐ戻ると「どれでも3分ぐらいです」と云う。
  これはいかにも短い。ちなみにインターネットで調べるとこの亀城庵が釜揚げうどんならば6分を目安としている。茹でうどんを使用しているならば、基本的に立ち食いうどんと変わらなくなるが、この際そんなことは無視することにした。
  冷や酒を二杯干し、11時15分、三杯目と一緒に釜揚げうどんも注文する。約束通り3分で運ばれてきたのを忙しなく胃袋に流し込み、身支度をして勘定。店から50メートルのバス停に着いたのが30分だった。いささか品性に欠ける飲食であったと反省しつつ、ゆっくり廻ってくるほろ酔いに身を任せ、讃岐、阿波、小豆島、明石海峡の明媚な風景を楽しみながら神戸に向かったのだった。

 ――― 完 ――――